白雲去来

蜷川正大の日々是口実

新宿から御徒町へ転戦。

2014-05-28 09:37:06 | インポート

五月二十三日(金)晴れ。

いつのことだが忘れたが、弁護士の木村晋介先生が連載している月刊誌で、友人の徐裕行さんが取材を受け、同行したことがあった。場所は霞が関の弁護士会館。その時に取材した原稿が本になったと、ご連絡があって新宿行き。

五時半に徐さんと新宿駅の東口にて待ち合わせて、御苑近くの寿司屋へ。木村弁護士を紹介して頂いた本間吉会長も同席。打ち上げを兼ねて楽しい酒席となった。一時間ほど飲んでから、いきなり御徒町に行きたくなって大熊雄次さんと連絡を取り、いつもの「新東洋」で合流。

アメ横に行くと、この秘密基地のような台湾料理の「新東洋」に顔を出す。いつしか紹介して頂いた大熊さんよりも私の方が、態度と顔がデカイ分、ママさんと仲良しになった。徐さん、大熊さんのお二人と、拉致問題、集団的自衛権、韓国の船の沈没から中国の海洋進出、ウクライナ問題等に口角泡飛、喧々囂々、侃々諤々、そのうちに矢でも鉄砲でも持って来い、というような状態になったので解散。徐、大熊の両氏は、箕輪の寿司屋に転戦したそうだが、私は定量オーバーで転進、帰宅。


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ブルーシルクの雨が降る。

2014-05-27 13:47:24 | インポート

五月二十二日(木)曇り。

朝食は、アコウ鯛の粕漬けと自家製のキュウリのおしんこに、気休めの、しじみの味噌汁。午後から事務所にて、領収書の整理や本の片づけなどで、あっという間に五時。あわてて自宅に戻る。おっとその前に横浜橋商店街へ行き、かつおを求めてさまよったがロクな物がなく、仕方がないので「牛タン」の薄切りを買った。

以前、友人から頂いたCDに「青江三奈ブルースを歌う」がある。彼女は元々ジャズ歌手であったので歌がとても上手い。ジャズばかりを歌ったCDも持っているが好きな一枚だ。彼女のデビュー曲が「恍惚のブルース」で昭和四十一年のことだ。作詞は川内康範、作曲は浜口庫之助。

余談ではあるが、川内氏とは三度ほど当時赤坂にあった野村先生の事務所でお会いしたことがある。もちろん私の用事で来訪したのではなく、野村先生に会う為だ。

そうそう、「恍惚のブルース」の話だ。二番の歌詞は「あたしをこんなにしたあなた。ブルーシルクの雨が降り、こころがしっとり濡れていた。あとはおぼろ、あとはおぼろ。ああ今宵またすすり泣く、恍惚のブルースよ」と言うものだが、「ブルーシルクの雨」ってどんな雨だろう。想像していると、たまに雨の日もいいな、と思ってしまう。因みに三番には「ブルーパールの」霧が出てくる。今日のような天気の悪い日も、ブルーシルクの雨が降ったり、ブルーパールの霧に包まれるならば、中々良いではないか。このCDのジャケットに描かれている女性の絵が、これまたいい。理想のタイプですね。絵ですが。

今夜は、CDでも聞きながらひっそりと飲むか。

Photo_3 ※こんな女性がタイプだけどなぁー。


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良い本をご恵送頂いた。

2014-05-27 13:09:33 | インポート

五月二十一日(水)雨後曇り。

大行社の幹部会議があって東京行き。相談役の末席を汚していることから毎回、皆さんの前で挨拶をさせて頂く。三時過ぎに終了し横浜に戻る。五時に、地方から来訪した友人と久しぶりに会い情報交換を行う。

若き大陸浪人で、沖縄の先、南大東島でサトウキビ畑で働き、農期が終わると世界放浪の旅に出る杉山茂雄君のご厚意で辛亥革命の百周年を記念して出版なされた松本州弘先生のご著書「義の絆ー孫文と宮崎滔天」(朝日新聞出版)をご恵送頂いた。その本の中に松本先生からの手紙があって「一別以来三十有余年の歳月が流れています」とあった。そうかそんなにお会いしていないのか。我ながら感慨深かった。

Photo_2 ※是非ご一読を。

夜は、カメ&アコちゃんと「やまと」にて一献。「颯」に転戦してから帰宅。


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人生の大切な一食がパアか。

2014-05-27 12:44:54 | インポート

五月二十日(火)晴れ。

午前中に所用があって東京行き。正午近くに学校から帰ってくる子供と待ち合わせて、横浜駅の東口の地下街でランチ。どこの店に入ろうかと迷ったが、子供のリクエストでハンバーグの店に入った。何か「釜焼き」が売りの店らしく(別に普通に焼いても一緒だと思うのだが)また、生焼けのものを鉄板で自分で焼いて食べる。正直言って、私はこの手の店と料理が好きではない。

メンドクサイこともあるが、何でハンバーグごときを自分で焼かなければならないのか。生焼けだったらどうする。どんな肉を使っているのかも分からないし、大体、合挽きの肉を良く焼かなければ気持ち悪いではないか。ソースも、ん、この味は・・・。と考えていたら、何てことはない。市販の焼肉のたれの味にクリソツ、あっいやそっくりだった。人生の大事な一食を無駄にしたと、親子で反省。口直しにと、「そごう」の地下でカツオを買ってから帰宅。


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歴史のねつ造。

2014-05-27 12:24:30 | インポート

五月十九日(月)晴れ。

先日、私のこのブログやFBで、中国とロシアが来年、日本を念頭に置いた「戦勝七十年」の共同<wbr></wbr>行事を行うとの報道について「日本は現在の中華人民共和国と戦争をしたことはない」。と書いた。その補足。昭和20年の終戦時に中国大陸にいた「支那派遣軍」の総勢は105万人。ほとんど無傷の精鋭部隊であった。戦術的にも蒋介石の国民党正規軍を圧倒していた。

 

ポツダム宣言(アメリカ・イギリス・中華民国・ソビエト連邦が共同で発した日本への降伏に関する勧告)を受諾し、武装の解除を命令する陸軍中央部にたいして、当時の支那派遣軍の総司令官であった岡村寧次大将は、1945年8月11日、「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり」と電文を送っている。しかし翌日、昭和天皇が宣言受諾を決定した旨伝えられると、岡村大将は考えを改め「承詔必謹(しょうしょうひっきん=詔(みことのり=天皇のお言葉)を承れば必ず謹め」=(天皇の決断を承り実行すること)を隷下将兵に厳命する。

 

降伏した支那派遣軍、岡村寧次大将は9月に中国軍に対し降伏調印する事となるが、この時の中国側代表は中華民国政府陸空軍総司令、何応欽(かおきん)大将だった。

 

くどいようだが当時、我が国が戦争をしたのも降伏をしたのも蒋介石の中華民国に対してである。台湾に中華民国が存在する以上、大陸の中華人民共和国が、我が国に対して「戦勝」などと言う権利など法的にも全く根拠がない。

午前中は、みなとみらいで用事があったので、ついでに書店に行き、岐阜の細川先生から推薦された「やくざと芸能」(なべおさみ著・イースト・ブレス)を購入してスタバでイッキ読み。しつれいながら著者のことは単にコメディアンとしてしか知らなく、当然それ以上でも、もそれ以下の興味もなかった。しかしこの本を読んで「なべおさみ」と言う人が歌手の水原弘の付き人を皮切りに勝新太郎や森繁久弥などの付き人を経験し、鈴木宗男の選挙に関わったりと、様々な経験をしていることを知った。つくづく本を読むことは人を読むこと、ということを再認識した次第。夜は酔狂亭で独酌。

Photo ※良い本です。


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