三月十七日(日)晴れ。
伊勢原の先生の浄発願寺に行く途中に「寿雀卵」という銘柄の卵を売っている販売所がある。一時は、卵を買うお客が列をなしていたが、最近では、卵を量産したのか、それともブームが去ったのか、いつ行っても、「売り切れ」と言うことはなくなった。
お墓参りに行くと、農協でお花を買うついでに、近所の農家が持って来ている野菜を買い、帰りに「寿雀卵」を買うのが楽しみである。その卵を使って今朝は、TKG(卵かけご飯)、小さなカップヌードル、キュウリの糠漬け。昼は、私の誕生祝に、西横浜の「オアジ」にて食事会。
いやはや四日後の二十一日には、六十八歳となる。早生まれなので六十九歳の人と同期となる。若い頃は、一歳若いと言うことが、何かなめられているようで嫌だったが、この歳になると、一歳でも若いと言うことが、何となく嬉しく感じるものなのだ。戦争は知らないが、終戦から、わずか六年後に私は生まれた。横浜市南区西仲町という、典型的な下町で、京急の黄金町駅から歩いて五、六分の所だった。生まれた家はもうないが、私よりも三つ上の、お世話になった大家さんの娘さんご家族が今でもその土地に住んでいる。私は、その人に弟のようにかわいがってもらい、勉強から野球、遊びのほとんどを教わった。
納豆売り、豆腐屋のラッパ、夏の金魚売り、あさりとシジミ売り、風鈴売り、工場の終業のサイレン、風呂屋の煙突の煙、「クズやおはらーい」の声、駄菓子屋、傘や鍋の修理やさん、アイスキャンデー売り。町でリヤカーを引く物売りも最近は見なくなった。衣紋掛け、写真機、こうもり、乳母車、その他、アルミホイルを銀紙と言っては家人に笑われている。昭和は遠くになりにけりである。
昼から、佐伯さん夫妻と、松本君夫妻が段取りをしてくれて西横浜の「オアジ」にて、私の誕生会と大熊雄次さんの還暦の祝いを行った。盟友の古谷喜久男さん、成田功さん、ミッチー橋本さん、中山和哉さん、京子ちゃんの総勢十二名で楽しい食事会となった。夜に、中華街の「フラッシュバック」の三十年のお祝いがあったがへろへろで行くことは出来なかった。五時過ぎに帰宅してから、爆睡。
伊勢原の先生の浄発願寺に行く途中に「寿雀卵」という銘柄の卵を売っている販売所がある。一時は、卵を買うお客が列をなしていたが、最近では、卵を量産したのか、それともブームが去ったのか、いつ行っても、「売り切れ」と言うことはなくなった。
お墓参りに行くと、農協でお花を買うついでに、近所の農家が持って来ている野菜を買い、帰りに「寿雀卵」を買うのが楽しみである。その卵を使って今朝は、TKG(卵かけご飯)、小さなカップヌードル、キュウリの糠漬け。昼は、私の誕生祝に、西横浜の「オアジ」にて食事会。
いやはや四日後の二十一日には、六十八歳となる。早生まれなので六十九歳の人と同期となる。若い頃は、一歳若いと言うことが、何かなめられているようで嫌だったが、この歳になると、一歳でも若いと言うことが、何となく嬉しく感じるものなのだ。戦争は知らないが、終戦から、わずか六年後に私は生まれた。横浜市南区西仲町という、典型的な下町で、京急の黄金町駅から歩いて五、六分の所だった。生まれた家はもうないが、私よりも三つ上の、お世話になった大家さんの娘さんご家族が今でもその土地に住んでいる。私は、その人に弟のようにかわいがってもらい、勉強から野球、遊びのほとんどを教わった。
納豆売り、豆腐屋のラッパ、夏の金魚売り、あさりとシジミ売り、風鈴売り、工場の終業のサイレン、風呂屋の煙突の煙、「クズやおはらーい」の声、駄菓子屋、傘や鍋の修理やさん、アイスキャンデー売り。町でリヤカーを引く物売りも最近は見なくなった。衣紋掛け、写真機、こうもり、乳母車、その他、アルミホイルを銀紙と言っては家人に笑われている。昭和は遠くになりにけりである。
昼から、佐伯さん夫妻と、松本君夫妻が段取りをしてくれて西横浜の「オアジ」にて、私の誕生会と大熊雄次さんの還暦の祝いを行った。盟友の古谷喜久男さん、成田功さん、ミッチー橋本さん、中山和哉さん、京子ちゃんの総勢十二名で楽しい食事会となった。夜に、中華街の「フラッシュバック」の三十年のお祝いがあったがへろへろで行くことは出来なかった。五時過ぎに帰宅してから、爆睡。