白雲去来

蜷川正大の日々是口実

弊社の忘年会。

2016-12-22 08:36:26 | 日記
十二月十七日(土)晴れ。

今日は、弊社の忘年会。有難いことに、昨日の滋賀県から来訪して頂いた方や、札幌からもお二人の方に出席して頂いた。そのうちのお一人は、初対面である。正に、男の酒の嬉しさは、たちまち通う意気と熱。である。民族派の方々はもとより、一般の友人など、大いに盛り上がった。

たまに、「招待されていない」という人がいるが、こちらが気を使って、案内状を出さないだけであり、他意はない。私のこのブログやフェイスブックで忘年会の告知をしているので、それを見て参加して頂いた人も何人もいる。また、どうしても参加できないからと断って、会費を送ってくれる奇特な人もいるのだから、たかが酒席なので、あんまり四角四面に考えないで頂きたい。

終了後に、カメ&アコちゃんを誘ってサリーの店に顔を出したが、もうヘロヘロ状態だったので、早めに帰宅。ご多忙中にも関わらず、遠路ご出席を賜りました、方々に心から厚く御礼を申し上げます。新年が、皇国はもとより、ご出席を賜りました皆様にとりまして佳い年でありますことを心からご祈念申し上げます。

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朋、遠方より来たり。

2016-12-22 08:27:13 | 日記
十二月十六日(金)曇り。

明日の弊社の忘年会に出席するために、わざわざ滋賀県から同志が来訪。夕方、泊まっているホテルに迎えに行き、まずは私の事務所に来て頂き、資料を提供する。その後、「やまと」に案内しようかと思って電話をした所、予約でいっぱい。仕方がないので、やはり焼き鳥の美味しい「だんらん亭」へ行く。ここの女将とは、同級生である。従って共通の友人も多い。ここでの酒は、四合瓶の「三岳」。正に、朋遠方より来たり、で楽しい酒席となった。その後、お決まりの「サリーズバー」に転戦。一時間ほど飲んで、別れた。

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プーチンが来日か。

2016-12-22 06:46:16 | 日記
十二月十五日(木)曇り。

どんなに二日酔いでも体調が悪くても、朝食だけはしっかりとる。いい歳をしてお恥ずかしいが、朝食命である。朝食のおかずで一番好きなのは、干物や納豆だ。干物で一番は、「サバの文化干し」、納豆は、水戸の「舟納豆」。これに香の物とみそ汁があれば、朝から元気になる。

ロシアのプーチンが来日か。しかし、首脳会談を行うのに、三時間も遅刻してくるとは、非常識な男だ。もちろん、その都度、日本側に「遅れる」と連絡はあったのだろうが、ナメられていると思われても仕方がない。プーチンの来日が決まってから、一部のマスコミは、北方領土の返還に対して、かなり楽観論を流していた。つまり、「二島返還」が実現し、その勢いで、解散総選挙。保守勢力を結集して、イッキに憲法の改正。という論評が多かった。そういう私も、それに期待して、いいぞ、いいぞ。と思ったものだ。ところが、そうは問屋の土手かぼちゃ。

私がこの運動に入った頃の民族派は、四島や二島返還など、とんでもない話で、「南樺太及び全千島列島の奪還」が共通のスローガンだった。例え、それが実現不可能な事であっても、国民に、「南樺太及び全千島列島」が、我が国の固有の領土。という共通した意識、歴史的認識を持たせることこそ、我々の運動と信じていた。

北方領土は、ロシアが言うように、決して「戦争の戦利品」などではなく、当時のソ連が日本の降伏後に、強奪したものであり、軍人、軍属を六十万人もシベリアなどに強制的に連行して、労働に従事せしめた、国際法違反。ということを国際世論に訴えなければいけないと思う。欧米の新聞に意見広告を掲載したり、いかにロシアの北方領土の占領が、違法なものかを国際社会に訴えて行く。昨今のマスコミの論調を見ると「返して頂く」的な弱腰の意見が多い。残念でならない。

夕方に、松原商店街を放浪。魚幸で「まぐろ」をかいもとめ、「黒霧島」を相手に、酔狂亭で独酌。

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義士討ち入りの日。

2016-12-21 11:23:42 | 日記
十二月十四日(水)曇り後雨。

義士討ち入りの日か。そんなに遠くないのに、主君や義士の眠る高輪の泉岳寺にはお恥ずかしいことに行ったことが無い。来年は、必ず行ってみようと思っている。赤穂の浪士は皆切腹になったが、吉良の養子であった義周(よしひろ)も知行(ちぎょう=与えられた所職や所領を支配すること)を没収された。

忠臣蔵が好きだ。これまで映画やテレビでどれだけの人が、浅野内匠頭や大石内蔵助、四十七士を演じてきたのだろう。そう言えば、森繁が吉良を演じたこともあった。松坂慶子の浅野長矩の妻、瑤泉院が、一番良かった。日本人に愛されている忠臣蔵。どう考えたって死刑制度がなくなる訳はない。赤穂は、現在、兵庫県赤穂市となっているが、JRの駅は、今でも播州赤穂駅という古めかしい名前である。一度訪ねてみたいなぁー。

夜は、「チゲの素」を使って、豆腐とキムチを入れてキムチチゲで、「赤霧島」を相手に、酔狂亭で月下独酌。

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日清講和のふぐの店。

2016-12-21 11:02:00 | 日記
十二月十三日(火)晴れ。

今日は、お世話になっている方のご招待で、「ふぐ」から「寿司」へのダブルヘッダーと言う僥倖の日。玄品ふぐで待ち合わせたら、近くに馴染みの寿司屋があって、そこに良いマグロが入ったと連絡があったので、後で行きましょう。と言うことになった。それでは、と言うことで、ふぐは鍋を割愛して、刺身と白子、そしてブツでヒレ酒と言う、贅沢な物になった。一時間ほどいて、近くの寿司屋で、お刺身を堪能。浪人には、贅沢な夜となった。

ふぐと言う場、一度は行ってみたいのが、下関の春帆楼。このお店は、「高杉晋作が組織した奇兵隊の本拠地が阿弥陀時(現・赤間神宮)であり、その跡地に建ったのが現在の春帆楼です。春帆楼という屋号は、春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様から、伊藤博文が名付けました。明治二十年の暮れ、当時初代内閣総理大臣を務めていた伊藤博文公が春帆楼に宿泊した折、海は大時化でまったく漁がなく、困り果てた女将のみちは打ち首覚悟で禁制だったふぐを御膳に出しました。豊臣秀吉以来の河豚禁食令は当時まで引き継がれ、ふぐ中毒が増加するなか、法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていました。しかし禁令は表向きで、下関の庶民は昔からふぐを食していました。

若き日、高杉晋作らと食べてその味を知っていた伊藤公は、初めてのような顔をして「こりゃあ美味い」と賞賛。翌明治二十一年には、当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解かせ、春帆楼はふぐ料理公許第一号として広く知られるようになりました。明治維新後、急速に近代化を進めた日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立を深め、明治二十七年八月、甲午農民戦争(東学党)の乱をきっかけに開戦しました。日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した戦況を受け、清国は講和を打診してきます。会議の開催地は、長崎、広島などが候補に挙がりましたが、一週間前に伊藤博文が『下関の春帆楼で』と発表。

明治二十八年三月十九日、総勢百人を超える清国の使節団を乗せた船が亀山八幡宮沖に到着しました。日本全権弁理大臣は伊藤博文と陸奥宗光、清国講和全権大臣李鴻章を主軸とする両国代表十一名が臨みました。講和会議は、当時の春帆楼の二階大広間を会場に繰り返し開かれ、4月17日、日清講和条約(下関条約)が締結されました。」とは、春帆楼のホーム頁から引用しました。

美味い物を食べて、美味い酒を飲むと、何か寿命が長くなるような気がする。

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