白雲去来

蜷川正大の日々是口実

出版記念会へ。

2015-11-24 12:44:00 | 日記
十一月二十日(金)曇り。

午後にお世話になっている方の会社にご挨拶に行っている時に、私の携帯に電話が入った。誰かと思ったら、古いお付き合いをさせて頂いている本間事務所の本間会長からで、「あっ会長お久しぶりです」と話したら、電話の主は会長ではなく、ご子息からだった。何かと思ったら、「今日の午前八時に父が亡くなりました」。えっ、一瞬言葉を失った。群青忌の直前に、「体調が良くないので代理に行かせるから」。と電話を頂いたのが、本間会長との最後の会話となった。バブルの頃には、様々な舞台で活躍し一世を風靡した。もし脳梗塞で倒れなかったならば、さらに活躍していたのに違いあるまい。いずれお別れの会を予定しているとのこと。ご冥福を。合掌。

夜は、やはり古い同志である森田忠明さんが、展転社より『論語のやぶにらみ』という本を上梓し、その出版記念会が國學院大學の院友会館にて行われ出席。私も発起人の末席を汚しているので、遅れずに到着した。私の住む所から東京に行くには、横須賀線の保土ヶ谷がもよりの駅である。かつてはそこからいったん横浜に出て東横線で渋谷に行ったものだが、今では湘南新宿ラインで乗り換えをせずに一本で行ける。便利になったものだ。

出版記念会の会場には、知り合いが六割で、知らない人が四割。まず展転社の藤本社長と、今日の主役の森田さんにご挨拶。その後、宴席となり乾杯となったが、乾杯のビールが足りない。後で藤本社長にそれを指摘すると、「私はビールが嫌いですから」。そう言う問題ではないだろう。「ウエルカム」ですから酒はなかったですか?。立食のパーティーでの「ウエルカム・ドリンク」は、入口で渡されるか、入口で勝手に好きな飲み物を取るスタイルを言う。ドリンクバーに行って、飲み物を取に行くのは「ウエルカム」とは言わない。まあ藤本社長だから仕方がないか。今日も、主催者だと言うのに、客より先に酔っぱらっているし・・・。

一時間ほどいて、諸先輩にご挨拶をしてからお暇した。帰りは、恵比寿の駅まで歩いて行き、新宿ラインにて帰宅。

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ナポリタンはおかず?。

2015-11-24 12:09:44 | 日記
十一月十九日(木)晴れ後雨。

いつも家族に笑わられるのだが、私は、「ナポリタン」は、ご飯のおかずにして食べるのが一番好きである。今朝も、赤ウインナー、目玉焼きにナポリタンとキャベツの千切り、というメニュー。「ナポリタン」と言っても、私が作るものを本場のイタリア人が見たら、ビツクリポンに違いあるまい。玉ねぎと赤ウインナーを入れてスパゲティーを炒めてケチャップで味をつけただけのものだ。

スパゲティーが「パスタ」で、炒めずに茹でたものにソースをからめて食べる、と言うことを知った時は、随分と驚いたものだ。私の若い頃は、スパゲティーは専門店やレストランで食べるのではなく、喫茶店で食べるものだった。まあどうでも良い話ですが。

歳時記によれば、今日は「一茶忌」だそうだ。一茶のつくった句は約二万二千句。で、芭蕉の約千句、蕪村の約三千句に比べ非常に多い。最も多くの俳句を残したのは、正岡子規で約二万四千句であるが、一茶の句は類似句や異形句が多いため、数え方によっては、子規の句数を上回るかもしれない。よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の類似句があり、これを1句とするか3句とするかは議論の分かれるところである。

現代の一茶研究で最も権威のある『一茶全集』第1巻(信濃毎日新聞社、一九七九年)には、一茶のほぼ全作品が収録されている。なお、その後の発行された『一茶発句総索引』(信濃毎日新聞社、一九九四年)で、一九八句が新出句として追加されるとともに、『一茶全集』第1巻に久保田兎園等の句が40数句あったと記述されている。一茶の句の発見は、これ以後も続き今日に至る。(「ウイキ」より。)

昼に、友人が来て、中華街の「安記」にて昼食を共にした。車で行ったので、当然飲まず。中華街に行って酒を飲まずに食事だけと言うのも寂しいが、最近胃が痛むことが多いので、休肝日とした。友人を駅に送ってから事務所にて仕事。

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「おでん」の話。

2015-11-24 11:12:11 | 日記
十一月十八日(水)雨。

当たり前だが、この時期は、一雨ごとに寒くなり、反対に春は、一雨ごとに暖かさが増す。寒い時の雨はニガ手だなぁー。家族が出かけた後にのんびりと朝食を食べるのだが、一人分の味噌汁を作るのが面倒なので、ついインスタント物で間に合わせてしまう。「しじみのちから」「松茸のスープ」百均で売っている「チキンラーメン」、マルちゃんの「ホットワンタン」などである。色気も何もないが、まあ無いよりましだ。

今日のような寒い日には、「おでん」が恋しくなる。江ノ島の近くに「おでんセンター」というものがあって、様々なお店が軒を連ねている。昭和四十年代の後半、車の取り締まりが今のようにうるさくない頃には、店がハネた後に、車でオネエさんたちを連れてドライブがてら、「ひげでん」などに出かけたものだ。その「おでんセンター」だが、昔の方がもう少し規模が大きいように記憶している。その他、横浜駅の西口、帷子川沿いにおでん屋が軒を連ねる「おでん屋台」が名物となっているが、関内を「飲み場」としいる私としては、サラリーマンや若者の聖地である「西口」でほとんど飲むことはない。

因みに、住民一人当たりのおでん屋の店数が日本一の地域は金沢市とのこと。一度行ってみたい。我が家でおでんを作ると、ついあれも食べたい、これも食べたいと買い過ぎてしまい、家族から顰蹙を買ってしまう。二日も、三日もおでんの日が続けば文句を言われても仕方がないか。関東と関西では、「おでん種」には多少の違いがあるらしい。関東のおでんでは欠かせない「ちくわぶ」や「すじ」は関西のおでん屋にないそうだ。特に、「ちくわぶ」はその名前はおろか存在さえ知らない人が多いということを知って、意外に思ったことがある。

先日、古書店で見つけた『食味の真髄を探る』(波多野承五郎著・犬養智子編・新人物往来社)の中に、おでんの「すじ」について書いてあった。

「すじ」というのは、東京固有のもので、しかもおでんの材料としてのみ存在しているのであるといってもよいほどのものだ。「すじ」とは、魚の筋だ。それは蒲鉾やハンペンを製するべく、魚の身を削ぎ取ったあとに残った筋や、すりみを裏ごしにかけて残った筋をもって製造した一種の蒲鉾であるのだ。しかし、上等蒲鉾の材料となるべき、虎ギスや沖ギスの摺身から出た筋は、品質がよいから八幡巻の芯に使われる。而して、鮫や黒皮梶木のような大きな魚には、筋が発達しているので、身を取ったあとに、それが残らざるを得ない。日本橋の『神茂』のような大きな蒲鉾屋では毎日、これらの筋を纏めて円筒形のものを造り、荒い簾で包んで蒸しあげる。そして毎朝、魚河岸に運ばれて、おでん屋の手に渡る。小さい蒲鉾屋でも、蒲鉾製造の際に、筋が残るから、これらを纏めて、「すじ」を造りはするが、毎日、一本の「すじ」を製造するほどに、材料が纏りかねることがある。それだから、こういうところの筋は、材料において新鮮味を失うことがないともいえぬ。

これまで、単に「おでん」は「おでん」と深い考えもなく食べていたが、これからは、おでん種の一つ一つにもう少し拘って食べてみようと思っている。

午後から役員の末席を汚している大行社の役員会議に出席するために東京行き。大行社も会長の交代などあり、新執行部体制となった。終了後は、六本木の懇親会に参加し、終了後は岸谷聖一氏と共に横浜に帰った。

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銀座のカツオ。

2015-11-23 13:00:32 | 日記
十一月十七日(火)曇り後雨。

朝食は、社友の斉藤義一氏から頂いた千葉産のアジの干物に納豆、大根の味噌汁。昼食は、スーパーの冷食の半額セールをやっていた時に買っておいた「ワンタン麺」を作った。あまり冷食など好きではなかったが、半額と言うのに誘われて、「サンマー麺」やお弁当用の「ナポリタン」、「讃岐うどん」などを買った。最近の冷食も進化したもので、レンジで解凍してから更に鍋で煮る。という方法で、より店で食べるものに近い味となっている。

夜は、憂国の企業人、お世話になっている松本洋三社長に誘われて、作家の大下英治氏が銀座で開催している飲み会に参加した。銀座に到着したが、まだ時間が早いので、土佐料理の「祢保希(ねぼけ)」というお店で夕食を兼ねた一献。私が「カツオ食い」なのを知っている松本社長のお気遣いに感謝。聞けば、先日高知に行った折に空港で一杯やった「司」と同じ経営とのこと。当然ながら「カツオ」を堪能した。横浜に支店が無いのが残念である。

その後、大下氏の飲み会の席へ。「次世代の党」の元衆議院議員の松田まなぶ氏も合流。誕生日とのことで祝杯を挙げる。二時間ほどいて、お暇した。いい一日だった。

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感慨深い。

2015-11-23 12:34:53 | 日記
十一月十六日(月)晴れ。

「キャベツスライサー」というものを買ってから、「キャベツの千切り」を使った料理(というほどのものではないが)が多くなった。料理と言うよりも付け合せに使うだけなのだが、私以外には、家族は見向きもしない「赤ウインナー」、「マルシンのハンバーグ」に目玉焼き、そしてキャベツの千切り添え。ふふふと至福の時ですな。「至福」とかくと、その昔に買ったコルトレーンの「至上の愛」とかいうLPを思い出す。

出かけようと思ったら、子供から電話。どうしたのかと思ったら「熱が出たので学校を早退した」とのこと。駅まで迎えに行って、そのまま出かけずに家にいた。

「霜の夜を思い切ったる門出かな」とは東京裁判で絞首刑を言い渡された武藤章の時世である。その東京裁判は、昭和二十一年の十一月十二日から始まり、二年有余の審理の結果、東條英機らの戦争指導者に絞首刑が言い渡された。そして死刑が執行されたのは、当時の皇太子殿下のお誕生日。当時のアメリカ人の日本人に対する「報復」に涙した人も多かったに違いあるまい。ご遺体を荼毘に付したのが、横浜の久保山火葬場である。私は、その火葬場のすぐ近くの小学校に通っていた。

我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば
さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき
散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは
今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ

この四首は、東條さんの時世である。東條さんは、満六十四歳で亡くなられた。今の私と同じ年である。感慨深い。

板垣征四郎は、懐かしき唐国人よいまもなお東亜のほかに東亜あるべき。と詠んだ。
 

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