五月十四日(水)晴れ。
事務所の書棚にある本を入れ替える作業をしていると、思いがけない再会に喜ぶことがある。まあ思いがけず、と言っても書棚に無造作に詰め込んであるので、単に何処に入れたのか忘れていた、という程度の再会ではあるが・・・。
再会を果たしたものは、六年前の一月二十七日に亡くなられた百瀬博教さんの「昭和不良写真館」(WAC)という本だ。この本はとても贅沢に出来ていて百瀬さんの思い出が文章と写真にまとめられている。「私は想い出に節度がない・・・柳橋の侠客の家に生まれ、石原裕次郎の用心棒、拳銃不法所持での下獄・・・。詩人・作家であり、戦後最良最高の不良の異名を持つ男の”節度のない想い出帖”」と帯にはある。
百瀬さんは格闘技の「PRAID」の仕掛人としても知られているが、かつて「週刊文春」で「不良ノート」を連載していた。六年前に事務所に向かう途中、車のラジオから百瀬さんの訃報を聞いた。
野村先生が亡くなってからも何かと気を遣って頂き、母や父の葬儀の際には、わざわざ、私の自宅まで弔問に来てくれるなどして頂いた。私との出会いは、あるトラブルからだった。そのトラブルとは、某氏の秘書であった女性が、秘書時代のことを週刊誌にスッパ抜いた。その記事の中に野村先生を侮辱するような文章があったので、私が某氏に質問状を送付した。そのことが、スポーツ紙や写真週刊誌に掲載され、大事になろうとしたときに、時の氏神となったのが百瀬さんであった。
都内のホテルにて、百瀬さん、私、某氏と三人で会い、謝罪の意志のあることを確認したので、先生も了解し、後日、赤坂にあった野村事務所にて、百瀬さんの段取りで某氏が謝罪。先生もそれを了とした。百瀬さんは野村先生の前では、常に正座し、私が「どうぞ、お楽に」と言っても、終止、姿勢を崩さなかった。礼儀の正しい人であった。
それがご縁となって、百瀬さんの主催する「鳥越祭りを楽しむ会」や「週刊・文春」に連載していた「不良ノート」の出版記念会に招かれたりと、お付き合いは続いていた。また百瀬さんがコラムを持っている月刊誌「フリー・アンド・イージー」に、野村先生の特集を組んで頂いたことや、「中華街に来てるんだけど」と電話を貰って会いに行ったこともあった。そうか麻布の「キャンティー」で食事をしたこともあった。
百瀬さんは体も大きければ、やる事も豪快で、些細なことでも「御礼」と称して、桐の大箱に入った虎屋の羊羹を送ってくる。お返しをと思って、失礼ながらどれくらいの値段のものかと、横浜のそごうにある虎屋に品物を見に行ったら、「注文以外に普段は置いていない」とのことだった。値段を聞いて更に驚いた。先生の記事が掲載された月刊誌も、以来、毎月十二冊づつ、ドサッと送られてくるのには、正直言って辟易した。「いずれ一緒に対談でも」とお願いしたまま、多忙に任せてそのままにしておいたことが、悔やまれてならない。
百瀬さんから、頂いたもので大事にしているのは、映画「ゴッド・ファザー」のレザーディスクのデラックス完全版である。近いうちに百瀬さんを偲んで、押入れにしまってあるレザーディスクのプレーヤーをセットして、久し振りに「ゴッド・ファザー」を見てみようと思っている。当時の産経新聞には「裕次郎の用心棒、百瀬博教さん死亡」とあった。
夜は、名前だけは真面目な「蜷川政経懇」を野毛の「弥平」にて開催した。その後、有志と関内に転戦。
※百瀬さんの本。
※平成16年9月、父の葬儀の日に我が家の前で。