団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

なんでもかんでもきれい事

2013-08-20 10:40:29 | Weblog
 宮崎駿監督の『風立ちぬ』が公開されているが、早速禁煙学会が煙草を喫うシーンが多すぎる、とクレームをつけて批判を浴びている。また戦争に協力している主人公に葛藤がない、といった批評もあるとか。
 まじめに採り上げるほうがバカバカしいが、昭和20~30年代の邦画を見ていると、まあ、煙草をみんなパカパカ喫っている場面ばかりで、かえって呆れてしまうが、それが時代だったのだろう。
 太平洋戦争は国民戦争で、国民はほぼ戦争に協力したろう。それが当時の日本人の生き方だった。軍部の暴走で、最後は極端な全体主義国家になってしまったが、満州事変前ぐらいまでは、それほどひどい社会ではなかったと思われる。
 それが東京裁判で戦犯が裁かれると同時に、昭和前期の日本も否定されてしまった。国民総懺悔で誰が悪いのか、戦争責任はどこにあるのか、が曖昧になってしまった。米軍の非戦闘民への無差別殺戮だって、悪いのは日本だからやられても仕方がない、といった理屈で、これもうやむや。
 まあ、いまさらという感もあるが、そうした無責任体質が平成の世の中になって、またはびこりだしているのではないか。
 例えば『はだしのゲン』が槍玉に上がっている。描写が残酷だから、小中学生の閲覧はふさわしくない、と誰かが決めて、ひとり歩きしてしまっている。
 これらに共通していることは、現代の価値観で過去の時代を裁くことだ。そうした指摘をする人は、正義の味方なのだろうが、多様な価値観を認めない、反対に全体主義に通じるものがあるだろう。
 考えてみれば、我々はずっと正義の押し付けで生きてきたような気がする。言葉狩りもそうだ。差別用語がメディア自身の規制で、表現の自由が奪われた。そういう正義はいい面もあるが、そこから何かが失われることも自覚しなければならない。
 いい例が「援交」だ。なにが援助交際か、立派な売春である。深夜に飲食店従業員が殺される、という事件があるが、要は風俗関係の女性の事件なのだ。広島で女子高生が殺される事件があったが、彼女らがやっていたのは派遣型接待業だそうだ。つまり出張売春だ。
 女性が襲われる事件で、暴行というのも多くあるが、大抵はごうかん(チェックされてカナで書いた)だ。この言葉も聞かなくなってしまった。「覚醒剤」という言葉もあるが、昔は麻薬だった。魔薬とも書いた。いかにも恐ろしげで、近づきたくないだろう。を「集落」というのも、それだろう。
 以上、正義の旗印で、すべてがきれい事になってしまっていることだ。正義とあれば、メディアも積極的で、どんどん実質から離れて言葉だけが先走ってしまう。気がつけば、建前と本音の言葉が成り立つことになる。
 人間も社会も建前だけでは生きられない。表があれが裏があるもので、本音があり本音で生きているからこそ、前に進むことができるのだ。
 なんでもかんでもきれい事にした結果、子供が親を殺す殺伐とした社会になってしまった。きれい事をやめて、しっかりと光と影を見据える勇気を持つ社会にしていきたいものだ。

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