この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

嬉野・武雄旅行記、その3。

2022-08-17 21:01:33 | 旅行
 下山は楽なはずでした。
 だって、登山口から山頂に登るのと山頂から登山口に下りるのとでは後者の方が圧倒的に楽ですし、さらに下山には家族連れコースを選んでますから、これで楽にならないはずがないのです。
 しかし実際には下山は下山できつかったですね。

 今回の登山で不安要素を挙げていくと、
①初めて登る山なので正しい登山ルートがわからない。
②雨上がりで道がぬかるんでいる、岩などが滑りやすくなっている。
③単独の登山であり、なおかつ他に登山者がいない。
④夕暮れが近づきつつある。
⑤体力的な不安がある。
 何ですかね、ポーカーだったらフォーカードか、ファイブカードぐらいが成立しているような気がしないでもない。笑。

 まず①なんですが、一応断っておくと、正しい登山ルートであることがわかるように木の枝にテープが貼ってあったり、案内板が立ててあったり、虚空蔵山は非常に整備された山でした。
 しかしそれでも迷うのが登山初心者の悲しさというか。
 木の板が矢印になった案内板があって、山頂に続く道には「山頂へ」、下りる道には「木場・嬉野方面へ」って矢印で示していました。
 木場登山口の駐車場に車を停めているので「木場・嬉野方面へ」という案内板に従って下りるわけですが、しばらくするとまた案内板があって、今度は山頂に続く道には「山頂へ」、下りる道には「嬉野方面へ」って書いてあるのです。
 木場の二文字がない…。
 慎重に道を下っていたつもりです。
 分かれ道や案内板を見落としたりはしていないはずです。
 でも現実として木場の文字はない。
 もし木場登山口に向かうつもりで嬉野方面の登山口に向かっていたら、もうアウトなんですよ。
 下手すると食べ物も水もないまま、山の中で一晩過ごすことになりかねない。
 考えて、もう一度最初の案内板まで戻ることにしました。
 道を間違えていないことを確認して、それから二番目の案内板の「嬉野方面へ」に従い、山を下りていきました。
 この時不安で不安で仕方なかったのですが、しばらく行くと分かれ道があり、案内板には左の道に「木場へ」、右の道に「嬉野方面へ」と書かれていました。
 もう本当に心の底からほっとしました。

 ②なんですが、石に滑って転び、思いっきり全身泥まみれになってしまいました。
 最悪!と言いたいところですが、最悪ではないんです。
 最悪なのは滑って転んで頭を岩にでもぶつけることでしょうから。
 そんなことにでもなっていたら、この日虚空蔵山には自分の他に誰も登山者はいなかったので、マジで命の危険がありました。
 木場登山口の駐車場に停めていた自分の車が見えてきたとき、思わずガッツポーズをしましたよ。
 
 突然重たい話になりますが、「死にたい」って人がいるじゃないですか。
 自分は「死にたい」という人を止めようという気はないのです。
 「死にたい」という人も別に理由もなく「死にたい」と思っているわけではないでしょうから。
 ただ、その人の中の「死にたい」が本当の「死にたい」なのか、一時的な気の迷いなのか、見極めることは大切だと思うのです。
 ビルから飛び降りたはいいが、落ちている途中で自分が本当は死にたくないことに気づいたとしても手遅れですからね。
 ではどうやって見極めればよいのか。
 自分は、疑似的な「死」を体験すればよいのではないかって思いますね。
 疑似的な「死」というのはこの場合臨死体験という意味ではなく、死ぬような思いをしてみるってことです。
 例えば、バンジージャンプだったり、パラグライダーだったり、もしくは山登りだったり。
 そういう死ぬほどきつい思いをしたら、自分の中の「死にたい」がどれほど本気なのか、わかるんじゃないかな。
 まぁ自分はバンジージャンプやパラグライダーは慣れてしまったので特に恐怖を感じることも無くなってしまいましたけどね。笑。

 最後に木場登山口の駐車場から写真を一枚。

   

 嬉野方面に続く道が全面通行止めになっていました。
 なぜ通行止めになっているのか、理由はわかりません。
 落石か何かでしょうね。
 この後、休憩を取りつつ武雄へと向かいました。

                             続く。
コメント
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