白雲去来

蜷川正大の日々是口実

お墓参り。

2013-05-13 12:50:37 | インポート

五月十二日(日)晴れ。母の日。

十日が私の母の命日だったので、家族でお墓参りに出かけた。東名高速はガラガラ。海老名のSAで「メロンパン」を買うのはお約束。途中の農協の生協で野村先生のお墓と私の両親のお墓に供える花を買う。

野村先生のお墓にはまだ新しい花があった。今日に限らず、いつも先生のお墓には花が添えてあり、誰かが訪れている。有難いことだ。両親のお墓を時間をかけて清掃して、カーネーションを供えて家族で手を合わせた。

帰宅途中に、近くのホームセンターに寄り、圧力鍋を買った。古いものが壊れてから久しいので、ようやく購入した。これで「牛筋煮込み」や「牛のハチノス」などの料理が簡単にできる。

五時半まで仕事をしてから、いつものお友達、カメ&アコちゃんとヒデちゃんと「颯」へ。しばらく飲んでら「やまと」に転戦。近々、洋光台のSさんもお誘いするつもり。

P1000535 ※野村先生のお墓。


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本場金沢八景の「わかめ」。

2013-05-13 12:23:58 | インポート

五月十一日(土)曇りのち雨。

午前中に、修学旅行の打ち合わせと荷物を学校に運ばなければならないと言う子供と、その友達を車で学校に送って行った。四泊五日で北海道に行くとか。函館、札幌、小樽、旭川と豪華なものだ。ちなみに子供の行っている学校は、三選択制とかで、北海道の他に、沖縄、語学クラスは、何とカナダというコースもあるとのこと。

たかが(失礼)修学旅行で親も行ったことのないカナダなど論外だが、沖縄はこの時期は梅雨。北海道の選択は大正解である。最も、昨年の六月に沖縄には一緒に行っているので、北海道を選んだとのこと。下の子供も、来週から修学旅行で京都と奈良に行く。私が中学生の頃は、やはり京都と奈良に行った。上の子供が、中学生の頃に京都奈良へ行った折の写真を見たが、二条城などでは、私の時代に撮ったほとんど同じ場所で記念写真を撮っていたのには感慨深かった。高校の時は、九州だったが行かなかった。

高校と言えば、昨日、金沢八景に住む同級生の木川勲氏より、地元金沢の「わかめ」をご恵送頂いた。毎年、この時期に頂くのだが、私はこの金沢の「わかめ」が大好物である。知らない人は、えっ金沢八景や文庫の海で「わかめ」が獲れるのと驚くが、八景や文庫は私が中学生の頃までは遠浅の海があった。ほとんど埋め立てられてしまったが、今でも海はある。

確かに、北陸のわかめと比べると、少々見てくれが悪いが、何の何の、味は独特で美味しい。北陸のわかめが、公立の進学校ならば、「金沢のわかめ」は、横浜高校が、私たちの時代には、「横高」をもじって「ヨタ高」と呼ばれていた時代の不良の面影がある。とにかく気取らず飾らず、懐かしさとワイルド感がいいのである。早速味噌汁に入れたり、今日はわかめたっぷりのうどんを作った。

木川氏は、高校時代も有名で、学生服の下にダボシャツ、雪駄姿で登校していた。私と一緒に港で夜勤のアルバイトをやってから学校に行き、教室で寝ているということを何度も繰り返した。確か実家は魚屋さんだった。現在は、金沢の神輿会の重鎮として活躍している。最近は歳のせいか高血圧で調子が悪いようだが、健康に留意して頑張って貰いたいものだ。

P1000539 ※「本場金沢八景のわかめ」です。

夜まで、「大吼」の校正。もう一息である。一段落をしてから松原商店街へ買い物。マグロのブツを買ってきて酔狂亭で独酌。


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母の命日。

2013-05-13 10:36:08 | インポート

五月十日(金)曇り。

今日は母の命日である。朝食後に様々な支払いを兼ねて、仏壇のお花や供物を買いに出た。私の母は、大正八(1919)年生まれであるから、元気ならば九十四歳となる。十二年前に脳こうそくが原因で亡くなった。従って今年で十三回忌となる。

亡くなる三年前から寝たきりとなり、いわゆる植物人間のようになり、父がつきっきりで母の世話をしていた。週に一度ぐらい、母の所へ見舞に行ったが、父の介護には一切反応をしない母だったが、私が耳元で「バアバ」と声を掛けると、体をビクッとさせた。

それを見ていた父が、「俺には全く反応しないのに、息子が来ると分かるんだなぁー」と嘆息した。父は、私の実の父親ではなく、私が結婚して家を出た後に、母と一緒になった。職人気質のまっすぐな人で、私の子供たちを実の孫のようにかわいがってくれた。母が倒れてから父の献身ぶりは、実に大したもので、週に一二度来訪するヘルパーさんの間でも有名だった。母が亡くなった日に来た医者と看護師が、私に向かって「三年も寝たきりで床ずれのない人は珍しいですよ」と、実の息子であるにも関わらず、ただ声を掛けることしかできなかった私へ、少々非難じみた感じで言った。

母が亡くなってからも、三日に一度伊勢原にあるお墓に行き、駅前のお花屋さんとも親しくなっていた。母が亡くなってから三年後に父も他界したが、その折に、父が行っていた伊勢原のお花屋さんに、父の写真を見せたら、「えっ亡くなられたのですか」と非常に驚いていた。

我が家の御仏壇に、母の好きだった花、「母の日」が近いので、今日はカーネーションを沢山飾った。前述したように、母は大正八年の生まれである。西暦は一九一九年。母が生まれた年と言うのはどんな時代であったのか、調べてみた。  白ロシア・ソビエト社会主義共和国樹立、 ドイツのミュンヘンでドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党)が結党、 第一次世界大戦の終結に関するパリ講和会議開催、イタリアでベニート・ムッソリーニが「戦士のファッショ(後のファシスト党)」を結成、ドイツが連合国とヴェルサイユ条約を締結、孫文らが中国国民党を創立、アメリカ合衆国でボルステッド法(禁酒法)制定。そしてこの年に日本で カルピスの販売が開始された。そうかアメリカでアル・カポネが暴れまわったのは、母が生まれた時代だったのか・・・。

余談だが、「桜田門外の変」が起きたのは安政七(一八六〇)年のこと。母が生まれる五十九年前のことである。当然ながら、母の父、すなわち私の祖父は明治生まれ。(我が家には二十人ほどの名前が書かれた過去帳があるが、法名と没年のみが記載されていて俗名や母との関係が記されていない) 母の祖父は、間違いなく江戸時代の人となる。私にとっては曾祖父となる人である。母までは、皆富山県は滑川の出身であるから、「桜田門外ノ変」には遭遇されていないだろうが、もし東京にいたならば、生々しい話を母は聞いていたかもしれない。

何を言いたいかと言えば、近代史において、高々百五十年くらいは、つい昨日、と言えば大げさかもしれないが、私が小学生の頃であったならば、そういった話をリアルタイムで聞けたかもしれないのだ。ちなみに母は、昭和十一年には東京の渋谷にいて、二二六事件のことを覚えていた。母が十七歳の時の出来事である。

正午から松本佳展君に迎えに来て頂き、川崎の野村先生の家に行く。先日、奥様から連絡があり、野村先生の本を私にくれるということで、頂きに行った。まずお仏壇に手を合わせてから、押し入れにあった本の片づけをしたが、嬉しいことに、先生の読んでいた本は、ほとんど私も読んでいる。何か先生の息吹が感じられて、少しほろっと来た。松本君が「大右翼史」を欲しいと言うのでプレゼント。

奥様にお礼を言ってお暇した。本は、そのまま事務所へ。整理するのが楽しみである。

夜は、久しぶりに、自宅近くの焼肉屋「清水苑」へ行った。最近は歳のせいかあまり肉を食べたいと言う欲求がない。それでもご近所付き合いも大切。その後、すぐ近くの「魚くま」へ転戦してから帰宅。


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