この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

『ヒルズ・ハブ・アイズ』、今こそ必見のホラー映画。

2011-06-15 22:56:55 | 旧作映画
 アレクサンドル・アジャ監督の『ヒルズ・ハブ・アイズ』をDVDで見ました。

 ここにも何度か書きましたが、家でホラー映画を見るのが苦手です。
 ホラー映画、劇場で観る分には結構平気なんですけどね。
 『SAW』シリーズは全作、『レック/REC』や『マーターズ』なんかも劇場で観ましたから。
 一人で見る、っていうのが耐えられないんです。
 誰かが一緒にいてくれたら平気なんですけど。
 自分ではそれを面堂終太郎体質って呼んでます。笑。

 先週末、ゲオでDVDを六本借りて、そのうち五本は鑑賞を終えて、この『ヒルズ・ハブ・アイズ』が六本目だったんですけど、見らずにそのまま返しちゃおうかって最初は思ってました。
 何といってもツタヤで取り扱いを拒否されている、いわくつきのホラー映画ですからね。
 どんな恐怖を味わわされるか、想像がつかず、それに耐えきれるのかも自信がなかったのです。

 でも、拙ブログの数少ない常連であるEさんが、
>私は全然こわくなかったです。せぷサンも一人でみれるんじゃないかなぁ?
と言ってくださったので、思い切って見てみました。

 で、感想なのですが、、、面白い!!
 ツタヤの件があるので、自分はよっぽどゴア描写が強烈で、理不尽極まりない内容の、鑑賞後不愉快な思いをするホラー映画なんじゃないかって思ってたんですけど、全然そんなことはなくて、よく考えられ、よく工夫された、非常に出来のよい真っ当なホラー映画でしたね。

 まず何に感心したかというと、キャラクターがよく考えられていること。
 本作は核実験により被爆、奇形化した食人鬼たちと、食人鬼が潜む荒野に迷い込んだカーター一家の戦いのお話です。
 そんな荒野にフツーの旅行者は足を踏み入れたりしませんから、一家が途中で立ち寄ったガソリン・スタンドのオヤジが嘘の道案内をするのです。
 そうすることでオヤジは食人鬼たちからいくばくかの金目のものを受け取っています(まぁ日用品の調達を頼まれてるのかもしれないが、どちらであれ大差はないでしょう。)。
 自らの手を汚さずとも、適当に目星をつけた旅行者に嘘の道案内をするだけでたんまりと謝礼をもらえるのですから、考えてみればこんな美味しい話はありません。

 しかし、オヤジはそのことを悔いてるんですよ。殺人の手助けをするのはウンザリだ、と思ってる。
 だから、最初、オヤジはカーター一家にフツーに給油して、そのまま行かせようとします。
 ところが一家の長女に、見られてはいけないものを見られたのでは、と疑念を抱き、結局嘘の道を教えるのです。
 平凡なホラー映画であれば、一人の脇役に、ここまで複雑な性格付けはしないでしょう。
 よく考えてるなぁと感心しましたよ。

 複雑な性格付けをされてるのはもちろん彼だけでなく、主人公もそうです。
 っていうか、本作は途中まで誰が主人公なのかわかんないんですよ。
 でもある時点で、あぁ、コイツが主人公だったのか、と気づかされます。
 で、最後まで見るとコイツ以外主人公はありえん、って思っちゃう。
 意図的に、そして計算ずくで主人公は序盤では目立たないんです。
 上手いなぁとやはり感心させられました。


 本作は真っ当なホラー映画である、と述べました。
 真っ当なホラー映画とはどういったものを指すか、ここではその説明を省きますが、その条件の一つに、ティーンネイジャー(特にローティーン)の若者、そして年端もいかない子供は殺されない、というのがあります。

 言うまでもなく、現実社会において子供は弱者です。
 ですから、殺人事件の被害者になる可能性は一番高いといえます。
 通学途中の小学生の列に暴走車が突っ込んだり、母親の交際相手に殺されたり、炎天下のパチンコ屋の駐車場に実の親から放置されたりと、子供が被害者となる殺人事件のニュースは毎日のように耳にします。

 しかし、ホラー映画において、子供が殺されることは稀です(まったくないというわけではない)。
 かの『13日の金曜日』シリーズでローティーンの子供がジェイソンに殺されたことはないと聞きます(本当かどうかの確認まではしていません)。
 また『エスター』ではエスターに関わった大人たちのうち何人かは悲惨な最期を遂げますが、幼い兄と妹は生き残ります。
 『二十八週後…』では、ゾンビで溢れ返ったイギリスをやはりローティーンの姉と弟がぎりぎり生き延びます。

 ホラー映画ではなぜ子供が殺されないのか?
 理由は一概には言えません。
 現実世界への影響に配慮したのか、何かしら不文律があるのか、それともそういう枷を自ら課した方が作品が面白くなると考えているのか、一つ言えるのは、上質なホラー映画の作り手は、きちんとした倫理観を持ち合わせており、誰が殺されて、誰が殺されるべきでないか、自らの裡にはっきりと境界線を引いているってことです。

 無論、子供たちが不自然に危険な目に合うこともなくエンディングを迎えてしまっては作品そのものが興ざめなものになってしまいます。
 なので、子供たちは文字通り“死ぬ”ほど恐ろしい目に合わされますが、作中死ぬことはありません。
 本作において、食人鬼たちは、好き放題、やりたい放題にやっているように見えて、その実、監督であるアレクサンドル・アジャがしっかりと手綱を握ってコントロールしているのです。
 そこら辺の演出の上手さも感心しました。

 
 いつもであれば、これぐらいでレビューを終わらせるところなのですが、今この時期に、この作品を見て、思うところがありました。
 本作における食人鬼たちは、核実験によって被爆、怪物化したしたという設定です。
 つまり元々は普通の人間だったんですよね。
 その食人鬼の一人が出鱈目なメロディで物悲しくアメリカ国歌を口ずさむシーンがあります。
 そのことから食人鬼はアメリカを、自分が生まれた国を愛していた、ということがわかります。
 そして、信じていたんですよね。
 近くの炭鉱で自分たちが働いている限り、核実験が行われるはずはない、と。
 で、裏切られた。
 その構図って、今の日本とまるきり同じじゃないですか。
 もちろん核実験と原発トラブルという違いはありますし、福島県人が放射能で怪物化するといってるのでもありません。
 でも、愛していた、信じていたはずの国から裏切られたという一点では共通するのではないかと思うのです。

 
 アマゾンのレビューで、本作を指して、「広島や長崎の被爆者がどれだけ苦しんだと思っているのか、不謹慎だ」と書いている人がいましたが、自分はそうは思いません。
 本作が不謹慎だというのであれば、『ゴジラ』シリーズは不謹慎の極みでしょう。
 原爆によって生物が巨大化するなんてありえないですし、その巨大生物が人間の味方になるというのですから、ある意味『ゴジラ』シリーズは、原爆を正当化しているといえます。
 無論そんな見方は間違ってますが。

 本作を見て自分が感じたのは、奪われた者の心の叫びでした。
 本作を見た人のほとんどが、食人鬼は人肉を食す目的で旅行者を襲っている、と捉えたようですが、自分はそうは思いませんでした。
 食人鬼たちの目的はあくまで金品の略奪行為にあり、人肉食はそれに付随する結果にすぎないのではないか。
 彼らは衣服を身に着けているし、銃の撃ち方も知っている、テレビも見れば、車の運転もする、それなりに文明的な暮らしをしています。
 であれば日々の暮らしにいろいろなものが必要なはずです。日用品とか、ガソリンとか。
 すべてを奪われた彼らがそれらを得るために取れる手段は限られています。
 彼らは怒りで我を忘れてはいるものの、案外まともなのではないかと思いました。
 その根拠は食人鬼一族の中の、ルビーという少女の存在です。
 彼女の存在が、物語に深みを与えているように思えます。
 怪物のような見た目をしているからといって、魂までが怪物だとは限らない。
 当たり前のことですが、我々はそのことを忘れがちですよね。
 彼女の最後の行動に、自分はハッとさせられました。

 よい作品を見れたと思います。
 Eさん、ありがとうございました。
コメント (17)
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