白雲去来

蜷川正大の日々是口実

今日も、清水氏を悼む。

2010-05-30 11:12:51 | インポート

五月二十九日(土)曇り。

 今日は、下の子供の運動会である。私達の頃は、運動会と言えば秋の季語だった。私が小学生の頃は、運動靴よりも、皆、「はだし足袋」を履いて運動会に行った。家を出るとき、真っ白な足袋の「こはぜ」をとめると、何か、足が軽くなったような気がして、また身が引き締まったことを憶えている。

 

 いつも母は仕事で見に来てくれたことはなかったが、小学生の頃は、ドン臭くて、走ることは得意ではなかったので、見に来てくれないことの方が、気楽で良かった。しかし、中学に入ってからは、陸上競技を始めて、長距離の部ではいつも優勝していたので、母が来てくれないことが、すこし寂しくもあった。

 

 生まれて初めて賞状と言うものを貰ったのは、中学一年の時の校内陸上大会。千五百メートルで優勝したときのもの。いつまでも、その賞状を眺めていた母の姿を思い出す。

 

 下の子供は、女の子のクセに、運動会が大好きで、「私の季節が来た」と、随分前から張り切っている。運動会の実行委員長となり、生徒を代表して挨拶をしたり、騎馬戦では女子の大将を務めた。百メートル走では、男子に次いで二位。本当は陸上競技、それも中距離をやらせたいのだが、中々ウンと言ってくれない。

 

 運動会の会場にいても、昨日、急逝した清水氏の葬儀に関して、様々な人から電話が入った。皆、一様に清水氏の逝去に驚いていた。帰宅してから、清水氏のことを思い出しながら、弔い酒、とも思ったが、「家飲み」中止のインスピレーションが清水氏からのシグナルと思って、やめた。

 

 月曜日が通夜、そして翌日が告別式。こうして仲の良かった人たちが、一人、又一人といなくなる。そして私には、当たり前だが、変らぬ日常がある。生者必滅、会者定離 という人生の無常観を感じずにはいられない。

 

 野村先生の口癖でもあった、「人間は、二十歳で死のうが、三十で死のうが、死ぬ一年前は、皆等しく『晩年』なのだ。だから、どれだけ生きたのではなく、どう生きたかが大切なんだ」と言う言葉を思い出す。

 

 そう言う意味では、運動一筋で生きてきた清水さんが、「どう生きてきたか」と言うことは、知る人ぞ知り、同じ運動家として尊敬に値する。かけがえのない同志を失くした。この喪失感は、酒では埋まらないだろう。あらためてご冥福をお祈りいたします。

200511 ※平成十七年、バンコクのレストランにて。右の三人は、バンコク在住の私の友人。

Img221 ※バンコクの動物園にて。

Img220 ※バンコクで、私の友人が経営する「いもや」の前で。

Img219 ※バンコクの駅にて。右から、藤巻強、蜷川、内田春雄の諸氏と。思い出は尽きません。

 


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