三月二十六日(木)雪のち曇り。
朝、トイレに起きて、何気なく外を見れば、何と、この時期に雪が舞っているではないか。おおっ!と、いっぺんにに目が覚めてしまった。
ヨコハマなどにいると雪は思いがけないプレゼントのように感じてしまうが、雪を見ると、脳裏に浮かぶのは網走時代のことである。網走では、雪は格闘して克服するものであることを身をもって知った。農場に出た時は、冬場は、畑作業が出来ないので、住吉農場という山深い場所に移動して、伐採の仕事をやらされた。網走は明治の香りのする刑務所である。その当時の囚人が植林したのであろうか、明治、大正、昭和と名札のついた木が沢山あった。 雪を掻き分けて山道を登り作業場に行くのだが、私のような体の大きい者が前列に並び、人間ラッセル車のようになって胸のあたりまで積もった雪を掻き分けて進む。後に続く者が、雪を踏み固めながら道をつけて行く。零下十度以下であっても、この「道つけ」で汗が滴り落ちる。作業場に着けば、木の間引きや枝払いの作業を行う。
チェンソー部隊が木を切り倒す。「倒すぞー」「倒れるぞー」と、囚人同士が声を掛け合う。すさまじい雪煙と地響きをあげて大木が倒れる。「倒すぞー」の声を聞き漏らしたならば、それこそ命がない。金太郎が担いでいるナタに似た「サッテ」という刃物で「枝払い」を行い、丸太になったものを、またチェンソー部隊が三メートル五十センチに「玉切り」して行く。一本が四、五十キロもある、その「玉切り」された木を担いで集材場へ運ぶ。雪ですべったりしたら、確実に大怪我をする。映画「網走番外地」そのままのシーンである。
雪を見ると、網走時代のことを決して忘れまい、と思う。あそこで学んだこと、野村先生が、母の名前で寄こす「朝の来ない夜はない。頑張れ」という電報。野村先生はもとより、三上卓、佐郷屋嘉昭、井上日昭の大先達や多くの先輩達も獄に耐えたのではないか。何のこれしきのことでくじけてなるものか、と歯を食いしばって頑張った。
野村先生の獄中句に、
この雪の打擲 耐えて耐えてゆく
吹き上ぐる獄の寒風敗けてならじ
俺に是非を説くな 激しき雪が好き
がある。野村一門の幹部は、皆、こういった獄中経験をして、少しでも野村先生に近づこうと努力している。拉致の問題、政治の腐敗、世の不条理・・・・。野村先生がご存命ならば、どう考え、どう行動するのだろうか。門下生ならば、常に、このように考える。それが何だ、島村と言う野郎は、野村先生と一度も会ったこともないくせに、先生の名前を利用して、嘘を並べて恥じないどころか、新潮社から金を貰っているというではないか。出てきて、我々に直接会わなくとも、どこかのマスコミに真実を話して謝罪をするならばともかく、絶対に知らぬ振りはさせない。幸いに、一水会の木村代表が最近の島村の写真が手に入るとのことなので、このままとぼけていたら日本中の民族派に写真を公開するつもりでいる。
朝食の後に、事務所へ。来客多し。社友、会友、他団体の人たちが次々と訪れて、仕事にならなかったが、それはそれで楽しい。今回の新潮社の問題があってから、一門はもとより、大行社などの親戚団体などからの支援が多くなった。来月三日の、「北海道青年フォーラム」にも、北海道総本部の谷口総本部長から、動員の連絡が入ったり、東京からも同志が多く駆けつけてくれる。もちろん北海道の読者、社友も総動員体制で臨む。
夜は、大行社の三本菅啓二先生のお世話で、日本橋の某所で食事会を行った。出席は、阿形充規総長、市村清彦青年思想研究会議長、丸川仁大行社本部長、犬塚哲爾八千矛社代表、木村三浩一水会代表と私の七名である。話は勿論「新潮社」と島村のことに始まり、時局を肴に良い食事会となった。食後は、六本木に転戦して十時まで。大破・轟沈で、丸川本部長と帰路についた。