白雲去来

蜷川正大の日々是口実

同志が堂々の徒歩行進。

2009-02-22 23:07:51 | インポート

二月二十二日(日)晴れ。竹島の日

 休みなので、といっても勤め人ではないので、城山三郎さんの本の題名ではないが、「毎日が日曜日」状態。それでも決してダラダラとして生活している訳ではない。自分なりに生活にリズムとケジメをつけているつもり。

 目を覚ましたのは九時。早く起きて家族から顰蹙をかっても仕方ないので、のんびりしていた。今年になって起床後の習慣となっている歴史的な、その日の出来事を「日本史歴史歳時記三六五日」(小学館)で確認する。

 その本によれば、今日は、昭和七年の上海事変の初頭、上海の郊外廟行鎮の中国軍陣地の攻撃の際、久留米工兵第一八大隊に所属する江下武二、北川丞、作江伊之助のいわゆる「肉弾三勇士」が破壊筒もろとも爆死した日。与謝野鉄幹作詞の「廟行鎮の敵の陣、我の友隊すでに攻む・・・」という戦時歌謡も大流行した。しかし最近になって、この美談が作られた話とする節が出てきたそうだ。何を言ってやがる。そんなことはいいじゃないの。三人が戦死なされたのは事実なのだから。「週刊新潮」よりずっーとマシだぜ。

 午後一時、社友の松本佳展君が来訪。「竹島の日」の今日、横浜公園にて、二時より「神奈川有志の会」の主催による「2・22韓国の内政干渉に物申す神奈川県大会」が行われる。(呼び掛け人代表・三田忠充・愛心翼賛会・菊水國防連合・義信塾・大行社相模支部・大悲会・同血社・日乃丸革新社・憂国清心同友会 (五十音順)第一部、決起集会の後に、第二部は伊勢佐木町などを徒歩行進する。三田議長や、顔見知りの同志の方々にご挨拶。

 

 五時から、松本君や我が家の家族と一緒に、中華街の「菜香新館」にて食事。裏メニューの「レバーのボイル」や「アヒルのハム」がとても美味しかった。

 帰宅後は、紹興酒の酔いを醒ますため二時間ほど横になった。入浴後は、「大吼」の編集に向かう。


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大行社の若い人たちと一献

2009-02-22 22:23:14 | インポート

二月二十一日(土)晴れ。
 さすがに朝は起きるのに難儀した。外は、良い天気である。家族で事務所に行き、社友のT君らと合流して、片づけを手伝ってもらった。
遅い昼食を「ビックボーイ」でハンバーグ。その後、自宅に来客があって打ち合わせ。
 五時の電車で東京行き。今日は、日本青年館にて、尊友同志会の勉強会を兼ねた新年会が行われ出席。三十分ほど遅れて会場着。入口には友人のカメラマン、平早勉氏がいた。そういえば昨日もお会いしたばかりである。
 会場に入れば、すでに勉強会が始まっていた。
終了後は、懇親会。「聖寿万歳」を指名されたが、昨日、差し歯の手入れをしたばかりで、大きな声を出して歯が取れたりしたら、恥ずかしいので、ご辞退させて頂いた。

 「万歳」と言えば、わが国で「万歳」と言う叫びが初めて行われたのは、明治二十二年の紀元節のことらしい。この日、東大で憲法発布の式が行われ、当時の東大総長外山正一は、学生と一緒に今日のよき日を祝して何か奉祝の声をあげたい、と考えて、バンザーイとやってみたのが始まりであると、昨日購入した「ことばの歳時記」にあった。
 さらに、元々は中国において使用される言葉で「千秋万歳」の後半を取ったもの。万歳は一万年で皇帝の寿命を示す言葉であり、皇帝以外には使わない。明代に専権を奮った宦官・魏忠賢は自分の一党の者に「九千歳!」と言わせていたという。また、朝鮮語では「マンセー、マンセー」、中国語では「ワンスイ、ワンソェー」と言う。雅楽には千秋楽と共に万歳楽(まんざいらく)という曲が伝えられており、共に君主の長久を祝うめでたい曲とされている。芸能の万歳はここから出たものという。(Wikipedia)

 八時半に終了した後は、大行社の丸川、内川の両氏とともに川崎へ向かう。何でも内川氏いわく、川崎に、「幻の手羽先」を出す「世界の山ちゃん」という店があることを聞いていたので、かねてから行ってみたかった。社友の松本佳展君と合流してお店へ。まあ、まあかな。悪くはないが、一度でいいかな、と思った次第。

 ここから、大行社の若い人たちが会合を兼ねて飲んでいる、とのことで顔を出した。いつも思うのだが、大行社は若い人の層がとても厚い。そして熱い。楽しい酒となって、本部員の伏見君と横浜支部のスキンヘッド松根君らの歴史的な歌を聞いてから帰宅。連日、大破・轟沈で反省の日々である。

コメント (2)
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今日は、何か、いい日だった。

2009-02-22 11:17:45 | インポート

二月二十日(金)晴れ。

 起床後すぐに机に向かう。今日は忙しい。原稿の下準備を終えて、十時半に歯医者へ。終了後はそのまま東京に向かった。途中で、車内で読む本を忘れたことに気がつく。横浜駅の丸善に飛び込んで慌しく本のジャングルの中を彷徨った結果、文庫本を購入した。カバーをつけてもらってから、何気なく出版社を見たら、なんと新潮社ではないか。気分が悪くなって返そうとも思ったが、それでは大人気ないので、そのままにした。しかし、この本が大当たりで、出版社のことなど忘れて、夢中になった。本の題名は「ことばの歳時記」著者は国語辞典の編集などで有名な金田一春彦先生。昭和四十八年の初版から、昨年までに四十八刷も版を重ねている。面白いわけだ。

 高田の馬場に着いたのが丁度正午。朝食をとってこなかったので、お店を探すが、大体、こういう時は、目移りしてロクな店に当らない。それでも今日は違った。良い本にめぐり合った時は、何かいいことがある。一水会の事務所のすぐ近くにある韓国料理屋(焼肉屋ではない)。ここで表の看板の写真にあった「二分の一のサムゲタン」八百円。当初はマアいいか、という感じで入ったが、食べたらこれが美味いのなんのって、嬉しくなった。隣ではチヨット素人離れした妙齢のご婦人が二人、私と同じものを食べながら、昼間からジョッキでビールを飲んでいた。この姿が様になっていて、いやはや見ていてドキドキした。時折、私にチラリ、チラリと視線を送ってくるので、ドキドキ度はさらに上昇したが、何気なく横を見ると、私の頭の高さに韓国のイケメン男優の写真があった。そりゃそうだよナァー、幾らなんでも昼間から、そんないいことあるわけないよナァー。気づいた後は、ガァーッと食べて一水会へ。

 すでに木村、犬塚の両氏とT新聞社の記者お二人が到着していた。早速取材。分かりきったことばかり聞かれたが、その記者氏いわく、「ただあきれている」。何でも、メディア論をからめて記事にするとのこと。一時間ほどで終了。その後、遅れてきた、たまに新潮社に記事を書いているというフリーのライター氏や、他社の記者が来訪して情報交換。今回は、特に児玉先生に関連した記事への検証を行った。詳しい事は、ここに書くことは出来ないが、児玉先生サイドの古参の方から、貴重な証言を得た。

 五時に、犬塚、木村両氏とともに代々木に移動して、少し早いが夕食を兼ねて一献。木村氏は七時から予定があるとのことで、解散。犬塚氏と私は新宿へ。新宿のお店で、偶然にもA新聞社の記者氏とお会いし、情報交換。「朝日と共闘するとは思わなかった」と大笑い。最近、このお店は、民族派の梁山泊の観を呈している。そういえば、このお店のすぐ近くに、故阿部勉氏の馴染みで、私も野村先生とお供したことのある「勇船」があった、と犬塚氏が教えてくれた。

 その後、会合を終えた、伊藤好雄、森田忠明の「経団連事件」組の先輩が来店。すごい偶然ではあるが私は、早い時間から飲んでいたので、ご挨拶だけして横浜に戻った。今日は、何かいい日だった。


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「あの旗を撃て」知ってますか。

2009-02-19 21:40:38 | インポート

二月十九日(木)晴れ。

 やはり朝は起きられなかった。最高に美味いものを食べ、最高の美酒に酔っても、翌朝は二日酔いでは、勿体ない話だ。二日酔いだけは、食と酒を選ばない。何十万円もするワインを飲んでも、二級酒を飲んでも、翌朝辛いのは一緒だ。あーあ勿体ない。久し振りに、関西社友会の瀬渡さんからコメントが入った。「ナポレオン党、ケンタロウス」よく知っていますね。でも私は、その二つのグループは、当時もお付き合いはありませんでした。私よりも少し年上の人たちだったこともあるし、なにせ貧乏でしたので、車どころかオートバイも買えませんでした。十代の頃から働きづめで、二十代になってからの青春と言えば、やはりビラ貼り、街宣ですかね。暗いかナァー。

 九時過ぎに、ようやく布団から出て、朝食のテーブルに向かった。食後はブログを更新。筆が遅いので、こんなものを書くだけでもかなり時間がかかる。二時まで、自宅で仕事をしてから、仕事の打ち合わせのために関内へ。一時間ほどで終了。その後、事務所にて郵便物やファックスの確認をして自宅に戻る。

 自宅に戻れば、ネット・オークションで購入したビデオが届いていた。昭和十九年公開の「あの旗を撃て」である。この映画は、戦後、フィルムがないと言われてきた幻の映画である。フィリピン戦線を題材にして、マニラやバターン半島、そして昨年の五月に我々が訪れたコレヒドール島で撮影された。公開当時のポスターには「日比交流共演・第一級大作」とあるように、日本とフィリピンの友好、結束が力強く描かれている。当然、娯楽作品というよりも戦争プロパガンダである。残念ながらDVDはなくVHSのみである。今日は、休肝日とした。これからのんびりこの映画を見るか。

 夜遅くなって、昭和六十一年から、昭和六十二年にかけて、当時浜松町の事務所にいた女性事務員と連絡がついた。新潮の記事の確認には最適な人である。会うのが楽しみである。

 映画「あの旗を撃て」の主題歌です。お暇な方は是非お聴き下さい。

20437 

公開当時の新聞広告です。クリックすると大きくなります。


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忙しい一日だった。

2009-02-19 12:10:09 | インポート

二月十八日(水)晴れ。

 七時に起床。今日は朝から予定がぎっしり詰まっている。私の大好きな「サバの文化干」に大根おろしを添えて食べた。それに豆腐のみそ汁。食後パソコンを開けると、犬塚哲爾先輩からメールが入っていた。何でも「新潮45」に、「週刊・新潮」の連載の応援記事が出ているとのこと。今日は、新宿で、その「新潮」の件で、阿形充規先生を囲んでの打ち合わせ会を行う。明日発売の「新潮」の早刷りも手に入るだろうから、その時に見せてもらうと、犬塚先輩に返事をして、九時五十三分の湘南新宿ラインに乗った。

 今日の会議の参加者は五名。皆、当事者ばかりなので、記事の検証にリアリティーがある。しかし、今回の「新潮」の特集で驚くことは、私を含めて、野村先生の関係者や、旧野村事務所に勤めていた人たちの誰にも取材を行っていないのだ。児玉先生の関係者にも来て頂いたが、やはり取材は受けていないという。

 その後、週刊誌の記者が二名に、新聞社も二社参加して情報交換会が始まったが、先日、私が提供した旧野村事務所関係の人たちに連絡したところ、「蜷川さんが言うように、一切取材を受けていない、ことを確認した」と話してくれた。

 正午前に、明日発売のものの早刷りが届く。まあ、さすがに「新潮」もヤバイと思ったのか、見出しも小さく、これと言った新事実もなく、期待はずれ。また野村先生に関するコメントなど、これは明らかに阿形先生が出した質問状に反応してのものであろう。「新潮45」の児玉先生のことに触れた下りでは、出席していた児玉先生の門下生の方は激怒。近々、当時の方々に会って裏づけをとることを確認。一時半に解散。

 私は、一時半からの大行社の幹部会議に出席するために田町へ。遅れたかと思ったら、何とかセーフ。「大吼」のゲラを丸川本部長に見て頂いたり、細かい校正をして頂いた。会議の中で、私が、今回の「新潮」の件を報告。この問題を民族派全体の問題としてとらへ、全国の団体と共闘することを確認。丸川本部長もそれぞれの協議体に連帯要請を行うと発言。三時半終了。

 私は、六本木に移動。四時に、「アマンド」の前で、M新聞社の記者お二人と待ち合わせて取材を受ける。一通りの取材が終わった後に、本音をポロリ。「こんなもの(新潮の記事)は、社会部では、当初ばかばかしくて相手にしなかったんです。現在でも、当時の事件を取材した記者がいるわけですからね。事の真相なんかよりも、新潮がどう幕引きをするのかですね」。ヤッパリね。明後日は、T新聞社の取材を受ける。私は、事実のみを話すだけである。

 六時、三本菅会長のご好意で、六本木の某所で食事をご馳走になる。この店には三年ぶり二度目である。もちろん私のような浪人風情が来れるような店ではない。二軒転戦して帰宅。忙しい一日だった。

コメント (3)
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