十一月二十四日(日)晴れ。野分祭。
今日は一水会が主催する「野分祭」がある。民族派を自認する人達には説明の必要がないだろうが、昭和四十五年十一月二十五日に市ヶ谷の東部方面総監室において「憲法の改正」などを訴えて自決なされた三島由紀夫、森田必勝両烈士の追悼祭。とりわけ自決前日の森田烈士の思いを忖度して、その志を継ぐ意味で烈士の辞世の句をもとに命名された慰霊祭である。
今日にかけてかねて誓いしわが胸の思いを知るは野分のみかは
私は、この「楯の会義挙」に触発されて民族派運動に入った。従って、両烈士の四十三年は私の運動史でもある。あの事件がなければ、私は間違いなく他の人生を歩んでいた。野村先生とも出会わずに、社友の皆さんとも会わずにいただろう。もちろん後悔などしてはいないが、ふと、違った人生を歩んでいる自分を考える時がある。くだらんことだが・・・。
随分前のことだが、野分祭を終始正座で行ったことがあった。まだ木村三浩氏が一水会に入る前のことではなかったか。神事を行ったのは、「長い」ことでは有名な、現在は本渡諏訪神社の神主の大野康孝氏。申し訳ないが、私たちの足の痺れを楽しんでいるような延々と続く祭文。玉串の奉奠の時になって、もし指名されたら絶対に立って行けないと思い、司会の犬塚博英さんと目が合わないようにと、ずっと下を向いていた。
案の定、指名された人たちがまともに歩けない。ほとんど膝行して行く。その時に、犬塚さんが「腹を切った森田の痛みに比べたら足の痺れなんかなんだ」と・・・。それを聞いてますます縮こまった。日頃から、「日本の伝統文化を大切に」などと言っても、この体たらくだ。今でも正座すると、その時のことが頭に浮かぶ。
「群青の会」の大熊雄次氏と会場前で待ち合わせ。途中、「群青忌」で、「五仁會」の竹垣悟会長からご紹介された坂本敏夫先生と偶然にお会いし、同道して頂いた。野分祭の神事を行うのは島田康夫氏。この方は、私が赤坂で事務所を開設した時に御祓いをして頂いた。古い同志である。講師で「一日会」を主宰している中山峰雄先生も古い同志で、私が戦線復帰をした頃に、当時住んでいたマンションに来て頂いたことがある。三島、森田両烈士の遺影の横に、我が兄、阿部勉さんの写真があった。感慨無量なり。
終了後は、二子玉川の居酒屋で行われる同志の忘年会に周本昌山氏と共に出席。随分前のことではあったが、玉川高島屋のすぐ前に「菩提樹」というレストランがあった。地下に降りて行く階段の壁には日本鋼管の溶鉱炉の煉瓦が貼ってあったり、椅子が日本工業倶楽部のものなど凝ったお店であった。特に胡蘭成の書や蒋介石の愛用した椅子なども無造作に置いてあるなど、どなたがオーナーか分からなかったが、それなりに志のある方だったのだろう。大きなエビフライとサービスのおしんこが美味しかったことを覚えている。現在はなくなってしまったらしいが、思い出のある、そして好きなお店であった。
忘年会では同志の皆さんとの楽しい語らいの後に、大日本一誠会の仲程会長に送って頂き帰宅。