五月二日(木)曇り。
過日、産経新聞の「憲法草案」が掲載されていた。いわゆる「改憲」には様々な論議がある。現行憲法を廃止し明治憲法復元論。自主憲法制定論。あるいは現行憲法一部改正論等。民族派の最大組織、全日本愛國者團體會議は随分前に独自の「皇国憲法草案」を作成している。
このように民族派内部でも議論されてきたが、それはさて置いて、世論調査においても「改憲」を支持する人たちが五十%を超えているのは喜ばしいことだ。また、自民党をはじめとする保守勢力は、夏の参議院選挙において「改憲」を公約として戦うと公言している。しかし、マスコミはこの動きを封じ込めようと様々な策動をしていることが徐々に目についてきた。
先日も、元どこかの知事とか言う、落語家のような顔をした男が、「まだ国民の中に改憲の機運が盛り上がっていない」とか、おきまりの「時期尚早論」を述べていた。では、一体いつならば良いのか。ということは言質をとられるから発言しない。一般の国民が「九条を改正しろ」などと叫ぶことの方が、かえって異常なのである。政治家が問題提起をして、国民がそれに答えをだす。これが民主主義というものだ。
選挙の票にもつながらないようなことを、国家百年の計に基づいて、公言することこそ政治家の務めであると私は思っている。憲法の改正は、戦後の民族派の悲願でもあり、良識ある日本人の悲願でもあった。それを阻害していたのは、ソ連(現ロシア)や中共、朝鮮の手先のような政党であった社会党やその支持者だったことは記憶に新しい。現在の憲法が「占領基本法」であることは、小学生でも分かることだ。
それを「平和憲法」だと言うような政党や人間は、思想というよりも、ほとんどカルトに近い。戦後日本の繁栄と平和が、戦争放棄を謳った現在の憲法にあるなどという理論が、果たして正しいどうか、それこそ国民投票をしてみたらいい。常識の分かる者ならば、今日の平和と繁栄は、好むと好まざるとを問わず、日米安保の下、アメリカの核の傘の下にあって、経済を優先してきた結果であると言っても過言ではない。そして、その平和と繁栄が、「奴隷の平和と魂のない繁栄」であったと野村先生は看破した。保守政党は、小異を捨てて大同につき憲法の改正に邁進してもらいたいものだ。
今日は、朝から原稿に向かった。「燃えよ祖国」も「大吼」も締切が近い。頑張らなくては。一段落したのは八時過ぎ。晩酌をしながら、レンタルした映画「のぼうの城」を見た。その映画の原作となった本は、以前に、社友の隠岐康氏から頂き、読んでいた。小説も面白かったが、映画も楽しめた。