八月二十四日(日)晴れ。
昨日、二十三日は「処暑」。中国の二十四季節の一つである。立秋より十六日目。処暑では、暑気がやむという意味で、このごろになるとさすがに熱さも峠を越すと言われているが、それでも連日三十度を超える暑さの日が続いている。そして処暑は二百十日・二百二十日とともに台風襲来の特異日とされている。ちなみに弘安四年の八月二十三日は、前夜から吹き荒れた「神風」によって、来襲した蒙古の軍船がことごとく海に沈んだ記念すべき日である。
元寇は、一八九二年(明治二十五年)に発表された軍歌。作詞・作曲共に永井建子(男性)。
一、(鎌倉男児)
四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る /十万余騎の敵 /国難ここに見る /弘安四年夏の頃 /なんぞ怖れんわれに /鎌倉男子あり /正義武断の名 /一喝して世に示す
二、(多々良浜)
多々良浜辺の戎夷(えみし) /そは何 蒙古勢 /傲慢無礼もの /倶(とも)に天を戴かず /いでや進みて忠義に /鍛えし我が腕(かいな) /ここぞ国のため /日本刀を試しみん
三、(筑紫の海)
こころ筑紫の海に /浪おしわけてゆく /ますら猛夫(たけお)の身 /仇(あだ)を討ち帰らずば /死して護国の鬼と /誓いし箱崎の /神ぞ知ろし召す /大和魂(やまとだま)いさぎよし
四、(玄海灘)
天は怒りて海は /逆巻く大浪に /国に仇をなす /十余万の蒙古勢は /底の藻屑と消えて /残るは唯三人(ただみたり) /いつしか雲はれて /玄界灘 月清し
鎌倉期、蒙古(現モンゴル国)の 国王・「フビライ」は、大軍をもって日本に襲 来したが失敗した。翌年の建治元年(一二七五年)今度は、五人の国使を日本に送り 降伏を要求してきたが、しかし時の鎌倉幕府はこれを拒否 、国使 五人を九月七日、龍ノ口刑場で処刑し、死骸を江ノ電の「江ノ島駅」の裏にある常立寺に埋葬したという。ここに五基の五輪塔が建てられ「五人塚」、あるいは「元使塚」と呼ばれている。(以下は、どなたかの「常立寺」からのコピペです)
元使とは、元(現在のモンゴル)から派遣された特使のこと。歴史で有名な元寇(文永、弘安の役)の際に、元の皇帝からの国書(降伏勧告)を持って、日本に来ましたが、スパイ容疑をかけられて時の鎌倉幕府の執権北条時宗により、龍口刑場(現在の龍口寺のある場所)で処刑されました。
元使構成員は、杜世忠(モンゴル人)はじめ、イスラム、中国(2名)、通訳の高麗人の5名でした。正使:杜世忠(34歳・蒙古人) 副使:何文著(38歳・唐人) 計議官:撤都魯丁(32歳・ウイグル人) 書状官:果(32歳・ウイグル人) 通訳:徐賛(32歳・高麗国人)皆、30代の若さです。
石碑には「杜世忠」の辞世の句『出門妻子贈寒衣 問我西行幾日帰 来時儻佩黄金印 莫見蘇秦不下機』 が刻まれています。
門を出ずるに妻子は寒衣を贈り
我に問う、西行幾日にして帰ると
来る時もし黄金の印を帯びたれば
蘇奏を見て機を下らざるなかれと