三月五日(木)晴れ。
昨日の酒残りおり少々不快なり。名古屋の古い同志の栗野成人さんから電話。お世話になっている方のことや、今回の新潮の報道について話をした。私が、関西方面の同志の反応をお聞きすると、「誰も本当だと思っている者はいません」と一笑に付していた。
正午近く、お世話になっている方、お二人から連絡があり、昼食を共にする。場所は南京街のり香港路にある「安記」。最近はこの店にハマッている。「お粥」もそうだが、小皿料理が美味い。でも昼から酒、という訳には行かず、「モツ皿」「レバ皿」「イカときぬさや炒め」「シュウマイ」をつまんで、仕上げは「お粥」。随分昼間から食べると思われそうだが、「お粥」以外は、皆、小皿料理である。
食後は、事務所に行き、若い人たちと歓談。少々資料整理を行い、五時過ぎに帰宅。夜は、関内駅にて、久し振りにカムバックしたM出版の、H編集長と若いライター二人と待ち合わせての食事会。本当は、「安記」を予定していたのだが、昼間行ったばかりなので、久し振りに元NTT裏の「中華飯店」にした。ここのお店も私のお気に入りだが、本当は、客の接待用の店ではなく、家族やごく親しい人たちと行くお店。でもH編集長も酒はいけるほうなので、是非、ここの「モツ炒め」と「蒸し鶏」を食べて貰いたかった。
その後は、お決まりのコースで「サリーズバー」へ転戦。H編集長は「ラムコーク」、ライター氏は「テキーラ」。私も、そんな酒を二十代の頃に、南京街のバーで飲んだ記憶があるが、最近は洋酒をほとんど飲まない。サリーたちと「ヨコハマ談義」に花が咲く。森鴎外作詞の「横浜市歌」に、「されば港の数多かれど、このヨコハマに勝るあらめや」とのくだりがある。日本の何処の港に行っても、この歌が浮かび、一人悦に入る。でも本当は、「港」ではなく、「波止場」という呼び名が気に入っている。
H編集長と言えば、「実話ナックルズ」誌上で、かつて「噂の真相」の名物コーナー、「マスコミ匿名座談会」を再現して「新潮」を批判している。今や、日本中のマスコミにおいて例の報道を真実だと思っているのは、週刊新潮で、あの特集の取材を行った二、三人の記者と編集長以外にあるまい。それでも私達を含めて、他のマスコミから特集記事のウソを検証、指摘されても決して認めない。
他社の記者とはいえ、亡くなられた方への一片の思いやりも感じられない。
他社、いや新潮の天敵の朝日の記者とはいえ、殺されたのは彼等の同業者ではないのか。その悲しみや、悼みを感じることが出来ないで、どうして社会正義を口にできよう。私は、週刊新潮の高山正之氏の「変見自在」のファンで、新潮が届くと、まず氏のコラムから読む。新潮の読者には、そういった人が多いのではないだろうか。高山氏が常に批判している、共産主義、朝日、独裁者、欧米列強の植民地政策への痛罵には、いつも瞠目させられ、スクラップしているものも沢山ある。
しかし、その高山氏の批判の的である共産主義や独裁者の手法と、今回の週刊新潮の体質が良く似ていることに気がついた。自分達の誤りを認めず、行いを決して反省しない。決定的な証拠を突きつけられても、彼ら、彼の国の指導者は、何と言って逃げるのか・・・。「反共謀略」「共和国に対する誹謗中傷」。今の週刊新潮と全く同じではないのか。私達が早川氏ら三名の社員と面談した折には、私達が指摘する矛盾点には一切答えることをせずに、掲載の理由を、「信用するに足る事実」「ブレがない供述」を繰り返した。私は、同じ日本人でありながら、日本語の通じない人たちが存在していることに驚き、そして失笑した。
誤報ではない。虚報なんだよ、早川君。
週刊新潮に寄稿している、高山氏や福田和也、櫻井よし子氏などの保守を代表する論客の原稿も、その掲載誌そのものが虚報を平気で掲載し、恬として恥じないのならば、同じレベルのものとして、色褪せて見えてしまう。まさか、今や「赤雑誌」同様になった、雑誌に原稿を載せなければならないほど、他に仕事がないわけではあるまい。本来ならば、高山、福田、櫻井といった人たちこそが、虚報を糺し、意見が聞き入れぬならば執筆を拒否するくらいの毅然たる態度を示してほしい。そして、きっとこのような世間の批判や同業者の危機感を知らずにいるだろう佐藤社長に諌言を呈すべきではないのか。
誰にだって誤りはある。大切なのは、それを認めて謝罪するのか、どうかなのだ。もしここで、週刊新潮が、あの連載において、「なぜ騙されてしまったのか」と再検証を行い、実名をあげた関係各位に対して、その非を誌面において真摯なる謝罪をしたとしよう。この新潮の姿勢に対して、誰が非難し、誰が笑うというのだ。その勇気こそ、新潮社のみならず、全てのマスコミの信頼につながる、ということが理解できない人たちではあるまい。
くどいようだが、今回の新潮の「虚報」は、単に、新潮社と、実名報道された当事者、あるいは民族派との諍いではない。日本の全てのマスコミに対する「信用」の問題でもある。この認識がなければ、今後、心ある人たちは、週刊誌に掲載された記事の全てを、いや週刊誌そのものを信用しなくなるだろう。こういった危機感や責任感の欠落こそ、今回の虚報掲載に結びついたのではないか。「頬被りしていれば、嵐が過ぎて行く」、などという手法は、絶対に通用しない。なぜならば、長引けば、長引くほど、新潮社の傷が深くなるのは自明である。
ひよっとすると、近々、木村三浩氏からウルトラCの展開が披露されるかもしれない。そうなると創業以来の大恥をかくことになるだろう。