いわきのお盆に欠かせないものは、じゃんがら念仏踊り。四倉出身の祐天上人(東京の祐天寺をつくった人)が始めた、という説がこれまでの通説だったのだが、最近、小川江筋を造り、後に切腹した澤村勘兵衛の供養のため、農民が始めたものという説が有力視されているようだ。
澤村勘兵衛は、磐城平藩内藤公の時代、夏井川から水を引き、夏井川左岸一体、四倉付近まで水路を建設し、新田開発に寄与した。夏井川右岸は、勘兵衛の配下、三森治右衛門が愛谷江筋を作り、平沼の内まで水路ができあがった。その時、新舞子浜に植えられた松は、防砂林として、新田を守った。当時の内藤公の石高は7万石、しかし、新田開発により、実質10万石といわれていた。
ちなみに、今回の震災で、新舞子浜の松林は、防災の視点からも注目されている。津波の被害を食い止めた。これから、減災という視点から、海岸部の松林について研究がなされるのではないかと思われる。
ところで、今日の午後、職場の上司宅に新盆のお参りに行ってきた。濃い仕事をやったときの上司なので、話し込むと長くなってしまう。
そうそう、昨日、墓参りに行くとき、どこかで見たランナーが走っていた。東洋大の山の神、柏原だ。実家が内郷地区なので、盆の帰省だったのだろう。練習は怠っていないようだ。
余談ではあるが、柏原選手の妹は、小生の愚息と中学校のクラスメイトである。
明日までお盆ではあるが、お仕事に行くこととする。
澤村勘兵衛は、磐城平藩内藤公の時代、夏井川から水を引き、夏井川左岸一体、四倉付近まで水路を建設し、新田開発に寄与した。夏井川右岸は、勘兵衛の配下、三森治右衛門が愛谷江筋を作り、平沼の内まで水路ができあがった。その時、新舞子浜に植えられた松は、防砂林として、新田を守った。当時の内藤公の石高は7万石、しかし、新田開発により、実質10万石といわれていた。
ちなみに、今回の震災で、新舞子浜の松林は、防災の視点からも注目されている。津波の被害を食い止めた。これから、減災という視点から、海岸部の松林について研究がなされるのではないかと思われる。
ところで、今日の午後、職場の上司宅に新盆のお参りに行ってきた。濃い仕事をやったときの上司なので、話し込むと長くなってしまう。
そうそう、昨日、墓参りに行くとき、どこかで見たランナーが走っていた。東洋大の山の神、柏原だ。実家が内郷地区なので、盆の帰省だったのだろう。練習は怠っていないようだ。
余談ではあるが、柏原選手の妹は、小生の愚息と中学校のクラスメイトである。
明日までお盆ではあるが、お仕事に行くこととする。