五月十九日(火)晴れ。
良い天気である。朝食を済ませ、午前中にお世話になっている方々に手紙を四通書いた。正午から久し振りにウォーキング。一時間二十分歩いていい汗かいた。昼食は「稲庭うどん」。中間テストで昼に帰って来た子供と、愚妻には、稲庭うどんにキャベツ、玉ネギに缶詰のツナを入れて炒め、焼うどんにした。私は、冷たいつけ汁で、シンプルに食べた。
午後から事務所。来客四名。マスコミ二人に、友人二名。来客は嬉しいが、ほとんど仕事にならないので良し悪しだ。早めに帰って「大吼」の編集の手伝い。終了後は、近くのスーパーで買った茶色のラベルの「宝山」の四合をちびちびやったが、これがなぜかイマイチだった。肴は「チヂミ」に「冷奴」。相性が悪かったのかな。美味くなかった。やはり浮気せずに、「黒霧島」にすれば良かったと反省。
先日、ネットで本を取り寄せた。柳ジョージさんの「ランナウェイ・敗者復活戦」(集英社文庫)。横浜について書かれたいたり、横浜のことが出てくる本を集めている。以前、「小説に描かれたヨコハマ散歩」という連載をしていたが、中途半端に終わってしまった。また頑張ろう。柳ジョージさんの本の中に、ステキなフレーズがあった。
1960年後半のYOKOHAMA。港の前の道、公園通りを南に行くと本牧に出る。そこがおれたちのホームグラウンドだった。面白い町っていうと、ちよっと違うな。遊ぶところが何でも揃っているなんていう町じゃない。レストランのようなクラブが何軒かあって、それ以外に何があったかといえば、フェンスだけだった。
フェンスーーその向こう側はアメリカだった。 米軍のキャンプがあって、そこは確かに異質な世界だった。そこから吹いてくる風があったんだね。その町にある、なんてことないクラブへ行くと、R&B、リズム・&・ブルースが流れていた。みんながビートルズに驚きまくっていた時代にR&Bだった。
おれたちは伊勢佐木町のディスコに出ていた。バンドをやってたんだ。それが終わると、たいてい本牧へ遊びに行った。そのときに港の前を通る。港は活気があった。おれたちがマリンタワーの下にあるハンバーガー・インにいると、目の前の公園通りをナポレオン党が走っていくんだ。“元祖・暴走族”みたいなもんだね、これは。あの時代にトヨターS800だけを10数台連ねて走っていた。
ナポレオン党とゴールデン・カップスが、YOKOHAMAのシンボルだったね。カップスはまだグループ・アンド・アイという名前で本牧のクラブ、ゴールデン・カップに出ていた。やっていたのはR&Bだった。
柳ジョージさんたちが出ていたのは、伊勢佐木町の「アダムとイゥ゛」か、馬車道のラタンビルの上にあった中川三郎のディスコティック・・・。本牧には、カップのほかにリキシャルーム、IG(イタリアン・ガーデン)やスターライト、べべなどの店があった。まだ本牧には市電が走っていた。そういえば、先日亡くなられた、作曲家の三木たかし氏の妹、黛ジュンをカップで見たことがあった。超ミニで踊っていたが、ヨコハマの女のニオイがしなかったのを、良く憶えている。
酔いの中に、昔のヨコハマが甦ってきた。あの頃の、アイツやお前、一緒にヤードバーズを聴いた女の子達は元気なのだろうか・・・。