けんきゅうきろく(と、あともうひとつ)

レアル・マドリー、リーガエスパニョーラ関係の、なんとなく気になるニュース。

週回遅れ

2010-02-08 20:00:30 | football
トレーニング再開
次の土曜日シェレス戦を見据えまして、本日よりトレーニング再開。長期離脱中のペペに加え、メツェルダーとガライは本日もジム篭りでのトレーニング。なぜセントラルばかり。

その他の選手たちは、特に問題なく今週最初のトレーニングをこなしていたそうです。ASのレポートによれば、非常にリラックスした雰囲気で、どの選手の顔も嬉しそう、雨が降っていたのに、笑顔やジョークが絶えることはなかった、だそうです。
MARCAによれば、カンテラから1人、ファンフランがトップチームのトレーニングに参加したそうです。

何かあれば後から追加します。



刑法の試験はどうなったんだろう
負傷者も戻ってきたし、しばらくはカンテラからトップチームの試合に選手が呼ばれることはないかもしれませんが、エル・パイスの記事で紹介されていたモスケラのことがちょっと面白かったので。例によって長い記事なので、適当に端折ったりしてます。いいかげんですみません。


--------------------
マヌエル・ペジェグリーニは、2試合続けて彼を召集した(マラガ、デポル)。そして土曜日には、リアソールで彼をデビューさせようとした。しかしペドロ・モスケラ(カスティージャのカピタンにしてプレイメーカー)は、落胆することになった。
モスケラは、もっとも嘱望されているカンテラーノだ。ペジェグリーニがリアソールで彼を呼んだ時、試合終了まで数分を残しているだけだった。「僕はとにかく急いでジャージを脱いだ。でも、ボールが外に出なかった。時間は1分半残ってるだけ。僕は第4レフェリーに、ファイナルのホイッスルを吹かないでとお願いしてたんだ。彼らはドレンテへのファウルを取って、そうしたらイヤホン(4審の持ってる無線機だと思う)から、「交代だ、交代!」と言っているのが聞こえた。でも何も起こらず、ファイナルのホイッスルが吹かれてしまった。僕はボトルを蹴っ飛ばして、"ちくしょう、ホイッスル吹きやがって…デビューするところだったのに"と言ったんだ。」 そうモスケラは思い出していた。
モスケラに最初に近づいたのはラウルで、なんでもない、いずれデビューできるだろうから、と声をかけた。苛立ちの理由は、マドリーに戻ることでも続いた。なぜなら翌日は、モスケラはいったん家に帰り、そしてカスティージャのチームでプレイしなければならなかったからだ。彼は、まさに「窮地に陥った」ようなものだと思った。さらに、刑法の試験の準備をするのに5日間しか残っていなかったのだ。「午前中にトレーニングして、午後の4時から8時までは授業があって、家に帰り着く頃には勉強したいと思えなくなってるよ。」 とバルデベバスで彼は言う。
モスケラはガジェゴ(ガリシア人)で21歳。彼の最初のフットボールの記憶は、フランとマウロ・シウバのデポルとフェルナンド・レドンドのマドリーだという。フットボール選手であり、大学生であり、サーファーであり、それからローラー・ホッケーもする。「フットボールは3歳になる前に始めたよ。とても小さくて、Fishre-Priceのローラースケートで走ってた。マドリーに来るまでは、両方やってたんだよ。」
Santa Maria del Marの学校からGalicia Gaiteiraの練習場まで、母親は彼を連れて行った。彼の家族に助言したAntonio Golasのおかげで、彼はそこに没頭していった。その頃デポルにはこの年代のカテゴリーがなく、選手の選抜はTorneo de Bruneteに頼っていた。「フェロールに近いPonteduemeで、我々はマドリーのアレビンと対戦した。そこで、初めて彼を知った。マドリーのアレビンはその頃、ガリシアの多くのチームと戦っていた。監督のレテは乗り気ではなかった。既にチームができていたから。しかしトレーニングを見るなり、彼は考えを変えたんだ。」 そう言うのは、モスケラの最初の頃のコーチのうちの1人、マヌエル・ピタだ。「彼はいつでも真剣に戦うやつで、しっかりした頭脳を持っていた。技術的にも素晴らしかった。メディオセントロ、インテリオール、メディアプンタでもプレイしていた。ペース、パワー、スピードに優れていた。」と彼は付け加えた。
ア・コルーニャに生まれたが、13歳でマドリーへやって来た。18歳まではSEK、外部から来た子供たちが生活し勉強するセンターにいた。Elías Agujaの学生寮で1年過ごした後、今は料理をするメイドさんを雇って一人で暮らしている。「彼はとても観察力があって賢かった。(どうしてもわからない一文を削った)。いつでも、彼には説明が必要だった。」とSEKの寮監をしていたパコ・カリーニョは言う。ガジェゴのモスケラには、もうその訛りがない。ただ、海が恋しい。「家に帰って最初にするのは、リアソールの方へ降りていって、サーフィンをすることなんだ。」と彼は言う。
「性格は、常に勝ちたいという意欲があり、仲間たちを助ける。ここでの2年目には、もうカピタンになっていた。」と、フベニールC時代の監督トリスタン・セラドールは言う。「いつでも中の方でプレイしていた。特別に速くなかったので。とてもうまく試合に貢献していた。年月がたつと、ボディコンタクト、ボールを守る能力が向上していった。」と続けた。カデテAでは、今では親友であるマタと出会った。「あそこは僕の最初の基点だ。僕たちはルームシェアをしていたけど、ちょっとした災難だったね。彼はどこに物を置いたか思い出せないんだから。でも、ピッチの中では素晴らしいゲームビジョンを持ち、内面にはリーダーシップの資質を備えていた。」 と、現在バレンシアの選手は言う。
ゲームビジョンはどこから来て彼に備わったのだろうか? 「生まれつきのものだろうね。唯一伸ばしていけるのは、スピードだ。パスのね。上がっていくどのカテゴリーでも、ボールを出していけるように。」 そう話すモスケラは、グティを崇拝している。「彼は別次元だよ。誰も見ていないところにパスを出すんだ。」
--------------------


勢いのまま
これももう1週間たってしまいましたが、デポル戦の翌々日あたりにla voz de Galiciaに載った、モスケラインタビュー。
--------------------
Q:不機嫌なのはもう治りましたか?
M:僕たちは(日曜日)午前5時に(マドリーに着いて)、昼の12時にはカスティージャでプレイしていた。疲れたよ。でも勝ったから、全部忘れた。

Q:ゴールは?
M:いや、そんなことしたらとんでもない(笑)。僕の持っていた願いは、今日自由になれることだったんだよ。

Q:今日の試合(カスティージャ)の方が大変でしたか? それとも、土曜日にピッチの脇で待っていた時の方が?
M:第4審が主審に交代だと言ってるのが、イヤフォンから聞こえた。でもボールが出なかった。たぶん、あの試合の中で一番長く続いたプレイだと思う。かなり長い間僕は待っていたんだから。

Q:プリメーラでデビューするという夢が失われてしまいました。あなたの心に、あなたの街にあるチームとの対戦で。
M:本当に、偶然僕にはちょうど良かった。僕が最初に招集されたのはその前の日曜日で、一番可能性のある場所、ベルナベウだった。だけどもちろん、ア・コルーニャは僕の街だ。ここには家族も、ガールフレンドも、友達もいる。

Q:確実に、新しいチャンスが待っていますよ。
M:そう願っているよ。試合が終わって、バルダーノが僕に、心配するな、確実に今シーズンデビューできるからと言ってくれた。ペジェグリーニも僕のチームメイトたちも、ロッカールームですごく元気付けてくれた。

Q:泣かずには済みましたか?
M:ガールフレンドは、そうだね、少し悲しんでいた。でもそうあるようにしかならない。運があるときなら、事態がうまく進むかもしれない。でもたぶん、僕の日ではなかったんだ。

Q:試合終了のホイッスルが吹かれた時、レフェリーに何か言いましたか?
M:「ちくしょう、どうして吹いたんだ、デビューできたかもしれないのに」って言った。彼は、申し訳ないって言ってくれたけど、それ以上何もできなかった。

Q:そして最後に、マドリーはリアソールでのジンクスを拭い去ることになりました。
M:そうだね。(笑って)僕が魔女のお守りだったんだよ。

Q:カシージャス、グティ、ラウルは、ア・コルーニャで勝ったことがなかったわけですが、最後には彼らも喜んでいましたか? 何か言っていましたか?
M:そう、マドリーはほぼ19年リアソールで勝っていなかった。いつでも非常に難しいピッチで、僕たちには大きな負担がかかるだろうと理解していた。デポルは後半にプレスをかけてきていたけど、でも、最後にはロッカールームでも帰りでも、皆が大喜びだった。トップチームと一緒の遠征はこれが初めてだったけど、彼らはとても嬉しそうだったよ。

Q:次の土曜日、エスパニョール戦に呼ばれると思いますか? (残念でした……)
M:そう願っている。僕はカスティージャの選手で、トップチームは、今シーズンこれまでしてきたことのご褒美だ。でもできたら、もっとチャンスがあればと願っている。

Q:別のご褒美は、U-21代表ですね。
M:カスティージャの監督、アレハンドロ・メンデスが、U-21の予備召集があると伝えてくれた。そのリストが25人で、試合やトレーニングのために20人選抜される予定だということは、わかっているよ。
--------------------
レフェリー相手でも、言うことは言うモスケラでした。