一月十二日(木)晴れ。
急に寒くなった。正に寒波の襲来である。まだ寒波なら良いが、これが現代版の蒙古襲来だったら大変だ。東京の最も寒い時の記録は、氷点下九度だそうだ。満州やシベリア、北欧の人たちから見たら、一℃や二℃で、寒波などと言って震えていたら、笑われるのに違いあるまい。
ちなみに、四年前の気象庁の資料によれば、日本の最低気温のランキングは以下の通り。
順位 気温(℃) 観測地点 都道府県 観測日
1. -41.0 旭川 北海道 1902年1月25日
2. -38.2 帯広 北海道 1902年1月26日
3. -38.1 江丹別 北海道 1978年2月17日
4. -38.0 富士山 静岡県 1981年2月27日
5. -37.9 歌登 北海道 1978年2月17日
6. -37.6 幌加内 北海道 1978年2月17日
7. -37.0 美深 北海道 1978年2月17日
8. -36.8 和寒 北海道 1985年1月25日
9. -36.1 下川 北海道 1978年2月17日
10. -35.9 中頓別 北海道 1985年1月24日
網走も寒かったが、マイナス二十七度と言うのを一度だけ経験した。冬と夏とでは、やはり自分が能天気なせいか、夏の方が良い。酔っぱらってそこいらで寝ても死ぬことがないからね。
大東塾がかつて発行した『内田良平大人四十年祭報告書』という小冊子を手に入れた。その慰霊祭は、昭和五十二年の七月に東郷神社にて開催された。野村先生らが、財界の営利至上主義を撃つ、として同志らと決起した、いわゆる「経団連事件」が、その年の三月三日に起きている。私は、当時、横浜の民族派団体に加盟していたが、この慰霊祭の記憶はない。
小冊子には、実行委員や発起人の名前があり、当時の斯界の錚々たる方々の名前があった。れでも、その慰霊祭から四十年が過ぎほとんどの方が幽明境を異にしている。モノクロのグラビアの中にある剣舞を奉納する女性の写真が目についた。その女性は、神奈川県の民族派の重鎮だった、天照義団の故山下幸弘先生のご長女。この方には、思い出がある。確か、居酒屋を経営しており、山下先生の法事の帰りだと記憶しているが、毛呂清輝、北上清五郎の両先生のお供をして行ったことがあった。そのご長女、私の顔を見るなり、開口一番「何だ、蜷川。お前みたいな小物が、何で、毛呂、北上両先生と一緒にいるんだ」。
まあ、私も二十代の前半と言うこともあり、「小物」はその通りなのだが、客として来ているのに、その言い方はないと、思ったものだ。その方の写真を見ながら、そんな昔のことを思い出した。
夜は、大人しく、酔狂亭で、月下独酌。
急に寒くなった。正に寒波の襲来である。まだ寒波なら良いが、これが現代版の蒙古襲来だったら大変だ。東京の最も寒い時の記録は、氷点下九度だそうだ。満州やシベリア、北欧の人たちから見たら、一℃や二℃で、寒波などと言って震えていたら、笑われるのに違いあるまい。
ちなみに、四年前の気象庁の資料によれば、日本の最低気温のランキングは以下の通り。
順位 気温(℃) 観測地点 都道府県 観測日
1. -41.0 旭川 北海道 1902年1月25日
2. -38.2 帯広 北海道 1902年1月26日
3. -38.1 江丹別 北海道 1978年2月17日
4. -38.0 富士山 静岡県 1981年2月27日
5. -37.9 歌登 北海道 1978年2月17日
6. -37.6 幌加内 北海道 1978年2月17日
7. -37.0 美深 北海道 1978年2月17日
8. -36.8 和寒 北海道 1985年1月25日
9. -36.1 下川 北海道 1978年2月17日
10. -35.9 中頓別 北海道 1985年1月24日
網走も寒かったが、マイナス二十七度と言うのを一度だけ経験した。冬と夏とでは、やはり自分が能天気なせいか、夏の方が良い。酔っぱらってそこいらで寝ても死ぬことがないからね。
大東塾がかつて発行した『内田良平大人四十年祭報告書』という小冊子を手に入れた。その慰霊祭は、昭和五十二年の七月に東郷神社にて開催された。野村先生らが、財界の営利至上主義を撃つ、として同志らと決起した、いわゆる「経団連事件」が、その年の三月三日に起きている。私は、当時、横浜の民族派団体に加盟していたが、この慰霊祭の記憶はない。
小冊子には、実行委員や発起人の名前があり、当時の斯界の錚々たる方々の名前があった。れでも、その慰霊祭から四十年が過ぎほとんどの方が幽明境を異にしている。モノクロのグラビアの中にある剣舞を奉納する女性の写真が目についた。その女性は、神奈川県の民族派の重鎮だった、天照義団の故山下幸弘先生のご長女。この方には、思い出がある。確か、居酒屋を経営しており、山下先生の法事の帰りだと記憶しているが、毛呂清輝、北上清五郎の両先生のお供をして行ったことがあった。そのご長女、私の顔を見るなり、開口一番「何だ、蜷川。お前みたいな小物が、何で、毛呂、北上両先生と一緒にいるんだ」。
まあ、私も二十代の前半と言うこともあり、「小物」はその通りなのだが、客として来ているのに、その言い方はないと、思ったものだ。その方の写真を見ながら、そんな昔のことを思い出した。
夜は、大人しく、酔狂亭で、月下独酌。