白雲去来

蜷川正大の日々是口実

花の雨 けむる祖国のさみしさよ

2015-04-06 23:22:40 | 日記
四月四日(土)花曇り。

花の雨 けむる祖国のさみしさよ。とは野村先生の句である。野村先生が師と仰いだ五・一五事件の首謀者であった三上卓先生の句集「無韻」の中に「秘めしこと一つありけり 花の雨」という句がある。いわゆる「海烈号事件」にて、逮捕され横浜刑務所に在獄中の作である。この句が収められている「無韻」は、現在ほとんど手に入らない。三上先生の資料館のある岐阜の大夢館で是非とも再刊してほしいと思っている。

そう言えば、大行社の機関誌『大吼』の春季号(第二八八号)が送られてきた。前号(新年号)から、「暗雲・層雲・青雲」というタイトルでエッセイを書かせて頂いている。その『大吼』は三年ほど私が編集を任されていたが諸般の事情から退任し、現在は小針政人氏が編集を担当している。雑誌の編集というものは、感性と技量の両方を必要とされる。現在はコンピューター・ソフトの充実で様々な編集ソフトが発売されているが、これが中々難しいのである。私なんか今でもほとんど扱えない。昔は、編集長の仕事は原稿を集めることと、割り付けぐらいなものだったが、今では経費の削減で、すべて編集して印刷だけを外注すると言うのがほとんどである。

私が知っている民族派の編集者では小針政人氏と國の子評論の横山孝平氏の二人を評価している。PCの扱いや編集センスはほとんどプロの編集者並みである。これからは、単に機関誌などの編集にとどまらず、一般向けの雑誌の編集にも携わって貰いたいと思っている。

若い頃は、「華の土曜日」などと言って暗くなるとソワソワしたものだが、もうそんな時代はとうに過ぎた。酔狂亭と名前だけが風流な我が家でのんびりと飲んでいるのが楽だと思うようになった。都合の良い時だけ、歳のせいにする。

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子供より親が嬉しい入学式でした。

2015-04-06 22:49:25 | 日記
四月三日(金)雨後曇り。

折角桜が満開となったのにお天道様も情がない。朝から「花散らし」の強風に加えて雨まで降っている。天気は憂鬱だが、今日は神武天皇祭と上の子供の大学の入学式があり朝から気分は晴れやかである。

神武天皇祭とは、初代天皇である神武天皇の崩御日にあたる四月三日に毎年行なわれ、神武天皇の天皇霊を祭る。崩御日は『日本書紀』によれば紀元前五八六年(神武天皇七十六年)三月十一日であるが、これをグレゴリオ暦に換算して四月三日としている。宮中の皇霊殿と神武天皇陵に治定される奈良県橿原市の畝傍山東北陵で儀式が行われる。神武天皇祭は幕末の孝明天皇の時代、一八六〇年(万延元年)三月十一日に神武天皇の御陵祭として始まり、明治四年九月に定められた「四時祭典定則」で規則化され、その後、明治四十一年九月十九日制定の「皇室祭祀令」で改めて法制化された。同法は昭和二十二年五月二日に廃止されたが、以降も宮中祭祀として存続している。

このめでたき日に、上の子供の入学式が行われた。朝九時に愚妻と子供を入学式の会場となった横浜文化体育館に送って行く。この体育館は私が成人式の際の式典が行われたところだ。まず出かける前に家の前で記念写真を撮る。幼稚園の入園式以来続いている我が家の恒例行事である。私も出席しようとも思ったが、親子揃って行くようなことでもないと思い、送って行くだけにした。

子供は、なぜか私よりも社友の隠岐康氏を尊敬し、今年箱根駅伝で隠岐氏が卒業した青山学院への進学を目指した。入試は合格したが、第一志望の横浜国立大学にも合格した。本人は東京の、それも青学に行きたかったらしいが、親としては月謝の安い国立大学の方が大いに助かる。「卒業したら東京の会社に就職すれば」と言い含めて横国大にさせた。素浪人の身としては、少しでも安い大学に行くことは、この上もない親孝行である。

午後から下の子供を連れて歯医者へ。私が子供の頃から歯が悪かったこともあり、子供には同じ苦労をさせたくないと思い歯だけには神経を使っている。これも親の務めか。
夜は家族揃って入学祝の夕食。と言っても私だけが「カツオの刺し身」で家族はありあわせの物。とりあえず「乾杯」の響きが良かった夜だった。

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横浜公園散策。

2015-04-06 11:53:57 | 日記
四月二日(木)晴れ。

良い天気である。横浜の桜は満開。下の子供を連れて横浜公園に盟友の古谷喜久男氏がキッチンカーを出しているとのことで、陣中見舞いに行った。横浜ベイスターズが本拠地での試合があるとかで、スタジアムのある横浜公園は、チケットを求めて並ぶ人や、天気に誘われて散歩する人たちで賑わっていた。私が子供の頃は、スタジアムは平和球場と呼ばれ、球場と市庁舎の間にはカマボコ型の体育館、フライヤージムと言うものがあった。木の実ナナのショ―(昔はライヴなどと言う言葉はなかった)を見たのもそのフライヤージムだった。この横浜公園で毎年行われる開港記念のバザーは横浜の風物詩となっている。

私たちが行った時は、キッチンカーが到着したばかりで支度中。仕方がないので、伊勢佐木町のインドカレーの店「モハン」にて昼食。ここの「ナン」のファンである。私が勝手に月光仮面に出てくる悪役で、どくろ仮面の幹部のアダラカーンと名づけている一メートル九十もあるだろうか、のっぽのインド人?の店長の姿がここの所見えない。聞く所によれば夜番になったとのこと。

食後に再び横浜公園に行き、しばらく古谷氏と雑談をしてから別れた。関内駅で大学の入学説明会に行っていた上の子供と待ち合わせて、大岡川の桜を見に行った。毎年、定点写真を撮っているのだが先日行った時はまだ五分咲きだった。今日は満開の桜の下で子供たちの姿をカメラに収めた。

夜は、そごうのスーパーでカツオを買ったが、悪くはないが値段の割にはイマイチだった。お友達の京子ちゃんから頂いた誕生日祝いの「赤霧島」の封を切った。
※写真は、フライヤージム。昭和47年に老巧化で解体された。右にあるのは市庁舎。今の首都高速の所は川でした。写真は他の方の物を借りました。

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同志の方と九年ぶりに再会。

2015-04-03 18:23:20 | 日記
四月一日(水)曇り。

古い同志で国憂会を主宰していた小西運さんがタイへ渡ったのはもう九年も前のこと。風の噂では牧場を経営していると聞いていた。その小西さんと再会したのはフェイスブックだった。お互いにメールを交換し、所用で一時帰国した小西さんと赤羽の居酒屋でお会いすることとなった。

五時に赤羽の東口で待ち合わせをした。私の方は三十分も前に着いたので、近くのコーヒーショップでしばしの読書。上京しているもう一人の方も一緒に五時に待ち合わせをして三人で運動談義でもしようと思ったが、道が不案内なのか二十分近くも待っていたが連絡がない。寒くなってきたので近くの商店街の居酒屋に入った。途中、なにやにら「うなぎ」を売るような古風な様相のお店があって気になったが、ここは地元ではないので、小西さんに任せて焼き鳥屋に入った。(機会があれば行ってみたいと思うような雰囲気のお店だった)

小西さんとこうしてお会いするのは九年ぶり。最後にお会いしたのは神楽坂の料亭で戦線復帰のお祝いの席だったと記憶している。まず久闊を叙して乾杯。積もる話は尽きないが、明日バンコクに帰ると言う小西さんのフライト便は朝が早いとのこと。私も、蒲田で大熊雄次氏や野村勇介さんと約束をしていたので一時間半ほどで再会を約して別れた。蒲田へは京浜東北線で向かおうと思ったら、上野東京ラインと言うものがあって、赤羽から東海道線につながっていた。これは便利だった。あっという間に川崎まで行き乗り換えて二駅。野村先生が愛した「八幸」へ顔を出した時には、あまり早く着いたので皆さんが驚いていた。

「八幸」のオヤジさんは多少体調が悪いとのことだが、ご夫婦もお元気そうなので安心した。このお店のことは野村先生の遺著となった『さらば群青』に詳しい。先生の書も店内に飾ってある。つい甘えて閉店時間を過ぎてまで飲んでしまった。飲み足らず、駅前の料理屋に転戦してから帰宅。

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三月も、あっという間の為五郎。

2015-04-01 09:15:51 | 日記
三月三十一日(火)晴れ。

朝食は、横須賀の「エイビイ」で買った「サバの文化干し」と「筋子」に「新玉ねぎの味噌汁」。私は、玉ねぎが好きだ。特に新玉ねぎが出回る季節になると、なぜか嬉しくなる。みそ汁はもとより、スライスして鰹節をかけただけのものや、オイスターソースで炒めたもの。また「ウェイパー」で作ったスープに入れると、これが中華風になって美味しい。しかし普通の玉ねぎよりも保存期間が短いのが残念だ。とにかく玉ねぎは庶民の食卓の優等生であると思っている。

その玉ねぎも子供の頃はそれほど好きではなかった。考えてみると大人になってから食べられるようになったものが随分とある。若い頃、先輩に連れられて天ぷら屋などに行くと、「蕗の薹」や「タラの芽」「こごみ」などが出てくると、心の中で「良くこんな物を金を出して食べるな」と思ったものだ。子供の頃は母と二人の生活であったせいか、自分の家で食べるもの以外は苦手だった。特に母は酒を飲まない人だったので、酒の肴になるような物は、ほとんど食卓には上らなかった。例えば、塩辛、このわた、鮟肝・・・。そうか納豆も食べたこともなかった。また母は匂いのきつい物が苦手で、ニンニクを使った料理、例えば餃子なども母と食べたことが一度もなかった。

昭和三十年代、母は七輪一つでご飯、焼き物、煮物を作っていたのだから、母だけでなく当時の人たちは大したものだ。今の人たちでは、鍋でご飯を焚くことなどほとんど出来ないに違いあるまい。いや七輪の火を熾すことも出来ないかもしれない。そうか七輪を見たこともない人がほとんどか。子供の頃は貧乏だったが、ひもじいという思いをした記憶はない。

苦手だった物を好んで食べるようになったのは、大人になってから、というよりも「酒とズブズブの関係」(エッセイストの平松洋子さんからのパクリ)になってからだ。今では好き嫌いはほとんどないが、「おから」と「ニラ」だけはパスをしている。ニラは餃子に細かくして入っている物は大丈夫なのだが、野菜炒めやタンメンなどに露骨に入っていると外してしまう。

最近は体調を気にして、ご飯は朝一度だけ。昼はなるべく軽いものとして、夜は子供たちとは別メニューで、私は酒の肴の刺身とサラダを中心とした食事を心がけている。それでも油断するとすぐ太ってしまうので嫌になる。

三月も今日で終わりか。振り返れば、あっという間の為五郎。毎月資金繰りにヒーコラ言いながら何とか今日までやって来た。特に今月は子供の大学の入学金などの支払いに、プロのランナーのように走り回った。出るのはため息、残るは借金。昔の人は上手いことを言ったものだ。それでも社友の皆さんのご厚意で酒だけはたんまりある。外に出ると金がかかるので当分籠城を決め込むことにする。

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