入学式が終わって、新入生たちは一寸落ち着いてきたのだろうか。お仕事している新社会人はそうは関係ないかもしれないが。
昨年の夏前にふと思い立って、ここに行った。成田発着で何でわざわざ山梨までと思うが、行きたくなったのはいろいろ訳があり。
子供達が二人とも県外に出て、自分のことを少し振り返ってみたくなったのかもしれない。
自分の大学生活のメインは多摩であり、近く(だが歩くにはちょっと遠い)の国分寺とか小金井とかだった(都心ではないいわゆる多摩である夜の都心は数えるほどしか行ったことがない)。
で、その前に半年だけ都留というところにいた。予備校生ではなく一応大学生として。
前の日にジェットスターで成田に着きカプセル泊(空港泊はこの次のときだった)。朝早くに出発四時半ぐらい。
千葉から新宿経由で京王線。懐かしの京王線。懐かしい地名。またこの時はここで降りることは考えてなかった。なかったからせめて京王線に乗りたかった。今の伊予鉄の車両は京王のらしい。
高尾でJRに乗り換える。ローカルだが人は多い。山の格好をしている人が結構いた。
大月でJRから富士急に乗り換える。昔はこんなに綺麗じゃなかった筈。
あの頃なかった駅があった。大学前。特急も停まるってすごいな。
で、その大学前ではなく、昔の最寄り駅である谷村町で下車。
小雨が降る中を、登校途中の高校生を避けながら走り国道へ。高校の名前も工業高校からえらい格好いいのに変わっていた。
富士急の線路の手前を左に。
これはびっくりした。大学前駅。
店もそこそこあって便利そうで、いいな。
踏切を渡り、隣の駅まで走る。
昔からあったのかもしれないが、訪れたのは初めて。
これも見たことがない地名。国道を離れ駅へ。
十日市場。無人駅だが距離的にはこちらの方が近かったから、こっちから来る学生も多かった。あの時は、本当にここまできてしまったという、最果て感みたいなものを感じて、何となく先がもうないような息苦しさを覚えた。当時を思い出し何かしら寂寥感がこみ上げた。
元来た道へ。そうそうこんな感じのだだっ広い道の傍。
左の大家さんの家と奥のワンルームは建て替えたか。右の儂が住んでいたアパートは、店になっていた。
4月に荷物を入れてテレビの設置をしていたとき、ここは電波が悪いから室内アンテナじゃ映らないと言われながらもいろいろ向きを変えていて、岡田由希子の自殺のニュースが飛び込んできたことを覚えている。
このアパート、トイレと風呂と台所が共同の四畳半一間で廊下が1メートルぐらいしかなく、郵便受けも一つしか無くって、電話は大家さんの家に取り次いでもらう。仕送りの額からすれば余裕がないわけではなく、自分で電話を引けなくはないし、ワンルームに住むことができなくもはなかった。でも何故かここに決めてしまった。決めてしまった、というのが正解なのだろう。一人で外にでたこともない人間がいきなり飛行機と電車乗り継いでここまで来て夕方で、大学のアパート紹介ではもうワンルーム埋まっていて、不動産屋に行くという知恵もなくて、何となく、紹介の表の一番上にあったここに来て大家さんとしゃべったら断るとかそういう台詞を知らなくて、で、何となく流れで決めた。親はついては来なかったし、それが普通だったと思う。ただ自分がしっかりしていなかった。決断が良かったとはあまり思わない。部屋の住人はすべて一年生だったが、ほとんどが浪人生。話す内容も過ごし方も全てが格上で、圧倒された(特に奈良の人)。そしてみんな四年過ごしたりせず一年経ったら出て行くという、そういうアパートでもあった。ちなみに、儂ともう一人の現役生はどちらも、隠れ受験生だった。青森出身のそいつは儂と違って大学を辞めずに受験生を掛け持ちし、同志社大学に合格した。アパートにいるときはあまりしゃべらなかったが、都留を出た後、しばらく年賀状のやり取りが続いた。
大学に行く。大学を辞めたいということを親に伝えた電話ボックスはもう無くなっていた。
4月はまじめに通ったが、5月ぐらいに東京と鎌倉に遊びに行き、やはり東京に出たいと思うようになった。再受験、かと。浪人という言葉が全然ピンとこなかったし、ここに来たときは、もう一度というのは全然想定していなかった。
そこから、講義は英語と体育だけ出て後は四畳半一間の部屋で黙々とやった。一日8時間ぐらい勉強して、でも1ヶ月ぐらいしかもたなかった。そんなに勉強に対する耐性がある方ではなかった。勉強の量が落ちた頃、一日中本を読む生活が少し続き、閉塞感を感じ始めた頃、同じアパートの奴(一浪の社交的な広島の人)に誘われて、初めてのバイトを経験した。富士吉田のホテルの接客とか清掃とかのバイト。泊まり込みだった。昼間修学旅行生相手の食事の準備と片付けをし、仕事が終わってから小さな布団部屋のような所に泊まらせられ、お握りと小魚の天ぷらだけの賄い食が出た。朝はまた朝ご飯の準備と片付けをして昼前に終わった。現金払いだった。金はこうやって稼ぐのだなと思った。
そしてしばらく経って、運転免許を取りに帰省した。免許を取りに行きながら、そこでも高校の時の友達に誘われて、坂出のコンビナートの配管清掃のバイトをやった。これも2泊3日ぐらいの泊まり込みで、こちらは喘息の発作が出て、発作を凌ぎながら仕事をした。向こうで発作が出たときのことは全く考えてなかった。そういやあ、ホテルの時は発作がでなかったな。
大学というともっとでっかくてごちゃごちゃしているイメージだったから、クラスみたいなモノまであったこの大学は、ちょっと予想外だった。
ただ、こぢんまりした大学ではあったが居心地は悪くなくて、それなりにのんびりと過ごすことはできたのかもしれない。自分に合っていた部分はあった。免許とってからは原付も買ったし、これで住んでいたところがワンルームマンションみたいな快適な場所だったら出ようとは思わなかった筈だ。
それでも出たいと言う気持ちは変わらず、逆に強くなった。都留は盆地だから、何かしら「埋没する」危機感というのが絶えずあったのかもしれないし、「抜け出したい」願望は徐々に大きくなった。
9月に都留に帰ってきてから、勉強はやる気にならず、かといって大学に行く気は全くなく、大学の掲示板で募集していた富士急の添乗員のバイトをした。これもまた泊まり込みで、行きは貸し切りで東京、帰りは高速バスの添乗をした。1泊2日で勤務が終わった後、営業所のソファで仮眠を取って、もう一回貸し切りバスの添乗を1日やった。発作は出なかった。
それほどハードではなかったが、運転手の人使いが荒くて閉口した。担当者からは「また来てくれ」と言われたが、咄嗟に「大学辞めるんで」と返した。で、辞める方向に舵を切った。
半年、というより運転免許を取るために夏早めに帰省したから実質5ヶ月ぐらいか、それでもまあよく住んでいたと思う。その頃の儂としては考えられない。それほど苦労したり生活に困ったりとしたこともなかったし、耐性はかなり低いと思っていたのだが。最後の最後に、辞める時になって喘息の発作が出て、実家に帰ってから半月ぐらい元に戻るのに時間がかかった。
今考えるとここに記すのも恥ずかしいのだが、クラスにとけ込もうとせず、俺はこんな所に来たかったわけではないオーラが全開だったから本当に失礼で嫌な自分が確かにここにいた。阿呆かと思うしひたすら恥ずかしい。
今は綺麗になっていたが、当時は民青が仕切っているかのような地味な生協とかあって不思議な部分もあった。本をよく買ったが、狭いスペースに並べられている背表紙にはやや偏りがあるようにも感じた。山の方には体育館とグランドとテニスコートがあった。卓球部の見学にも行った。関東の三部リーグという割に動きがみんな速かった。
大学を出る。買い出しに行っていたスーパーがあったところ。自転車買うとかしなかったからいつも歩きだった。車の運転免許とった後で、原付買って(丁度ヘルメット義務化のとき)、いろいろなところを走るようになって行動範囲が少し広くなったが、辞める気持ちは変わらなかったな。
で、ここからは大月駅まで走る。この間を原付でも走ったことはほとんどない。ここまでは振り返りの後ろ向きのラン。ここからは異邦人になって走る探検ラン。折角なのでこの辺りで路地に入る。
大名行列か。当時は知らなかったが、結構歴史がある街のようで。
寺とか神社とか結構ある。
大学からそれほど離れてはいない筈だが、不思議な感じで走り続ける。
国道に出る。
国道沿いのここも初めて。
ローソンに寄る。トイレを借りる。古くからある店のようで。別のときに三浦半島走ったときのセブンも古くからの店のようだった。どちらもトイレで分かる。愛媛のコンビニは最近ぼこぼこ建っていてトイレも新しい。
昨日泊まったカプセルはコンセントがなくて、スマホの電池がやばくなっていた。少々高いが購入。
あれは何が通っているんだろうか。
リニア、とある。どんなもんやろ。
こちらは富士急である。
やがて、甲府に行く国道20号線と交わる。
何となく駅はこちらかと、曲がる。
風情のある店に会う。いいねえ。
で速そうな電車。これも富士急らしい。
大月駅到着。20キロもは走っていない。
あくまで都留ではなく、つるぶんと都留、である。
少しだけいたことがある街である。幼くて大莫迦の自分がいた街。もう行くことはないと思っていたから不思議な気分だった。
昨年の夏前にふと思い立って、ここに行った。成田発着で何でわざわざ山梨までと思うが、行きたくなったのはいろいろ訳があり。
子供達が二人とも県外に出て、自分のことを少し振り返ってみたくなったのかもしれない。
自分の大学生活のメインは多摩であり、近く(だが歩くにはちょっと遠い)の国分寺とか小金井とかだった(都心ではないいわゆる多摩である夜の都心は数えるほどしか行ったことがない)。
で、その前に半年だけ都留というところにいた。予備校生ではなく一応大学生として。
前の日にジェットスターで成田に着きカプセル泊(空港泊はこの次のときだった)。朝早くに出発四時半ぐらい。
千葉から新宿経由で京王線。懐かしの京王線。懐かしい地名。またこの時はここで降りることは考えてなかった。なかったからせめて京王線に乗りたかった。今の伊予鉄の車両は京王のらしい。
高尾でJRに乗り換える。ローカルだが人は多い。山の格好をしている人が結構いた。
大月でJRから富士急に乗り換える。昔はこんなに綺麗じゃなかった筈。
あの頃なかった駅があった。大学前。特急も停まるってすごいな。
で、その大学前ではなく、昔の最寄り駅である谷村町で下車。
小雨が降る中を、登校途中の高校生を避けながら走り国道へ。高校の名前も工業高校からえらい格好いいのに変わっていた。
富士急の線路の手前を左に。
これはびっくりした。大学前駅。
店もそこそこあって便利そうで、いいな。
踏切を渡り、隣の駅まで走る。
昔からあったのかもしれないが、訪れたのは初めて。
これも見たことがない地名。国道を離れ駅へ。
十日市場。無人駅だが距離的にはこちらの方が近かったから、こっちから来る学生も多かった。あの時は、本当にここまできてしまったという、最果て感みたいなものを感じて、何となく先がもうないような息苦しさを覚えた。当時を思い出し何かしら寂寥感がこみ上げた。
元来た道へ。そうそうこんな感じのだだっ広い道の傍。
左の大家さんの家と奥のワンルームは建て替えたか。右の儂が住んでいたアパートは、店になっていた。
4月に荷物を入れてテレビの設置をしていたとき、ここは電波が悪いから室内アンテナじゃ映らないと言われながらもいろいろ向きを変えていて、岡田由希子の自殺のニュースが飛び込んできたことを覚えている。
このアパート、トイレと風呂と台所が共同の四畳半一間で廊下が1メートルぐらいしかなく、郵便受けも一つしか無くって、電話は大家さんの家に取り次いでもらう。仕送りの額からすれば余裕がないわけではなく、自分で電話を引けなくはないし、ワンルームに住むことができなくもはなかった。でも何故かここに決めてしまった。決めてしまった、というのが正解なのだろう。一人で外にでたこともない人間がいきなり飛行機と電車乗り継いでここまで来て夕方で、大学のアパート紹介ではもうワンルーム埋まっていて、不動産屋に行くという知恵もなくて、何となく、紹介の表の一番上にあったここに来て大家さんとしゃべったら断るとかそういう台詞を知らなくて、で、何となく流れで決めた。親はついては来なかったし、それが普通だったと思う。ただ自分がしっかりしていなかった。決断が良かったとはあまり思わない。部屋の住人はすべて一年生だったが、ほとんどが浪人生。話す内容も過ごし方も全てが格上で、圧倒された(特に奈良の人)。そしてみんな四年過ごしたりせず一年経ったら出て行くという、そういうアパートでもあった。ちなみに、儂ともう一人の現役生はどちらも、隠れ受験生だった。青森出身のそいつは儂と違って大学を辞めずに受験生を掛け持ちし、同志社大学に合格した。アパートにいるときはあまりしゃべらなかったが、都留を出た後、しばらく年賀状のやり取りが続いた。
大学に行く。大学を辞めたいということを親に伝えた電話ボックスはもう無くなっていた。
4月はまじめに通ったが、5月ぐらいに東京と鎌倉に遊びに行き、やはり東京に出たいと思うようになった。再受験、かと。浪人という言葉が全然ピンとこなかったし、ここに来たときは、もう一度というのは全然想定していなかった。
そこから、講義は英語と体育だけ出て後は四畳半一間の部屋で黙々とやった。一日8時間ぐらい勉強して、でも1ヶ月ぐらいしかもたなかった。そんなに勉強に対する耐性がある方ではなかった。勉強の量が落ちた頃、一日中本を読む生活が少し続き、閉塞感を感じ始めた頃、同じアパートの奴(一浪の社交的な広島の人)に誘われて、初めてのバイトを経験した。富士吉田のホテルの接客とか清掃とかのバイト。泊まり込みだった。昼間修学旅行生相手の食事の準備と片付けをし、仕事が終わってから小さな布団部屋のような所に泊まらせられ、お握りと小魚の天ぷらだけの賄い食が出た。朝はまた朝ご飯の準備と片付けをして昼前に終わった。現金払いだった。金はこうやって稼ぐのだなと思った。
そしてしばらく経って、運転免許を取りに帰省した。免許を取りに行きながら、そこでも高校の時の友達に誘われて、坂出のコンビナートの配管清掃のバイトをやった。これも2泊3日ぐらいの泊まり込みで、こちらは喘息の発作が出て、発作を凌ぎながら仕事をした。向こうで発作が出たときのことは全く考えてなかった。そういやあ、ホテルの時は発作がでなかったな。
大学というともっとでっかくてごちゃごちゃしているイメージだったから、クラスみたいなモノまであったこの大学は、ちょっと予想外だった。
ただ、こぢんまりした大学ではあったが居心地は悪くなくて、それなりにのんびりと過ごすことはできたのかもしれない。自分に合っていた部分はあった。免許とってからは原付も買ったし、これで住んでいたところがワンルームマンションみたいな快適な場所だったら出ようとは思わなかった筈だ。
それでも出たいと言う気持ちは変わらず、逆に強くなった。都留は盆地だから、何かしら「埋没する」危機感というのが絶えずあったのかもしれないし、「抜け出したい」願望は徐々に大きくなった。
9月に都留に帰ってきてから、勉強はやる気にならず、かといって大学に行く気は全くなく、大学の掲示板で募集していた富士急の添乗員のバイトをした。これもまた泊まり込みで、行きは貸し切りで東京、帰りは高速バスの添乗をした。1泊2日で勤務が終わった後、営業所のソファで仮眠を取って、もう一回貸し切りバスの添乗を1日やった。発作は出なかった。
それほどハードではなかったが、運転手の人使いが荒くて閉口した。担当者からは「また来てくれ」と言われたが、咄嗟に「大学辞めるんで」と返した。で、辞める方向に舵を切った。
半年、というより運転免許を取るために夏早めに帰省したから実質5ヶ月ぐらいか、それでもまあよく住んでいたと思う。その頃の儂としては考えられない。それほど苦労したり生活に困ったりとしたこともなかったし、耐性はかなり低いと思っていたのだが。最後の最後に、辞める時になって喘息の発作が出て、実家に帰ってから半月ぐらい元に戻るのに時間がかかった。
今考えるとここに記すのも恥ずかしいのだが、クラスにとけ込もうとせず、俺はこんな所に来たかったわけではないオーラが全開だったから本当に失礼で嫌な自分が確かにここにいた。阿呆かと思うしひたすら恥ずかしい。
今は綺麗になっていたが、当時は民青が仕切っているかのような地味な生協とかあって不思議な部分もあった。本をよく買ったが、狭いスペースに並べられている背表紙にはやや偏りがあるようにも感じた。山の方には体育館とグランドとテニスコートがあった。卓球部の見学にも行った。関東の三部リーグという割に動きがみんな速かった。
大学を出る。買い出しに行っていたスーパーがあったところ。自転車買うとかしなかったからいつも歩きだった。車の運転免許とった後で、原付買って(丁度ヘルメット義務化のとき)、いろいろなところを走るようになって行動範囲が少し広くなったが、辞める気持ちは変わらなかったな。
で、ここからは大月駅まで走る。この間を原付でも走ったことはほとんどない。ここまでは振り返りの後ろ向きのラン。ここからは異邦人になって走る探検ラン。折角なのでこの辺りで路地に入る。
大名行列か。当時は知らなかったが、結構歴史がある街のようで。
寺とか神社とか結構ある。
大学からそれほど離れてはいない筈だが、不思議な感じで走り続ける。
国道に出る。
国道沿いのここも初めて。
ローソンに寄る。トイレを借りる。古くからある店のようで。別のときに三浦半島走ったときのセブンも古くからの店のようだった。どちらもトイレで分かる。愛媛のコンビニは最近ぼこぼこ建っていてトイレも新しい。
昨日泊まったカプセルはコンセントがなくて、スマホの電池がやばくなっていた。少々高いが購入。
あれは何が通っているんだろうか。
リニア、とある。どんなもんやろ。
こちらは富士急である。
やがて、甲府に行く国道20号線と交わる。
何となく駅はこちらかと、曲がる。
風情のある店に会う。いいねえ。
で速そうな電車。これも富士急らしい。
大月駅到着。20キロもは走っていない。
あくまで都留ではなく、つるぶんと都留、である。
少しだけいたことがある街である。幼くて大莫迦の自分がいた街。もう行くことはないと思っていたから不思議な気分だった。