きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

都留を出て片倉へ

2017-04-27 21:06:23 | 遠くへ~少しだけ非日常
でつるぶんの続き。

つるぶんを辞めた後、自宅浪人を経て、G大に補欠で拾ってもらった。この半年、そんなに身を入れて勉強に専念していた訳ではなくて、冬になる前には事故起こしたりして相変わらず何やってんだという感じだった。不処分にはなったが、裁判所に親について来てもらったときの情けなさはよく覚えている。

補欠合格までの道のりも平坦ではなかった。それまでは、最近急に駅伝が強くなったあのA大の夜間にだけ受かっていた。昼間の方は落ちた。何でここを「滑り止め」として受けたのかというと、夜間でも4年で卒業できて教員免許(但し2級)が取れてしかも学費が安かったから。
先生になりたいと思っていた。しかし、自分の聞こえの問題から半分諦めてもいた。実際に実習に行って担当の教官から「無理」とはっきり云われ、それがきっかけで方向転換をした。その時はそれでも、という気持ちだった。
で、なんだかんだといいながら、私立はこの二つ受けただけで、後は国立のみ(その国立も前期後期と2回受験できる最初の年だったが、1次試験の出来が現役の時より悪くて、締め切り日の朝まで地元のE大の願書も交互に比べながらの受験だった)。ということで、昼間働きながら大学で教員免許を取ろうかと思っていた。そのA大学の事務のバイト(ほぼフルタイム)募集は、夜間部のある渋谷のキャンパスの枠が埋まってしまっていて、厚木の分しか残っていなかった。待遇はほとんど変わらない(月12万ぐらいだったか)が、八王子→厚木→渋谷→八王子と通うのはさすがにきついのではと、田舎から出てきた19の世間知らずにも分かったらしく、結局断念した。青山キャンパスで雇ってもらえていたら、補欠合格が出ても流石に辞めにくかっただろうし、またその後が違っていたかもしれない。

住むことにしたのは渋谷から遠く離れた八王子。但し京王線で一本。これも、受験の時に配っていたビラに記されていた「紹介センター」と名の付く不動産屋へ行き、1軒目で決めた。八王子で4万3千円。安かったのはJRの線路のすぐ傍でそれなりに五月蠅いからだろう(駅の傍ではない線路である)。京王のこの駅は、G大に受かったからあまり使わなかった。使ったのはJRの方。

北野街道だったと思う。ここを南へ。

しばらく行く。

すぐに見つかった。今は高架になっているが、当時は下だった。1階の窓から電車のお客さんがよく見えた。

元々踏切もあった。これも近かった。横浜線は中央線ほどは本数はないから渋滞するほどではなかったか。

片倉城址公園、1回ぐらい行ったか。この日は行かず。

片倉駅も変わったなあ。

この道は横浜に続く道。正月にマフラー改造した車や単車がものすごい数通っていった。ここにいたのは一年でしかもその時は帰省していたはずだが何でかそんな記憶がある。正月ではなかったのかもしれん。

京王片倉には戻らず、北野街道を少し行くことにする。単車で走ったことがちょくちょくある。この辺りに魚介ベースの拉麺屋があった。初めて食べた味でよく覚えている。この店ではなかったような気がするが。

工事中だったので脇道へ。北野には縁があって、ついに喘息の発作が起きてぜえぜえいいながら病院を探し回っていたとき、一軒目に飛び込んだ病院に紹介されて来たのが「小児科」の個人病院。本当によく診てくれて、今までの治療方針ががらっと変わって、発作のコントロールもそれまでに比べてしやすくなって。で、愛媛に帰るときに、地元の医者まで紹介してくれて。お世話になったその医者が数年前に亡くなったということを、伝え聞いて。まだそんなにお年じゃなかった筈。先生のお陰で大袈裟でなく人生の展望が開けたといってもいいぐらいの出会いであった。ありがとうございました。

もうすぐ到着。

その後は、新宿から日暮里乗り換えで成田へ。

今回のルートその1。

その2。
覆面浪人の結果補欠合格だから、決して一筋縄ではいってない。本人はともかく、このトシになってから思うのは、親の立場なら本当にしんどかったのではないかと。莫迦息子に文句を云いもせず、じっと待っていてくれたというのは事実だし、親には頭が上がらん。
今みたいにモラトリアムが認められてなかった時期だから余計に。だからこそ、我が子は凄いなあと普通に感じる。
有り難いぐらいに親孝行。

それでも、弱くても世間を知らなくても、おおごとにならずにそれなりにやってこれた。
案外何とかなる。運が良かったにしても。