二月十七日(火)曇り。
朝から、マスコミの取材の電話が二本。もちろん、例の「新潮」の記事に関してである。今日は、個人的な仕事が重なっているので、明日待ち合わせをすることにした。
午後から事務所へ。郵便物や資料の整理の後は、機関誌の原稿に向かう。五時に帰宅。今日は、七時から、近くの焼肉店「清水苑」にて、月に一度の町内のお友達会の集まりがある。今日は休肝日とするつもりだったが、結局、飲んでしまった。自宅に戻った後は、風呂に入って、すぐに寝た。
二月十七日(火)曇り。
朝から、マスコミの取材の電話が二本。もちろん、例の「新潮」の記事に関してである。今日は、個人的な仕事が重なっているので、明日待ち合わせをすることにした。
午後から事務所へ。郵便物や資料の整理の後は、機関誌の原稿に向かう。五時に帰宅。今日は、七時から、近くの焼肉店「清水苑」にて、月に一度の町内のお友達会の集まりがある。今日は休肝日とするつもりだったが、結局、飲んでしまった。自宅に戻った後は、風呂に入って、すぐに寝た。
二月十六日(月)晴れ。
いやはや起きたら目がショボショボして、くしゃみを連発。とうとうこの季節がやってきたか。それまでは花粉症など大丈夫と思っていたのに、三年前から、突然、この症状が出るようになった。これだけ多くの人が苦しんでいるのに、杉の花?を切ってしまうとか、何か対策がないのか。
テレビで、中川財務相のG7での会見を見て、あららら。やっちゃった。この人、以前から「アル中」の噂が絶えなかった。どう見たって風邪薬で眠くなった表情ではない。私のような呑んベェが見ればすぐに分かる。好きなものを止めろとは言わないが、場所をわきまえない。
傍には秘書やスタッフがいたんだろうから、会議の全てが終了するまで、酒を飲まさないとか、しなきゃだめだね。こいつらも同罪。
「チョイト一杯のつもりで飲んで、何時のまにやらハシゴ酒。気がつきゃ会議の席でごろ寝。コレじゃ国民に良いわけないね。分かっちゃいるけど、止められネェー。」結局、酒止めるか、大臣辞めるかで、大臣辞めちゃった。スイスイスーダラッタ、スラスラスイスイスイと早く地元に帰りなさい。選挙危ないらしいから。
相変わらず、例の「新潮」の件で、マスコミ各社からの取材が続いている。まあ、今週発売の記事を見てからと言うことにしましょう。
夜は、横浜の先輩、元ナポレオン党(知っているかナァー)の小金丸峰男氏、石井の則ちゃんや、社友の古谷喜久男、成田功の両氏らと待ち合わせでサリーの店へ。何でも、秋に、六十年、七十年代のヨコハマをテーマに、その時代に青春を謳歌した人たちを集めて、イベントをやりたい、とのことだった。早い話が、「ヨコハマ・グラフティー」。もちろん私で良ければ、ご協力をさせて頂くことを申し上げて、古谷、成田の両氏と狭斜の巷へ。
夕食をとっていなかったので、久し振りに、悦ちゃんママの手料理が美味しい「うさぎや」へ行った。何と、「甕雫」があるではないか。早速、キープした。その後、一軒転戦して帰宅。
二月十五日(日)曇り。
昨日、たいした量を飲んでいないのに、めずらしく二日酔い気味である。朝食後は、テレビを見ながら、ついウトウトしてしまった。
時計は一時を廻っていたので、慌てて先日、ご馳走になった方達や、様々なお礼の手紙を七通書いた。すぐに書けば良いのに、つい、後回しにしてしまう。気をつけなければ・・・。でも、手紙を書くというのもかなり体力が要るものだ。たかが手紙と言うなかれ。。
「実話ナックルズ」に、昨年末に東京拘置所で亡くなられた、元警視庁警部の死刑囚、澤地和夫さんのことを書かせて頂いた。私と、澤地さんとの往復書簡に関して所感を述べたものだが、澤地さんたちの事件については、彩流社から澤地さんが本を上梓しているので、興味のある方は、是非読んで頂たい。
久し振りに事務所の書棚から、澤地さんの本「殺意の時ー元警察官・死刑囚の告白」を持ってきて、再読してみた。私は、本を読み終えると、最後の頁の余白に、読了した日付を書いておく習慣があって何時どこで読んだかが大体分かる。その澤地さんの本には、「S63、2、6(土)網」とあるから、昭和六十三年の二月に網走の独房で読んだものだ。
澤地さんたちの事件、すなわち二件の殺人の凄惨な様子がリアルに描かれていて、恐ろしくなる。元同僚が借金の保証人となり、家を手放さなければならなかったり、取立てで苦しむことに責任を感じて、殺人事件を、ほとんど無計画に引き起こすのだが、元警察官だけあって、調書を読むような感じである。
その本の「あとがき」の中に興味深い文章があった。それは、現在「週刊・新潮」が連載している例の「赤報隊事件」に関してのこと。当時、新聞協会が出した声明に対して澤地氏が、次のような感想を書いている。
「本年(注・昭和六十二年)五月九日に、新聞協会は「朝日新聞記者殺傷事件」で声明を発表した。その中で、「われわれ言論、報道機関は、事実を報道し、その信ずるところを主張する自由をもつ」という箇所がある。(中略)だが、昨今の犯罪報道は余りにも商業主義に走りすぎ、嘘報、誤報もいとわないとするマスコミ全体の体質に問題はないだろうか」と、指摘している。事実、澤地氏の事件後、数社が「澤地第三の犯行を自供、被害者は目黒の山田さん」と報道したそうだ。それ以来、澤地さんは何度か「連続三人殺し」の犯人とされ、公判における情状証人の件で弁護士が大変苦労した、と書いている。
「その後、日本の五大新聞の一社が、私の公判がはじまって以来一年以上経過しているにもかかわらず依然として「連続三人殺しの澤地」と報道していてたので、私は獄中からその新聞社に抗議した。回答は、新聞監査委員長名で「記者が勘違いしていた、申し訳ない」であった。つまり、私の一例を見てもわかるとおり、誤報であれ、嘘報であれ、いったん記事になってしまえば、もうどうにもならないのが現実である」と、自らの体験をふまえて告発している。
賢明な、諸兄には、私が何が言いたいのか、お分かりの事と思う。「新潮」の連載もそうだ。犯人が誰かどうかなど、私にはどうでも良いが、ただ野村先生に関することは、澤地氏も指摘するように「誤報であれ、嘘報であれ、いったん記事になってしまえば、もうどうにもならないのが現実である」。新潮社の姿勢を注視したい。
二月十四日(土)晴れ。故野村先生の誕生日。
今日は、先生の誕生日である。お元気でいられたならば、今日で七十四歳になられる。起床後に、先生の遺影に手を合わせ、白菊を飾る。
白菊の 白が溢れて とどまらぬ
とは、野村先生が、獄中で恩師である三上卓先生の訃報を聞いたときに詠んだ句である。
朝から、随分と電話が鳴ると思ったら、産経新聞の花田紀凱氏のコラム「週刊誌ウォッチング」に、今回の「新潮」の記事に対する感想の中に、私の名前が出ている。とのこと。メールも沢山入っていた。早速、読んでみて、家族と一緒に大笑い。毎日、顔を出してくれている、若い門下生の連中も、手を叩いて喜んでいた。
今日は、本来であれば、過日、敬天新聞社の白倉社主から頂いた焼酎「今日勝つ」をやりつつ、野村先生の誕生日を祝う予定であったが、急遽、「新潮」の記事に関して、都内某所で、マスコミ関係者との情報交換会を行うことになった。我々だけでは情報不足かもしれない、と思い、各自がお付き合いのある新聞や週刊誌の記者を招いての情報交換会である。それぞれ信頼できる人、と言うことだったので、安心して感じていることや、我々の「実証」も整理して話をさせて頂いた。驚いたことに、皆一様に、「蜷川さん。そんな大したことではありませんよ。『新潮』にも、マトモな記者もいまして、連中の話では、『どうしようかと、大慌て』ということですから。大体、蜷川さんはじめ関係者に『当て』もしないで、良くあんな記事が書けると、記者仲間では、笑いものですよ」。
他の新聞社や雑誌社も、ほとんど同じような意見と言うことだった。そういえば、随分前に、「噂の真相」に、「野村先生の運転手をしていた」という「赤報隊の犯人」という男の記事が出たことがあった。私の機関誌で、そんな運転手は存在しないことを、事実を挙げて証明した。岡留氏とは、多少のお付き合いがあったので、その時は、笑い話で済んだが、今回はそうはいかない。
お会いした記者氏らの話では、もう記事の信憑性よりも、「新潮社がどう幕引きをするのか、ということに皆、興味を持っている」とのことであった。
五時過ぎに、古い友人のお店に久し振りに顔を出し、夕食を兼ねて軽く飲んだ。余り遅くなると大変なので、八時前に解散し、私は横浜へ。しかしまだ自宅に帰るには、少々早いので、サリーの店に顔を出したら、サリーパパや、仲良しのカメちゃんと彼の笑顔のステキな恋人がいて、先日、皆で一緒に行った小旅行の話などで盛り上がった。そのカメちゃん、私のブログのファンで、私の日常を良く知っているのには、赤面、汗顔、トホホといった感じでした。
サリーの「店を閉めてラッキーの店に行こう」とのお誘いで、後から来た、YCCのAちゃんと、皆で山下町の「ラッキー」の店に行った。偶然に、元ゴールデン・カップッスのエディ藩さんも来店。軽い食事を済ませて、十二時近くに解散。
産経の、花田氏のコラムです。
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二月十三日(金)曇り。春一番が吹いた。
八時前に起きて朝食。食後は、昨日が締め切りだった原稿に向かう。明日が土曜日なので、雑誌社は休みなので、どうしても今日中に入稿して、原稿をチェックしてもらわなければ。
朝から頑張って、三時過ぎにようやく脱稿した。遅れたお詫びと一緒にメールで送信。ヤレヤレである。
夕方事務所に行き、郵便物の確認。先日コメントした「読売新聞」が届いていた。もちろん「新潮」のヨタ記事の取材であるが、社会面に大きく掲載されていた。他社の友人の公安担当記者によれば、やはり、「『新潮』さん、やってくれましたネェーと、大笑いで、責任者がどうやって責任をとるのか、賭が始まっている」と、笑いながら教えてくれた。読売の記者氏も言っていたが、「『新潮』の記事を真実と思う記者など一人もいない。これは何も新聞社だけではなく、週刊誌や他の雑誌社も同様で、『新潮』を擁護する者が一人ぐらいいてもよさそうなものだが」と、苦笑していた。昨年は、「毒入りギョーザ」が評判となったが、まさか「毒入り週刊誌」が出てくるとは思わなかった。
夜は、お世話になっている方たちのご招待で、若葉町(伊勢佐木町の裏通り)にある老舗、「太田なわのれん」での一献会。このお店は、横浜では、名店中の名店で、創業は明治元年というからすごい。日本で最初の「牛鍋」の店だが、まあ値段もそれなりで、地元でも残念ながら私のような浪人風情が「常連」になれる店ではない。ここは、牛肉の角切りを味噌タレで食べる。当時は、牛肉を食べなかった日本人に対して、猪の「牡丹鍋」にヒントを得たのが始まりと言う。
本当に美味しかった。その後は、二軒、ご招待していただき。深夜一時近くに帰宅。いやはや久し振りに贅沢をさせて頂いた。皆さん。本当に有難うございました。
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