白雲去来

蜷川正大の日々是口実

ヨコハマ・グラフティー・個人的に。

2014-08-05 00:42:46 | インポート

八月四日(月)晴れ。

昨日のクリフサイドでのパーティーの余韻なのか、あの時代のことがモノトーンからカラーとなって甦ってきた。

横浜をヨコハマとカタカナで書くと本牧がアメリカだった頃を思い出す。エリア1、エリア2、確かにフェンスの向こうはアメリカだった。グループ・サウンズが全盛期で、「小さなスナック」というヒット曲に合わせたわけではないだろうが、昨日までのパン屋や美容院がいつのまにかスナックに変わっていった。当時僕たちの溜まり場だった店は、京急黄金町駅から関東学院に行く近道の入り口にあったスナックの「カーマニア」。私は高校二年生で十七歳だった。

オーナーの息子の大学生のN君が店番をしていて、店の広さに合わせたジュークボックスからは、いつもプローコル・ハルムの「青い影」が流れていた。その店で知り合った藤沢の高校に通うハーフのJが本牧の「ゴールデン・カップ」でナンパした女の子を二人、土曜の夜に連れて来て一緒に飲もう、と言ったことから、店の息子と一緒に夕方からジュークボックスのレコードを入れ替えたり、棚のボトルを磨いたりで、僕らは勝手に盛り上がっていた。

約束の時間通りに、Jの運転するフォルクス・ワーゲンを一回り小さくしたようなスバル360がこれみよがしに店の前に止まった。Jと一緒に二人の女の子がクルマから降りるのが見え、私はあわててジュークボックスに百円玉をいれてストーンズの「ルビー・チュウズディ」をかけた。Jが最初に紹介してくれた子が、MASAKOだった。

その彼女の影響でジャズを聞くようになり、薦められて始めて三島由紀夫を読んだ。柄にもなく日記を交換したりしたが、彼女が書いてくることはヴェトナム戦争であったり、ウッドストックのコンサートについてであったりして、政治意識などない僕を悩ませたが、同じレコードを聞き、共通の本を読むことによって年相応の付き合いが続いていった。

デートといえばただ歩いてばかりいたけれど、イセザキ町を歩きつかれた二人が決まって入る店は親不孝通りにあった「ニュースエズ」。チョットお金のあるときは、本牧まで行って「リキシャルーム」の四角いピザを食べてから中華街の「レッドシューズ」や吉田町の「クール」で「ギミリトル・サイン」や「フリーチャチャ」を踊り、どんなに話が盛り上がっていても「男が女を愛するとき」が流れると、席をたってチークを踊った。

彼女はビートルズやグループサウンズよりも、オーティス・レディングやテンプテーションズのファンで、ゴールデンカップスが、グループ・アンド・アイの名前でレギュラー出演していた本牧の同名の店で演奏していた「ザ・フー」や「フリート・ウット・マック」を聴きたいと嘆き、そのグループを知らない僕のために伊勢佐木町の美音堂で、LPを買ってくれた。BBキングのLPは借りっぱなしで四十年が過ぎた。

事業家の娘と言うこともあって、お小遣いが豊かな彼女に用心棒のように付き添って、本牧の「IG」(イタリアンガーデン)や、チャン街の「ステーツサイド」、黒人が多く集まった「コルト45」、スピーカーから雷鳴が轟くと天井が稲妻のように光った桜木町の「サンダーバード」に通った。

本牧から米軍住宅や「PX」が消え、赤と青とで輝いていた横文字のネオンが撤退して行ったのはいつのことだろうか。ウインストンやペルメル、キャメルの煙が漂う中でGIがステップを踏んでいた喧騒の夜はもうない。キャデイやサンダーバードのコンパーティブルを見ると市電に乗っている自分をとてもみじめに感じたが、この街と、吹く潮風が好きだった。ホンダのN360が目一杯光っていた時代だった。

柄にもありませんが、こんな青春もありました。朝から乏しい脳みそを駆使して連載させて頂いている「実話ドキュメント」の原稿に取り掛かるが、時計を見ると六時。やめた、やめた。さっさと風呂に入って冷蔵庫を漁って月下独酌。子供たちが「お父さん。また飲むの」。バカ野郎。股で酒が飲めるか。いつもこんな調子です。誰か止めてくれませんか。


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