ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

千代の富士死す

2016-08-01 22:00:48 | スポーツ
元千代の富士が亡くなりました。非常に残念です。まさに僕らの少年時代のヒーローでした。

彼が横綱に駆け上がる1年前、いったい誰がそれを予想できたでしょう?左前褌を取っての一気の速攻と、番付を駆け上がるスピードが見事にリンクしたのです。

僕の少年時代のヒーローは初代貴ノ花と千代の富士です。昭和50年代、まだ子供たちは休み時間など、砂場で相撲を取っていました。僕は細かったので、貴ノ花や千代の富士になりきって、泥まみれになっていましたね。決して手を突かず、顔から落ちるという。そんな時代でした。

しかし、千代の富士にも天敵が現れます。元横綱・隆の里。稀勢の里の先代の師匠ですね。一時期、彼には勝てなかった。1年以上、負け続けた記憶があります。隆の里も千代の富士とは違った意味で凄い筋肉の付き方をしていました。肩の盛り上がりがもの凄かった。いまの鳴門部屋の力士の体つきにも亡き親方の面影があります。ほんと力士、横綱って短命だなあ。

隆の里に対する苦手意識を克服した後、台頭してきたのが花のサンパチです。昭和38年生まれ。北尾、小錦,保志、寺尾など。綺羅星の如くでした。特に、小錦と北尾(双羽黒)の圧倒的な体の大きさは、小柄な千代の富士には脅威だったでしょう。しかし、八歳年下の彼らですら、千代の富士を超えることはできませんでした。ちなみにサンパチで最も優勝回数が多いのは保志(北勝海)でした。同部屋の千代の富士に、徹底的に稽古をつけてもらった賜物です。決して体には恵まれてなかったけれど、最大の武器は立合いの鋭い踏み込みにありました。彼がいまや理事長ですから、時は流れました。

優勝回数31回の大横綱・千代の富士にも引退の時は訪れました。引導を渡したのが、千代の富士の憧れでもあった初代貴ノ花の息子、貴花田でした。年齢差17歳。この初日の歴史的一番は、記憶に残っている人も多いと思いますが、僕の印象深いのは二日目の板井戦です。勝ったのですが、捕まえるまで時間がかかり、明らかに集中力がありませんでした。気持ちが切れたことを感じました。

翌日、貴闘力に敗れた千代の富士は「体力の限界。気力もなくなり引退することになりました」の名言を残し引退。年寄陣幕(のち九重)を襲名しました。

今場所の日馬富士の相撲を見て、若き日の千代の富士の相撲を思い出していたところです。立合いから勝負を決めにいく取り口は、近代相撲の祖といっていい。これから千代の富士のような日本人力士は二度と現れることはないでしょう。残念です。ご冥福を祈ります。
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