ジョシュ・トランク監督、デイン・デハーン主演、『クロニクル』、10/14、TOHOシネマズ天神にて鑑賞。2013年46本目。
私事ですが、ブログにコメントが一週間つかないとひどく凹みます。
先日そのことをツイッターで呟いたら、そういうことに囚われるのは良くないですよ~とある人から諌められました。
その人が言ってることが正しいということは頭ではわかります。
でもダメなんです。どうしてもコメントがつかないと凹むのです。
なぜ自分がそこまでコメントにこだわるのか?
理由は単純、コメントがつかないと誰からもブログを読んでもらえていないのでは?と考えるからです。
大多数の人は言うでしょう、その考えは間違ってる、コメントがつかないからと言って読まれていないということにはならない、と。
えぇ、自分もそうだと思います。理屈でいえば「コメントがつかない」=「読まれていない」ではないということぐらい自分にもわかります。
実際、コメントはしないけど読んでますよ、と言ってくれる人もいますしね。
でもダメなんですよ。そういうふうに理屈で割り切れないのです。
例えて言えば、高所恐怖症の人に「高い所に立ったからといって死ぬわけでもないし、怪我をするわけでもないですよ」と言うようなものでしょうか。
その言葉は100%正しいですよね。
高い所に立っただけでは死ぬこともないし、怪我をすることもない。
けれど高所恐怖症の人は100%正しいはずの言葉に従って高い所に立てるかというとそれが出来ない。
理屈じゃないんですよ。
高所恐怖症の例えが上手く的を射ているのかどうかはわかりませんが、理屈じゃないという点においては自分の場合と共通しています。
結局のところ、自分が囚われているものがあるとしたら、ブログにコメントがつくとかつかないとか、そういうことじゃないんですよね。もっと大きいものなんですよ。
それは何かというと「不信」。自分は他人を信じる力が極端に弱いのです。
コメントはしないけど読んでますよ、と言ってくれる人の言葉を信じることが出来ないのです。
コメントはしないけど読んでくれている人の存在を信じることが出来ないんです。
コメントがないということは読んでいる人が誰もいないと思ってしまうのです。
終いには誰も読む者がいないブログは果たして続けていく意味があるのだろうか、なんて考えてしまいます。
書いていて情けなくなってきましたが、何でそういうことを書いたのかというと(今さらこういうことを書いて同情や共感を得られるとは思っていません。たぶん逆効果でしょう。)、他でもない、先日観た『クロニクル』が「不信」の物語だったからです。
主人公の高校生アンドリューは絶望の世界の中で生きています。彼には何もないんですよ。友だちもいなければ恋人もいない。いとこのマットが高校になってから学校の送り迎えをしてくれるが、彼とは長く疎遠だった(見捨てられていたとアンドリューは思っている)。これといった趣味も特技もない。彼はなけなしの金で買ったビデオカメラでそんな何もない生活を記録していく。
もうね、この序盤のシーンだけで泣きそうになりましたよ。
何もない生活を記録したって楽しいわけがないんですよ。しかし彼にはそれしか撮るものがないんですよね(自分がひたすらブログを続けているのと一緒の理由だ…)。だから泣ける。
そんな彼がある日不思議な力を身につけます。超能力、もう少し詳しく言うと念動力ですね。念じただけで物を動かせるようになるのです。
アンドリューたち三人が超能力を開発していく過程は観ていてすごく楽しいです。永遠に続けばいいと思うぐらいに。
でも、ダメなんですよ。
なぜならアンドリューは「不信」という病に重く冒されてるから。
同じく超能力を得たスティーブに、俺たちは親友だろ、と言われるのですが、アンドリューはその言葉を信じることが出来ないんです。
冷静に考えれば、スティーブが本気でそう言ってることがわかるはずなのですが、アンドリューはスティーブを拒絶し、そのせいで悲劇が起こります。
クライマックスでは暴走したアンドリューと彼を何とか引き留めようとするマットとの壮絶な戦いが繰り広げられます。
一旦止んだ戦いの中でマットはアンドリューに言うんですよ、このまま二人で旅に出ようって。
スティーブ同様マットも心からそう言うのですが、やはりアンドリューはその言葉を信じないのです。
自分はもう満点をつけてもいいのですが、ミクシィのレビューを見ると結構評価が分かれているみたいです。
まぁわからないでもないかな。
「孤独」や「不信」に悩んだことがない人はなぜアンドリューがスティーブやマットらの言葉を信じず、彼らのことを拒絶したのかもわからないでしょうからね。
そういう人たちはそれはそれで幸せなのでしょう。
お気に入り度は★★★★★、お薦め度は★★★★(★は五つで満点、☆は★の半分)です。
私事ですが、ブログにコメントが一週間つかないとひどく凹みます。
先日そのことをツイッターで呟いたら、そういうことに囚われるのは良くないですよ~とある人から諌められました。
その人が言ってることが正しいということは頭ではわかります。
でもダメなんです。どうしてもコメントがつかないと凹むのです。
なぜ自分がそこまでコメントにこだわるのか?
理由は単純、コメントがつかないと誰からもブログを読んでもらえていないのでは?と考えるからです。
大多数の人は言うでしょう、その考えは間違ってる、コメントがつかないからと言って読まれていないということにはならない、と。
えぇ、自分もそうだと思います。理屈でいえば「コメントがつかない」=「読まれていない」ではないということぐらい自分にもわかります。
実際、コメントはしないけど読んでますよ、と言ってくれる人もいますしね。
でもダメなんですよ。そういうふうに理屈で割り切れないのです。
例えて言えば、高所恐怖症の人に「高い所に立ったからといって死ぬわけでもないし、怪我をするわけでもないですよ」と言うようなものでしょうか。
その言葉は100%正しいですよね。
高い所に立っただけでは死ぬこともないし、怪我をすることもない。
けれど高所恐怖症の人は100%正しいはずの言葉に従って高い所に立てるかというとそれが出来ない。
理屈じゃないんですよ。
高所恐怖症の例えが上手く的を射ているのかどうかはわかりませんが、理屈じゃないという点においては自分の場合と共通しています。
結局のところ、自分が囚われているものがあるとしたら、ブログにコメントがつくとかつかないとか、そういうことじゃないんですよね。もっと大きいものなんですよ。
それは何かというと「不信」。自分は他人を信じる力が極端に弱いのです。
コメントはしないけど読んでますよ、と言ってくれる人の言葉を信じることが出来ないのです。
コメントはしないけど読んでくれている人の存在を信じることが出来ないんです。
コメントがないということは読んでいる人が誰もいないと思ってしまうのです。
終いには誰も読む者がいないブログは果たして続けていく意味があるのだろうか、なんて考えてしまいます。
書いていて情けなくなってきましたが、何でそういうことを書いたのかというと(今さらこういうことを書いて同情や共感を得られるとは思っていません。たぶん逆効果でしょう。)、他でもない、先日観た『クロニクル』が「不信」の物語だったからです。
主人公の高校生アンドリューは絶望の世界の中で生きています。彼には何もないんですよ。友だちもいなければ恋人もいない。いとこのマットが高校になってから学校の送り迎えをしてくれるが、彼とは長く疎遠だった(見捨てられていたとアンドリューは思っている)。これといった趣味も特技もない。彼はなけなしの金で買ったビデオカメラでそんな何もない生活を記録していく。
もうね、この序盤のシーンだけで泣きそうになりましたよ。
何もない生活を記録したって楽しいわけがないんですよ。しかし彼にはそれしか撮るものがないんですよね(自分がひたすらブログを続けているのと一緒の理由だ…)。だから泣ける。
そんな彼がある日不思議な力を身につけます。超能力、もう少し詳しく言うと念動力ですね。念じただけで物を動かせるようになるのです。
アンドリューたち三人が超能力を開発していく過程は観ていてすごく楽しいです。永遠に続けばいいと思うぐらいに。
でも、ダメなんですよ。
なぜならアンドリューは「不信」という病に重く冒されてるから。
同じく超能力を得たスティーブに、俺たちは親友だろ、と言われるのですが、アンドリューはその言葉を信じることが出来ないんです。
冷静に考えれば、スティーブが本気でそう言ってることがわかるはずなのですが、アンドリューはスティーブを拒絶し、そのせいで悲劇が起こります。
クライマックスでは暴走したアンドリューと彼を何とか引き留めようとするマットとの壮絶な戦いが繰り広げられます。
一旦止んだ戦いの中でマットはアンドリューに言うんですよ、このまま二人で旅に出ようって。
スティーブ同様マットも心からそう言うのですが、やはりアンドリューはその言葉を信じないのです。
自分はもう満点をつけてもいいのですが、ミクシィのレビューを見ると結構評価が分かれているみたいです。
まぁわからないでもないかな。
「孤独」や「不信」に悩んだことがない人はなぜアンドリューがスティーブやマットらの言葉を信じず、彼らのことを拒絶したのかもわからないでしょうからね。
そういう人たちはそれはそれで幸せなのでしょう。
お気に入り度は★★★★★、お薦め度は★★★★(★は五つで満点、☆は★の半分)です。