いま僕の習慣は、日9ドラマ「アライフ」を見る事と、毎日のようにコタツに入り、ZARDを聴く事です。聴いてるうちにうとうとして、目覚めたら、夜中の2時3時というのが、最近の流れです。
僕にとって、1989年というのはパニック障害という原因不明の地獄に落ちた年でした。また世間では元号が昭和から平成へ移り変わった年でありました。
昭和天皇が崩御された時、レンタルビデオ店が空前の賑わいとなり、またこの年、「ザ・ベストテン」が終了しました。共通するのは個人主義の増大。皆でテレビを見る時代が終りました。
例えば、ベストテンの今週の第1位を、家族なり兄弟姉妹で見るということが、面倒になってしまった。音楽を聴くなら、自室にこもり、独りで聴くという流れが完成されつつありました。
この流れに乗ったグループのひとつが、1990年代初頭に台頭したZARDでした。「負けないで」「揺れる想い」などが次々とミリオンセラーとなるビッグヒットを記録していきます。
ZARDといえば何といっても坂井泉水です。ボーカルは勿論、作詞も担当しましたが、古くはユーミン、中島みゆき。その後の宇多田ヒカル、椎名林檎と比較してしまうと、彼女の詞はあまりに等身大で、庶民的でした。ありがちな言葉が並んでいます。
では坂井さんが詞に対して思い入れがなかったかと言えば、そうではないのです。レースクイーン時代の同僚、岡本夏生が「彼女はいつも詞を書いていた。ノートに書き溜めていた」と語っているように、まだ手書きの時代、書いては消し、書いては消しを繰り返していたのでしょう。一見、凡庸に写る言葉たち。では彼女はどこに拘ったのか?それは、自らの気持ちを忠実に再現することだったように思います。
詞の才能は、上記の歌姫たちに及ばなかったかもしれない。彼女の天分は、やはりその美貌と美声にあったのではないでしょうか。僕は美人薄命という言葉から、女優では夏目雅子、そして歌手では坂井泉水を思い浮かべます。今にして思えば、彼女の憂いを含んだ表情は、やがて訪れる悲劇を連想させるものだったのかもしれません。
坂井さんの等身大の詞は、織田哲郎らのメロディにのせて、彼女自身の声で表現することにより、大きな共感を生み出しました。彼女がこの世からいなくなったいまも、力強く生きていて、多くの人を励まし、背中を押しています。そして、これからも永遠に。
僕にとって、1989年というのはパニック障害という原因不明の地獄に落ちた年でした。また世間では元号が昭和から平成へ移り変わった年でありました。
昭和天皇が崩御された時、レンタルビデオ店が空前の賑わいとなり、またこの年、「ザ・ベストテン」が終了しました。共通するのは個人主義の増大。皆でテレビを見る時代が終りました。
例えば、ベストテンの今週の第1位を、家族なり兄弟姉妹で見るということが、面倒になってしまった。音楽を聴くなら、自室にこもり、独りで聴くという流れが完成されつつありました。
この流れに乗ったグループのひとつが、1990年代初頭に台頭したZARDでした。「負けないで」「揺れる想い」などが次々とミリオンセラーとなるビッグヒットを記録していきます。
ZARDといえば何といっても坂井泉水です。ボーカルは勿論、作詞も担当しましたが、古くはユーミン、中島みゆき。その後の宇多田ヒカル、椎名林檎と比較してしまうと、彼女の詞はあまりに等身大で、庶民的でした。ありがちな言葉が並んでいます。
では坂井さんが詞に対して思い入れがなかったかと言えば、そうではないのです。レースクイーン時代の同僚、岡本夏生が「彼女はいつも詞を書いていた。ノートに書き溜めていた」と語っているように、まだ手書きの時代、書いては消し、書いては消しを繰り返していたのでしょう。一見、凡庸に写る言葉たち。では彼女はどこに拘ったのか?それは、自らの気持ちを忠実に再現することだったように思います。
詞の才能は、上記の歌姫たちに及ばなかったかもしれない。彼女の天分は、やはりその美貌と美声にあったのではないでしょうか。僕は美人薄命という言葉から、女優では夏目雅子、そして歌手では坂井泉水を思い浮かべます。今にして思えば、彼女の憂いを含んだ表情は、やがて訪れる悲劇を連想させるものだったのかもしれません。
坂井さんの等身大の詞は、織田哲郎らのメロディにのせて、彼女自身の声で表現することにより、大きな共感を生み出しました。彼女がこの世からいなくなったいまも、力強く生きていて、多くの人を励まし、背中を押しています。そして、これからも永遠に。