五月十六日(金)晴れ。
戦後何年たってから「集団的自衛権」なんて言ってんの。と言う感じで世間が五月の蠅。(「五月蠅い」と書いてウルサイ)。アメリカが好きでも嫌いでも、また好むと好まざるとに関わらず、戦後の日本の平和と繁栄は、日本がアメリカの核の傘の下にいた。ということに尽きる。アメリカは日本を守っても(それがアメリカの国益や極東戦略の一環だとしても)日本はアメリカを守る義務はない。などという片務条約が日米安保であり、早い話が「お妾さん」条約と言っても過言ではない。そんな状況のままで経済繁栄のみに終始してきた戦後の日本を、野村先生は、「日米安保の下に構築された、奴隷の平和と魂のない繁栄」と看破した。
集団的自衛権が認められたら、自衛隊は外国に行き外国の軍隊と戦うことになるから反対。アホか。軍隊が他国と戦わなければ、何処の国と戦うのか・・・。残念ながら「戦争の出来る国」が普通の国というのが、世界の常識なのだ。金科玉条の如くに憲法の「九条」守って国が滅びては仕方がない。
安倍総理は、守るべきものを「国家と国民」と言ったが、間違いではないが政治家としては物足りない。かつて三島由紀夫は、「国を守るということは、すなわち日本の伝統と文化を守ること。そして日本の文化と伝統の集大成である天皇を守ること」というようなことを言っていた。すなわち「国を守る」と言うことは、皇室を中心とした日本の国体(国柄)を守ることなのである。もちろん、「そんなことはねぇー」という人がいることは知っている。しかし真理と言うものは不変である。
当然ながら、集団的自衛権は憲法の改正が先。という意見は正しい。しかし現実に「今そこにある危機」(「危機」でないと思っている人には通じないが)に対処するために「緊急避難」的に現行憲法の「解釈」で集団的自衛権を認めることは現段階では仕方がないことだと、私は思う。東シナ海や南シナ海での中国の蛮行に目をつむっていろ。という意見の人たちには分からないだろうが・・・。
これを更新しているのが二十一日。昨日、強盗団の親分と空き巣の親方が会見したそうだ。歴史の事実を知らなすぎることや手前味噌の論理に思わずギャグかと思った。報道によれば、日本を念頭に置いた来年の「戦勝七十年」の共同行事を行うとのこと。笑わしてくれるじゃないの。いつ日本は中華人民共和国と戦争したと言うのだ。辞書には「中華人民共和国、通称中国は、1949年に中国共産党によって建国された社会主義国家」とある。日本の敗戦は一九四五年の八月のこと。すなわち、現在の中共はその当時は存在していなかった。日本がかつて戦ったのは蒋介石の中国国民党である。その頃の毛沢東らの共産党は、たんにゲリラでしかなく、従って当時、わが軍は彼らのことを「共産匪」(きょうさんひ・「匪」は「匪賊」の略)と呼んでいた。ちなみに「匪賊」の「『匪』とは悪者の意味。徒党を組んで出没し、殺人、略奪、を事とする盗賊」(広辞苑)。終戦直後、中国人を決して蔑称などではなく、巷では(マスコミも含めて)戦勝国民でも、敗戦国民でもないことから「第三国人」と呼んでいたのである。台湾で「戦勝七〇周年」の行事が行われるのならまだしも、現在の中共が行うということは、彼ら流に言へば正に「歴史のねつ造」である。
ロシアも同じで、戦争当時、日本とソ連(現ロシア)とは不可侵条約を結んでた。にも拘わらずソ連が満州に怒涛のように侵攻してきたのは昭和二十年の八月九日のこと。その六日後に日本はポツダム宣言を受諾して降伏する。ソ連が樺太やいわる北方領土に侵略してきたのは、何と日本の敗戦の半月後の「1945年8月28日から9月5日にかけて赤軍(ソ連軍)は北方領土に上陸し占領した」(ウイキ)。ロシアが来年すべきことは日本と日本人に対する「反省と謝罪」以外のなにものでもない。
あーあ鶴田浩二ではないけれど「馬鹿と阿呆の絡み合い。どこに男の夢がある」。飲むしかないか。