おれが公園に着いた時、浩介は水飲み場の横で苦しげに胸を押さえてしゃがみこんでいた。母親が何か言いながらその背に触れようとするのを、勢いよく振り払っている。
「浩介っ」
「………慶」
急ぎかけより声をかけると、浩介は泣きそうな顔でおれの腕にすがりついてきた。
「慶、慶……っ」
「大丈夫…大丈夫だから……」
ゆっくり息をさせる。
近くのベンチに座らせ、その肩を抱き寄せる。
その様子を浩介の母親は呆気にとられたような顔をして見ていたが、途中から小刻みに震えだした。
「どういうこと? どういうことことなのよ……っ」
その時、おれは激しく後悔した。やはり日本に帰ってきた時点で、挨拶にいくべきだったんだ。
おれの母の手術が終わって落ち着いてから……と言っていたのだけれど、落ち着いた頃に、今度は浩介が7針縫う怪我をしてしまい……。
いや、これは言い訳だ。結局のところ、先送りにしたツケが回ってきたのだ。こんな風に何の心の準備もないまま、母親に再会させたくなかった。
いや、それ以前に、やはり、日本に帰ってくるべきではなかったのではないだろうか……。
本来ならば、浩介の母親が現れた当日中に、今後どうするか話をするべきだったのだけれど、おれの実家からの帰り道、浩介は妙に機嫌が良くて……。せっかくこんなに機嫌がいいのに、母親の話をして落ち込ませるのも可哀想な気がしてしまって、結局話をしなかった。要はまた先送りだ……。
でももう先送りにするわけにはいかない。
今日帰ったら必ず話をしよう。月曜日だから患者数は多いけれど、インフルエンザが落ち着いてきたので、今までほどは遅くならないはず。
と、いう予想通り、19時前には診察が終わり、速攻で残務を片付け帰ろうとした19時半。
「渋谷先生、ちょっといいですか?」
申し訳なさそうに声をかけてきたのは看護師の谷口さん。
嫌な予感がする……。
「目黒樹理亜さんがまた手首を切って入院したそうです」
「…………」
「渋谷先生と話がしたいと言っているらしくて……お願いできませんか?」
「…………はあ」
思わず大きくため息をついてしまった。よりもよってこのタイミングで嫌な予感的中だ。
谷口さんが慌てたように手を振る。
「あ、ダメでしたら断りますので大丈夫ですよ?」
「いえ……行きます……」
目黒樹理亜に関しては、浩介に怪我をさせたという点で怒りしかない。でも、浩介が彼女を気にかけているので、無視するわけにはいかない。
谷口さんと一緒に樹理亜の病室を訪れると、看護師の西田さんが樹理亜の点滴のチェックをしているところだった。
あいかわらずのピンクの頭の樹理亜は、ベッドのリクライニングをあげた状態で、点滴をしていない方の手を泳がせている。目の前に見えない壁があるパンマイムのような仕草……。
「あー渋谷せんせー来てくれたー。言ってみるもんだねー」
おれに気がついた樹理亜が手を振ってきた。
「わーホントに鮮やかだー。やっぱり渋谷先生すごーい」
「……何の話?」
西田さんに会釈してから、ベッドの横の椅子に腰かけると、いきなり樹理亜に手をつかまれた。
「ほらーつかめるしー」
「目黒さん」
西田さんが、こら、といって手を離させてくれた。樹理亜がムッとする。
「なによーいいじゃないのよー」
「谷口さん、私、他回って戻ってくるからそれまでよろしくね。じゃ、すみません。渋谷先生」
西田さんがバタバタと出て行くと、部屋の中がシンとなった。谷口さんは部屋の隅の方に静かに腰をかけている。
あらためて、樹理亜に向き直る。
「……鮮やかって、なんの話?」
何から話そうか、と迷いつつ、とりあえず先ほどのセリフの意味を聞くと、樹理亜は驚くようなことを言いだした。
「浩介先生が言ってたんだよー。渋谷先生は鮮やかだって。ホントに鮮やかだねー。そういえばこないだも天使みたいに白くてキラキラしてたもんねー」
「……え?」
意味が分からない。眉を寄せて見返すと、樹理亜はニコニコと言った。
「あたしねー目の前にスクリーンが張られちゃうことがあってねー色が薄くなってねー」
「……………」
そういう症状、何ていうんだったか……つい最近も何かの資料で読んだな……
「それでねー浩介先生も同じでー、でも、渋谷先生と一緒にいるとならなくてー」
「え?」
浩介が同じ? どういうことだ?
「ちょっと待って。話がよくわからない」
「だからー……」
要領を得ない樹理亜の話を辛抱強く聞いて、分からない点を何度か質問して、ようやく理解した。
浩介は中学時代、今の樹理亜と同じような症状がでていたらしい。そして、その色褪せた世界の中で、おれがバスケをしている姿だけが鮮やかに見えた、と……。
高校一年の5月。初めて浩介と話した時のことを思い出す。
あの日あいつはおれと顔を合わせるなり、おれを指さして「あーーーー!!渋谷慶!」と叫んだのだ。
そして、中学のバスケの大会の試合でたまたまおれを見て、ファンになったんだ、と言っていた。小さな体でスルスルと間を抜けてツッコんでいくおれの姿がかっこよかった、とかなんとか……。
世界が色褪せていただの、ブラウン管の中にいただの、そんな話は今まで聞いたことがない。
聞いたことはないけれど……さもありなん、という気はする。
あいつは親との確執の話もしたがらない。小中学校時代のこともほとんど話さない。でも、胸の内に苦しい思いをたくさん抱えていることはわかっている。
話をすることで楽になるというならいくらでも聞く。でもあいつはそうではない。そういうことを、おれに知られたくない、と思っている。だからおれは聞かない。
『慶の瞳にうつる自分だけは好き。慶と一緒にいる時の自分が一番好き』
いつだったか、そんなことを言っていた。
おれはいつでもいつまでも、浩介にとって最高の鏡でありたい。一番居心地のいい居場所でありたい。
「浩介先生みたいに、あたしも渋谷先生と一緒にいたら、治るのかなーと思ったりしてー」
「…………」
それはおそらく、根本的なストレスを排除しない限り治らないのではないだろうか。
浩介は15年以上症状が出ていないと言っていたそうだ。15年前といったら、25歳。就職してから数年……。親元を離れて独り立ちできたと思えたころ、といえる。
樹理亜を追い込んでいる正体も、おそらく親なのだと思う。
先日、浩介のズボンのポケットから派手なピンクの名刺が出てきた。浩介がキャバクラの名刺を持っているなんてありえない。似合わなすぎて驚いていたところ、浩介は名刺の端を汚い物でもつまむように持って封筒にしまうと、樹理亜の母が訪ねてきたことを話してくれた。
樹理亜の母親はピンクが好きで持ち物も全部ピンクにしているらしい。だから、娘の樹理亜も小さな頃からずっとピンク頭だったそうだ。学校でからかわれたりしなかったのだろうか。それに中学に上がったら校則違反になっただろう。
「ホントに……とんでもないよ」
浩介が吐き捨てるように言っていた。
浩介自身も、小さな頃からずっと母親の価値観を押しつけられていたようなので、自分と彼女の境遇を重ねているところがあるのかもしれない。
「もしかして……そのスクリーンをなくすためにリストカットしてるの?」
「うーん……そうだったり、そうじゃなかったりー。うーんでもそうのことが多いかなー。今日はそうー」
樹理亜は自分の左手首の包帯をじっと見つめてから、ふうっと息を吐いた。
「ホントは後から痛くなってくるしー病院くるの面倒くさいしー切るのやめたいんだけどねーなんかもう癖、みたいなー」
「癖って……」
「あー浩介先生はいいなー切ったりする前に渋谷先生に会えたってことだもんねー」
「………」
それは……
「浩介先生言ってたよー。渋谷先生は強い力でぐいぐい引っ張っていってくれるんだってー」
「…………」
『慶は、おれを自由への道に連れ出してくれた』
そう言ったのは、浩介が実家を出て一人暮らしをはじめた時だったか……。
でも、今なら分かる。おれは連れ出しただけで、何の解決もしてやっていないんだ。
だからその数年後に浩介は日本を離れる決意をしてしまう。
本当の意味での自由への道へと連れ出すことはできないのだろうか……。
「ごめん、谷口さん、書くものある?」
「はい」
谷口さんがポケットからメモ紙を取り出して渡してくれた。それに二人分の携帯番号とメールアドレスを記入する。
「目黒さん、これ、おれと浩介の連絡先。今度また切りたくなったりしたら、絶対に連絡して。おれも浩介も仕事中は出られないけど、折り返しするようにするから」
「え!?」
樹理亜が目を丸くした。ピンクの髪が揺れている。
「どうしてー? 渋谷先生、前に、あたしのこと関係ないって言ってたのにー」
「そうだね」
バレンタインの時に樹理亜がチョコをくれようとしたが「関係ないから」と受け取らなかったのだ。でも今はあの時とは状況が違う。
「そうだったけど、浩介にとって目黒さんは大切な生徒の一人みたいだから」
「卒業生だけどねー。あそこの先生は優しいから卒業生も大事にしてくれてねー。浩介先生も生徒みたいに思ってくれてるみたいー」
うふふ、と樹理亜は笑ってから、あれ?と首をかしげた。
「浩介先生にとって大切な生徒だと、渋谷先生に関係があるの?」
「うん」
当たり前だ。
「浩介にとって大切な生徒なら、おれにとっても大切な生徒になるから」
「えーそうなんだー」
樹理亜はへえと言いながらおれの渡した紙を、ベッドの脇に置いてあったカバンに大事そうにしまい込んだ。
「ほんと、二人は仲良しさんだねー。奥さんに焼きもち焼かれないー?」
「………………」
そこはノーコメントで立ち上がると、
「じゃあ、ゆっくり休んで」
「はーい。渋谷先生と話してたらスクリーン消えたし、今日はちゃんと眠れそー」
ベッドのリクライニングを戻しつつ、樹理亜が笑顔で手をふってきた。
なぜおれがそのスクリーンとやらを消すことができるのかは分からないけれど、消せる力があるというのなら消してやる。
浩介にも二度とブラウン管の中になんか入らせない。おれが、鮮やかな光となろう。
***
うちに帰るともうすでに夕飯の支度ができていた。
「早いな……」
「おれ味噌汁作っただけだよ。おかずは全部昨日お母さんからもらってきたやつ」
浩介は年末に帰国して以来、おれの母のことを「お母さん」と呼ぶようになった。ごく自然にそう呼ぶから、あまり深く考えてなかったが、考えてみたらまるで結婚でもしたかのようだ。
浩介は食べながらも、このキンピラはどうしてこんなにシャキシャキしているんだろう。今度お母さんにレシピを聞いてみよう、などとまるで嫁のようなことを言っている。
「……浩介」
「ん?」
食べ終わったのを見計らって呼びかける。機嫌の良い浩介に言いだすのは心苦しいけれど、意を決して言葉を継ぐ。
「電話しないか? お母さんに」
「え? お母さんに?」
「ああ」
きょとんとする浩介。
「キンピラのこと? そうだね。電話で聞いて……」
「そうじゃなくて」
箸を置き、正面から浩介を見つめる。
「お前のお母さんに、だよ」
「………………」
途端に浩介の顔がこわばった。
「なんで……」
「昨日、後日連絡するっていったからな。連絡待ってるだろうし」
「いいよ」
浩介がぶんぶんと首を振る。予想通りの反応だ。
「じゃあ、おれが電話する。いいな?」
「え………っ」
みるみる青ざめていく浩介。でもここで引きかえしては同じことの繰り返しだ。心を鬼にして言葉を続ける。
「電話する前に確認したいんだけど、そもそもお前、親に何て言ってあるんだ?」
「………何も」
ぽつんと浩介が言う。
「何も言ってないよ。日本を離れてからだから、もう12年? 一度も連絡取ってない」
「じゃ、お前、今どこにいることになってるんだ?」
「ケニア……。前に異動になった時に、もし問い合わせがきても異動してないことにしてくれって頼んでおいたから」
「……………」
徹底してる。浩介は日本を離れる時に携帯も解約してしまったので、直接は連絡も取れなくなっていた。後に再購入したけれど、当然新しい番号は教えていなかったというわけだ。
「おれとのことは?」
「大学の時に別れて、今はただの友達ってことになってるはず。あかねとは10年くらい前に別れさせられた」
「別れさせられた?」
浩介とあかねさんはずっと恋人のフリをしていたのだ。それが別れさせられたって?
「あかねが同性愛者だってのがバレたんだって。でも、あかねは自分はバイセクシャルであっておれと付き合ってるのは本当だって嘘の主張してくれたらしいんだけど、うちの母が、そういう趣向の人間は桜井家の嫁にはふさわしくないから別れろって言ってきたって。いかにもうちの親が言いそうなことだよ」
「……そっか」
そんな話、今まで一度も聞いたこともない。10年前というと、おれも浩介とまったく連絡を取らなかった時期だからしょうがないといえばしょうがないが……。
「アフリカにいると思っていた息子が、なんの連絡もなく日本にいたら……そりゃ驚くよな」
「…………」
「しかもいた場所が、別れたはずの男の実家の目の前」
浩介の母親の顔は、驚きでいっぱいになっていた。
「その上、男の姪っ子と一緒にバスケなんかして遊んでた日にゃ、何が何だかって感じだよな」
「…………」
南の娘、西子ちゃんが言っていた。浩介の母親は西子ちゃんを見るなり「南さんの娘さん?」と言ってきた、と。西子ちゃんは南とよく似ているのですぐに分かったのだろう。
「そこへおれが現れて……」
あの時の、浩介の母親のおれに対するむき出しの敵意……。
「息子の肩を抱いてるのを目の前で見せられたりしたら……」
「やめてくれっ」
「……っ」
浩介の絞り出すような声に驚いて言葉を飲み込んでしまった。珍しい。珍しいどころか、おれに対してこんな口調を使ったの初めてじゃないか? 普段だったらもっと柔らかい甘えたような言い方をする。
浩介も、はっとしたように口をつぐんだ。おれの前では見せることのない一面が出てしまったことに動揺して、目が揺らいでいる。
沈黙が流れる。
何を言ったらいいのか……。
と、その時。浩介の携帯が鳴りだした。
「………とれよ?」
「あ……うん」
浩介はカバンから携帯を取り出したが、「知らない番号……」と首をかしげた。あ、そうだった。
「ああ、ごめん。今日、目黒樹理亜にお前の携帯番号教えたから、彼女かも」
「え、目黒さん、慶に会いにきたの?」
「いや、また手首切って入院してきた」
「え……」
戸惑ったように浩介が電話に出た。やはり樹理亜だったようで、おれに向かって肯いてみせた。
(……助かった)
内心ホッとしてしまった。あの雰囲気はいかんともしがたかった……。タイミングよく電話をかけてくれた樹理亜に感謝したくなってしまう。
電話の内容はというと……
ひたすら、うんうん肯いている浩介……何を話しているのか分からない。
「明日の退院の時には、おれか圭子先生がいくから安心して。その時にこれからのことも話そう」
そういって、電話を切った。
浩介は、うーーーーん……と、うなっている。
「なんだって?」
「今、目黒さんの母親が、目黒さんの荷物をもって病院に押しかけてきたって」
面会時間はとっくに過ぎてるのに……
「それで、二度と帰ってくるな、と言われたらしい」
「え………」
帰ってくるなって……まだ未成年の娘に対して言う言葉か?
「ちょっとごめん。おれ、これからあちこち電話かけないとだから……」
「ああ。大丈夫。洗い物ならやっとくから」
「うん。ごめんね」
すいっとリビングのソファに異動した浩介。
たぶん浩介も、安心してる。これ以上、親の話をしないですむ言い訳ができて。
食べ終わった食器を運びながら、浩介の横顔を見つめる。
(お前だって、人の親子関係心配してる場合じゃないだろ)
出かかった言葉を飲み込む。そんなことは浩介が一番よく分かっていることだろう……。
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長かった……。
イチャイチャが足りないので、途中でR18シリーズに逃避した私……。
具体的な日にちを書きますと、
2月22日(日)「
あいじょうのかたち6」「
R18・負傷中の…」←福祉祭りの日(浩介が手に怪我をした日)
2月24日(火)「
R18・リベンジ」←朝っぱらからエッチしてたって話。
2月27日(金)「
あいじょうのかたち7」←樹理亜の母親に会った日
3月8日(日)「
光彩8」←あかねの恋人綾さんの娘のダンスの発表会を見に行った日
3月15日(日)「
あいじょうのかたち8」←浩介母来襲
3月16日(月)上記の話
になります。
それから……『慶は、おれを自由への道に連れ出してくれた』と言ったのは、
「
自由への道6」でした。
当時まだ22歳の彼らは、これで自由になった、と思っていたのですがねー……。
次回は、浩介視点。暗い話が続きます。
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