白雲去来

蜷川正大の日々是口実

小村寿太郎の毒舌。

2012-02-07 12:37:29 | インポート

二月六日(月)曇りのち雨。

 今日は、同い年で、自宅近くの焼肉屋「清水苑」のマスターだった永山ユキさんの三回忌である。町内の仲良しのジジ・ババたちと二十八日に「清水苑」で偲ぶ会をする予定でいる。過ぎてしまったが今月の一日は、正気塾の若島征四郎先生のご命日で、明後日の八日は、後輩で国防青年隊の倉持次雄君の命日である。また十四日は、野村先生の誕生日で、毎年群馬県の雷電神社にて門下生が「生誕祭」を行っており、私も毎年出席している。

 

 昨日、小村寿太郎のことを書いたが、吉村昭の「ポーツマスの旗」の中に、小村の面白いエピソードが書いてある。それは、彼が駐清特命全権公使で北京にいる頃に、万寿節の祝賀会に招かれた。その席上で恰幅の良い清国の宰相、李鴻章が、各国の公使夫妻らの前で、小村が最も背が低く「清国の十五、六歳の子供くらいだ」と笑いながら言った。すると小村は、「日本では大男総身に知恵がまわりかね、うどの大木、半鐘泥棒と言って大男は国家の大事を託しかねると言われている」と言い返した。

 

 小村の面目躍如たるエピソードではないか。その大男の李鴻章が日清戦争の敗戦処理のため全権公使として日本を訪れ、「ふぐ」で有名な春帆楼でどれほど身を小さくしたのか、当時の映像でもあれば見てみたいものだ。

 

 夜は、買い物に出たスーパーで「知心剣」という麦焼酎を買って、テイクアウトした焼き鳥で一杯やった。目の錯覚か、この「知心剣」という文字を見ていたら、ふと先輩で亡くなられた矢代和剣さんの名前が浮かんだ。単に字ずらが似ているだけなのに、なぜかしんみりした。目まで老いたか・・・。


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小さな日本人が欧米人と死闘を演じたのは驚嘆に値する。

2012-02-07 12:07:01 | インポート

二月五日(日)曇り。

 

 昨日から体調が悪いので(多分風邪のひき始め)薬局に行ったら、血圧の薬などを飲んでいるのだから漢方の方が良いと言われ「葛根湯」を買って、生姜湯と一緒に飲み、二時間ほど昼寝をしたら、あらら不思議、体調が戻った。夕食前に風呂に入って、軽めの食事をしてから、早々と布団に入って吉村昭の「海の史劇」を読んだ。

 

 そういえば今日、別府大分マラソンがあった。最近は男子選手に大した人がいないので、興味が薄れて男子マラソンをあまり見なくなった。宗兄弟や瀬古が全盛期のころが懐かしい。いや別大マラソンというよりも私が学生時代は毎日マラソンと言っていた。まだテレビ中継がなくラジオで聞いていたことを思い出す。

 

 芸人の猫ひろしが二時間三十分二十六秒で走った。これは素人のランナーでは大したものだ。先日行われた大阪国際女子マラソンでいえば五位に入った嶋原清子のタイムが二時間二十九分五十一秒。六位の佐藤由美が二時間三十二分四十九秒だから、女子の中堅選手といい勝負だ。本格的に陸上競技をやってきたわけではないのに、その努力には敬服する。

 

 その猫ひろし、身長が一四七センチしかないという。うちの下の子供が中学一年でも一五七センチで、クラスでは真ん中より少し後ろと言うのだから、現代の男性で一四七センチと言うのは失礼ながら、目立つぐらい小さいのではないか。背が低いと言えば、日露戦争の講和条約の締結に努力した時の外務大臣の小村寿太郎は、背が低いことから北京公使の時に口さがない連中から「ねずみ公使」と揶揄されたそうだ。

 小村は、ハーバードに留学する際のパスポートには身長を156㎝と書いたそうだが、実際は143㎝が定説となっている。明治三十三年の十七歳の平均身長が157・5㎝だから、もし小村がパスポートに書いたように156㎝であったなら、当時としては、揶揄されるほど小さい方ではないだろう。

 

 以前、靖国神社に陳列されている旧軍人の軍服を見て、ずいぶん小さいなぁーと思ったことがある。それにしても、小さな日本人が、おおきな欧米人と三年余も死闘を演じたのだから大したものだ。背の低さなど人格や人間的には全く問題がない。


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