五月十日(金)曇り。
今日は母の命日である。朝食後に様々な支払いを兼ねて、仏壇のお花や供物を買いに出た。私の母は、大正八(1919)年生まれであるから、元気ならば九十四歳となる。十二年前に脳こうそくが原因で亡くなった。従って今年で十三回忌となる。
亡くなる三年前から寝たきりとなり、いわゆる植物人間のようになり、父がつきっきりで母の世話をしていた。週に一度ぐらい、母の所へ見舞に行ったが、父の介護には一切反応をしない母だったが、私が耳元で「バアバ」と声を掛けると、体をビクッとさせた。
それを見ていた父が、「俺には全く反応しないのに、息子が来ると分かるんだなぁー」と嘆息した。父は、私の実の父親ではなく、私が結婚して家を出た後に、母と一緒になった。職人気質のまっすぐな人で、私の子供たちを実の孫のようにかわいがってくれた。母が倒れてから父の献身ぶりは、実に大したもので、週に一二度来訪するヘルパーさんの間でも有名だった。母が亡くなった日に来た医者と看護師が、私に向かって「三年も寝たきりで床ずれのない人は珍しいですよ」と、実の息子であるにも関わらず、ただ声を掛けることしかできなかった私へ、少々非難じみた感じで言った。
母が亡くなってからも、三日に一度伊勢原にあるお墓に行き、駅前のお花屋さんとも親しくなっていた。母が亡くなってから三年後に父も他界したが、その折に、父が行っていた伊勢原のお花屋さんに、父の写真を見せたら、「えっ亡くなられたのですか」と非常に驚いていた。
我が家の御仏壇に、母の好きだった花、「母の日」が近いので、今日はカーネーションを沢山飾った。前述したように、母は大正八年の生まれである。西暦は一九一九年。母が生まれた年と言うのはどんな時代であったのか、調べてみた。 白ロシア・ソビエト社会主義共和国樹立、 ドイツのミュンヘンでドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党)が結党、 第一次世界大戦の終結に関するパリ講和会議開催、イタリアでベニート・ムッソリーニが「戦士のファッショ(後のファシスト党)」を結成、ドイツが連合国とヴェルサイユ条約を締結、孫文らが中国国民党を創立、アメリカ合衆国でボルステッド法(禁酒法)制定。そしてこの年に日本で カルピスの販売が開始された。そうかアメリカでアル・カポネが暴れまわったのは、母が生まれた時代だったのか・・・。
余談だが、「桜田門外の変」が起きたのは安政七(一八六〇)年のこと。母が生まれる五十九年前のことである。当然ながら、母の父、すなわち私の祖父は明治生まれ。(我が家には二十人ほどの名前が書かれた過去帳があるが、法名と没年のみが記載されていて俗名や母との関係が記されていない) 母の祖父は、間違いなく江戸時代の人となる。私にとっては曾祖父となる人である。母までは、皆富山県は滑川の出身であるから、「桜田門外ノ変」には遭遇されていないだろうが、もし東京にいたならば、生々しい話を母は聞いていたかもしれない。
何を言いたいかと言えば、近代史において、高々百五十年くらいは、つい昨日、と言えば大げさかもしれないが、私が小学生の頃であったならば、そういった話をリアルタイムで聞けたかもしれないのだ。ちなみに母は、昭和十一年には東京の渋谷にいて、二二六事件のことを覚えていた。母が十七歳の時の出来事である。
正午から松本佳展君に迎えに来て頂き、川崎の野村先生の家に行く。先日、奥様から連絡があり、野村先生の本を私にくれるということで、頂きに行った。まずお仏壇に手を合わせてから、押し入れにあった本の片づけをしたが、嬉しいことに、先生の読んでいた本は、ほとんど私も読んでいる。何か先生の息吹が感じられて、少しほろっと来た。松本君が「大右翼史」を欲しいと言うのでプレゼント。
奥様にお礼を言ってお暇した。本は、そのまま事務所へ。整理するのが楽しみである。
夜は、久しぶりに、自宅近くの焼肉屋「清水苑」へ行った。最近は歳のせいかあまり肉を食べたいと言う欲求がない。それでもご近所付き合いも大切。その後、すぐ近くの「魚くま」へ転戦してから帰宅。