白雲去来

蜷川正大の日々是口実

腕(かいな)の中で、千人の男を寝かせた女は菩薩である。

2013-05-20 10:25:36 | インポート

五月十八日(土)晴れ。

昨日、免許の講習に行った時に、南区役所の売店に「横濱南区・昭和むかし話」という冊子が売っており、二百円と言う安さもあって購入した。平成十五年の「南区制六十周年記念」として製作されたものだ。平成二十五年の今年は、区制七十周年となるから、私の住む南区の区制はそれほど古くはない。

区史によると南区は、横浜市を構成する十八区のうちのひとつ。中区から分離した際に中区の南にあることから命名された(のちに西区が中区から分離しているので現在の中区から見ると西にある)。十八区の中で人口密度が最も高く、二位の西区(13,773人/km?)に大きく差をつけている。昭和十八(1943)年十二月一日 、 戦時配給制度の手続の軽減を図るため、寿・大岡両警察署管内の各町を中区から分離して南区が誕生。

まあそんなことはどうでも良いのだが、購入した南区の「むかし話」の中に、昭和五年生まれの土屋榮一さんの「遊郭のあったまち」という一文がある。横浜の大通公園、地下鉄の阪東橋駅の近く、横浜橋商店街の裏に大鳳神社がある。地名は真金町で、私の子供の頃は、その場所に遊郭があった。今もその名残があって道路の真ん中には柳の並木があり、三四年前までは、遊郭として使用された風情ある建物が残っていた。

土屋さんの話によると、「遊廓のある町の人たちは、遊廓に対して、決して売春宿と言う見方をしていませんでした。遊廓を卑しめる言葉は決して使いませんでした。みんな遊女たちを親しみを込めて「お女郎さん」と呼んでいました。町の商店にとっても彼女たちはお得意さんでした。戦後、周囲が米軍に接収された後も、一般の婦女子を守る防波堤にしようという意味合いで遊廓はそのまま残されました。進駐軍が主なお客さんになり、外国人相手と日本人相手の店とに分かれたようです。そして昭和三十三年に売春防止法ができて、遊廓は無くなりました。」

ちなみに「柳の並木」は、顔見知りが通りの向こうから来た時に、並木に身を隠しながらすれ違うことができるというのです。遊郭は遊女たちの『恥じらい』に配慮した造りになっていると思いました」と土屋さんは書いている。

現代の感覚では、女性が体を売って商売をすることは、良くないこととされているが、少し前までは、堂々とした職業でもあり、ある意味では文化でもあった。当時は、そういうことでしか日々の糧を得られない人たちがいたことも事実なのだ。だからこそ日本人は、「遊廓を卑しめる言葉は決して使いませんでした。」のだ。

ソープ、ヘルス、デリヘル・・・。これらの職業も店舗もすべて合法的なものだ。それらの店に行く人、あるいは女性を呼ぶ人たちが、単に「話し相手」欲しさでないことは言わずもがな。またそういうお店や、働く女性たちを声高に罵ってみたり、後ろ指を指したりすることは、日本男児のすることではないし、男の作法でも決してない。「千人の男を自分の腕(かいな)の中で寝かせた女は、ある意味で菩薩に近い」というようなことを言った作家がいた。

慰安婦と一夜を過ごし、従容として戦地で死んでいった兵隊も沢山いたはずだ。確かに「苦界に身を沈めた」という不幸な女性もいただろう。しかし、その当時は、「遊郭」や「遊女」は合法であり、文化を形成していたことだってあったのだ。「歴史と言うものは、ミラーボールと一緒で、照射する角度によっても光ったり、陰にもなったりする。その陰の部分だけで強調しても真実は見えてこない」と言ったのは野村先生だった。

夜は、友人のご夫妻と、後輩とで、地元の寿司屋で一献。その後、一軒転戦してから帰宅。


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