三月八日(日)曇り。
午前十一時に、社友の松本佳展君が来訪。共に野村先生のお墓参りに行く。途中、伊勢原の駅にて、同じく社友の大熊雄次氏をピックアップ。ヨコハマを出る時は、空が今にも泣き出しそうだったが、伊勢原に着けば青空が広がっていた。
浄発願寺で塚越住職にご挨拶をしたのちに、先生のお墓を掃除。良い天気でありがたい。きれいになったところで、花を手向け、線香を上げて手を合わせた。その後、私の両親のお墓にもご挨拶。前回来た時の花があまり傷まずに残っていた。花が好きだった母のために、新しいものを供えた。その後、遅い昼食の後に、大熊氏をもよりの駅まで送った後に、帰宅。
まだ「週刊新潮」の「赤報隊報道」の波紋が消えない。毎日、様々なメディアから取材が来る。しかし、その取材も報道の信憑さより、「新潮の責任」という方向に変わってきた。くどいようだが、メディアの誰一人としてあの報道が真実だと思っている者はいない。俗に、不動産の取引を揶揄して言う言葉に「せんみつ」というものがある。千に三つ、ほどしかまともな話がない、という意味で、くだらない売買の話ばかりを持ってくる者を、「せんみつ野郎」などと使う場合もある。今回の「週刊新潮」の報道は、「せんみつ」どころか、「万ガラ」。つまり、万に一つも真実がない「万ガラ記事」といっても過言ではない。
戦後のマスコミにおける最大の虚報、捏造事件と言うものは、何といっても昭和二十五年に朝日新聞の記者が行った、共産党員、伊藤律の会見報道であろう。
1950年に朝日新聞神戸支局の記者が、当時レッドパージにより地下に潜伏中だった日本共産党幹部だった伊藤律と宝塚市の山林で数分間の会見に成功。記者は目隠しされた上で潜伏先のアジトまで案内されたとあった。大阪本社通信部のデスクから真偽を疑う声が出たが、編集局長は現場の声に押されて掲載を決める。東京本社ではさらに共産党担当記者から伊藤がインタビューに応じる必然性がないなどの声が出たが、「大阪がそこまでがんばるなら」という声に押されて報道に踏み切った。
9月27日付朝日新聞記事で、朝日新聞記者と伊藤律の会見を掲載。伊藤の表情が書かれ、記者との一問一答まで紹介されていた。この会見記事は伊藤の行方を追っていた警察も大騒ぎになった。しかし、法務府特別審査局の聴取に対し、取材記者が伊藤律と会見していたとする時間に旅館にいたことが発覚するなど供述に矛盾が出て、ついに会見記事が完全な虚偽であったことが記者の自白により判明。朝日新聞は3日後の9月30日に社告で謝罪した。
担当記者は退社、神戸支局長は依願退社、大阪本社編集局長は解任となった。担当記者はその後に「勅令第311号違反」で逮捕され、執行猶予判決を受けた。担当記者は捏造の動機について特ダネを書こうという功名心からと述べた。
朝日新聞はこの記事を縮刷版では非掲載となっている(現在もこのページのみ白紙で虚偽であったと「お断り」告知になっている)。
「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」より。
どうだろう、今回の「週刊新潮」の「赤報隊実名報道」とそっくりではないか。その「新潮」の虚報、捏造記事も、間違いなく歴史に残るに違いあるまい。五万部増刷オメデトウゴザイマス。