翌日、本当は約束なんてなかったけれど、気まずくて十時前には家を出た。
萌が残念そうにしてくれたのが、ちょっと嬉しかった。
駅に向かう途中、緑澤邸の前を通った。
思わず足を止める。
昨晩のあの夢はなんだったのだろうか。『みんなベベアンにいる』のみんなというのは、達之も含まれているのだろうか……?
「山本七重さん!」
いきなり名前を呼ばれて驚いた。
正確には姓は違う。山本は父の姓だ。両親の離婚後、私の姓は母の姓の「藤井」になり、今は母の再婚相手の姓の「吉川」になった。だから本当は母の恋人のことは「お父さん」と呼ぶべきなんだろうけど、いまだに「吉川さん」と呼んでいる。吉川さん自身も、私の父親になるつもりはないからそれでいい、と言っている。私たちはロクに話したこともない。ま、私の方は、戸籍に入れてくれて、学費まで出してくれているんだから、感謝はしているけど。
「ああ、やっぱり七重さんなんだ」
声の主は、緑澤邸の二階の窓にいた。達之の弟、和也だ。
「なんで私の名前知ってるの?」
「兄ちゃんの机に写真が飾ってあるんだよ。見せてあげる。上がっておいでよ。今、誰もいないからさ」
どうせ暇を持てあましているので、お誘いにのることにした。
生活感のない玄関の横に、階段があった。階段の出窓には花が飾られている。
「ねえ、緑澤君が『ベベアンに行った』って昨日言ってたよね。あれ、どういう意味?」
「どういう意味も何も・・・」
和也が肩をすくめて言う。
「兄ちゃん、窓から『ベベアン、ベベアン』って叫んで、突然消えちゃったんだよ。だからベベアンってところに行ったのかな~と思ってさ」
やはりあの時の高校生と同じように消えてしまったのか。
「この部屋の窓から叫んだんだよ」
つきあたりが達之の部屋だった。道路に面している明るい部屋。達之らしくきちんと整理整頓されている。ちょうどあの柿の木があった場所にあたる気がする。
「みてよ。この写真」
机の上に飾られていたのは、中学一年の時の遠足の写真だった。男子3人女子2人が写っている。私たちは同じ班だったのだ。
「名前は? 何で名前までわかったの?」
「それは、これ。この手紙の山!」
一番下の引き出しを開くと、青い封筒がたくさん入っていた。宛先は全て『山本七重様』。
「緑澤君から手紙なんて一回ももらったことないわよ」
驚いて言うと、和也はヘラヘラと、
「そうなんだ~やっぱりな。兄ちゃん、意気地ないから一回も出せなかったんだねえ」
「出してくれればよかったのに……」
「え、もしかして、七重さんもお兄ちゃんのこと好きだったの?」
驚いたように問われたが、答えられなかった。自分でもよく分からないのだ。
でも、あの日のあの時が私を救ってくれたということだけは、疑いようもない事実だ。
萌が残念そうにしてくれたのが、ちょっと嬉しかった。
駅に向かう途中、緑澤邸の前を通った。
思わず足を止める。
昨晩のあの夢はなんだったのだろうか。『みんなベベアンにいる』のみんなというのは、達之も含まれているのだろうか……?
「山本七重さん!」
いきなり名前を呼ばれて驚いた。
正確には姓は違う。山本は父の姓だ。両親の離婚後、私の姓は母の姓の「藤井」になり、今は母の再婚相手の姓の「吉川」になった。だから本当は母の恋人のことは「お父さん」と呼ぶべきなんだろうけど、いまだに「吉川さん」と呼んでいる。吉川さん自身も、私の父親になるつもりはないからそれでいい、と言っている。私たちはロクに話したこともない。ま、私の方は、戸籍に入れてくれて、学費まで出してくれているんだから、感謝はしているけど。
「ああ、やっぱり七重さんなんだ」
声の主は、緑澤邸の二階の窓にいた。達之の弟、和也だ。
「なんで私の名前知ってるの?」
「兄ちゃんの机に写真が飾ってあるんだよ。見せてあげる。上がっておいでよ。今、誰もいないからさ」
どうせ暇を持てあましているので、お誘いにのることにした。
生活感のない玄関の横に、階段があった。階段の出窓には花が飾られている。
「ねえ、緑澤君が『ベベアンに行った』って昨日言ってたよね。あれ、どういう意味?」
「どういう意味も何も・・・」
和也が肩をすくめて言う。
「兄ちゃん、窓から『ベベアン、ベベアン』って叫んで、突然消えちゃったんだよ。だからベベアンってところに行ったのかな~と思ってさ」
やはりあの時の高校生と同じように消えてしまったのか。
「この部屋の窓から叫んだんだよ」
つきあたりが達之の部屋だった。道路に面している明るい部屋。達之らしくきちんと整理整頓されている。ちょうどあの柿の木があった場所にあたる気がする。
「みてよ。この写真」
机の上に飾られていたのは、中学一年の時の遠足の写真だった。男子3人女子2人が写っている。私たちは同じ班だったのだ。
「名前は? 何で名前までわかったの?」
「それは、これ。この手紙の山!」
一番下の引き出しを開くと、青い封筒がたくさん入っていた。宛先は全て『山本七重様』。
「緑澤君から手紙なんて一回ももらったことないわよ」
驚いて言うと、和也はヘラヘラと、
「そうなんだ~やっぱりな。兄ちゃん、意気地ないから一回も出せなかったんだねえ」
「出してくれればよかったのに……」
「え、もしかして、七重さんもお兄ちゃんのこと好きだったの?」
驚いたように問われたが、答えられなかった。自分でもよく分からないのだ。
でも、あの日のあの時が私を救ってくれたということだけは、疑いようもない事実だ。