白雲去来

蜷川正大の日々是口実

東亜侵略百年の野望をここに覆す。

2024-12-08 11:17:54 | 日記

12月8日(日)晴れ。

昨日は、日本国民党(鈴木信行代表)の主催する「令和六年・日本国民の集い」に、弊社のO氏や大悲会の志村馨君らと出席。久しぶりに元楯の会の村田春樹先生の『大東亜戦争開戦の日、三島由紀夫はかく語りき』と題した記念講演を拝聴する。三島由紀夫、蓮田善明、森田必勝といった三烈士の事績とエピソードを交えた講演は、とても感動的で、勉強になった。終了後に、直会会場に行くが、手違いの為店が閉まっていて、我々一行は、鈴木代表に挨拶をしてお暇した。

以前、盟友から頂いた私の座右の書、宇垣纏の『戦藻録』の昭和16年12月8日の日記。『暖かい静かな開戦日(X日)。待ちに待ったその日はついに来た。午前三時というのに自然と目は覚め、起き出して一服していると、当直でかつ航空掛かりの佐々木参謀が大急ぎで飛び込んで来て、「三時十九分(ト)連送です」と報告す。すなわちハワイに近迫せる機動部隊の飛行機二百機が、真珠湾に対して突撃を下命せるなり。飛行機の電を直了せるところ、鮮やかなるものなり。

それから作戦室に座り込んで、来る電報、電報に耳をそばだてる。飛行機上よりする「我、敵戦艦を雷撃」「我、ヒッカム飛行場を攻撃、効果甚大」などの味方電報と併せ、敵の平文電報の発信が最も興味を引き、戦況は手に取るように分かる』。

今朝も、「暖かい静かな」日である。已むに已まれず決然と起った、昭和十六年のこの日を日本人は忘れてはならないと思う。通称、東京裁判において、インドのパール判事は、米国側が我が国に対しての最後通告、通称「ハル・ノート」に対して、こう述べている。

「『現代の歴史家でさえも、次のように考える事ができる。すなわち、今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本政府に送ったものと同じ通牒(注・ハル・ノート)を受け取った場合、モナコ公国、ルクセンブルク大公国のような小国でさえも、アメリカに対して武器を持って立ち上がったであろう』と述べ、日本の指導者たちが愛国主義である限り、アメリカの苛酷なる最後通牒を退けて、立ち上がらざるを得なかったのは当然であり、日本にとって、生存の為自衛の為、やむを得ない措置であったとしている」。

野村先生は、自決の際にしたためた檄文「天の怒りか、地の声か」の末尾に、こう書いている。「いつの日か必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真の意味が何であったかは、後世の歴史家が明らかにしてくれるであろう」と。深く先人を思う・・・。※写真は、「赤城」が傍受した「ニイタカヤマノボレ(攻撃せよ)」と、「我、奇襲に成功せり(トラトラトラ)」の電文。ちなみに(GF)とは「連合艦隊」の略である。

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