白雲去来

蜷川正大の日々是口実

いまでも「小物」ですが。

2017-01-18 12:48:17 | 日記
一月十二日(木)晴れ。

急に寒くなった。正に寒波の襲来である。まだ寒波なら良いが、これが現代版の蒙古襲来だったら大変だ。東京の最も寒い時の記録は、氷点下九度だそうだ。満州やシベリア、北欧の人たちから見たら、一℃や二℃で、寒波などと言って震えていたら、笑われるのに違いあるまい。

ちなみに、四年前の気象庁の資料によれば、日本の最低気温のランキングは以下の通り。
順位 気温(℃) 観測地点 都道府県 観測日
1. -41.0 旭川 北海道 1902年1月25日
2. -38.2 帯広 北海道 1902年1月26日
3. -38.1 江丹別 北海道 1978年2月17日
4. -38.0 富士山 静岡県 1981年2月27日
5. -37.9 歌登 北海道 1978年2月17日
6. -37.6 幌加内 北海道 1978年2月17日
7. -37.0 美深 北海道 1978年2月17日
8. -36.8 和寒 北海道 1985年1月25日
9. -36.1 下川 北海道 1978年2月17日
10. -35.9 中頓別 北海道 1985年1月24日

網走も寒かったが、マイナス二十七度と言うのを一度だけ経験した。冬と夏とでは、やはり自分が能天気なせいか、夏の方が良い。酔っぱらってそこいらで寝ても死ぬことがないからね。

大東塾がかつて発行した『内田良平大人四十年祭報告書』という小冊子を手に入れた。その慰霊祭は、昭和五十二年の七月に東郷神社にて開催された。野村先生らが、財界の営利至上主義を撃つ、として同志らと決起した、いわゆる「経団連事件」が、その年の三月三日に起きている。私は、当時、横浜の民族派団体に加盟していたが、この慰霊祭の記憶はない。

小冊子には、実行委員や発起人の名前があり、当時の斯界の錚々たる方々の名前があった。れでも、その慰霊祭から四十年が過ぎほとんどの方が幽明境を異にしている。モノクロのグラビアの中にある剣舞を奉納する女性の写真が目についた。その女性は、神奈川県の民族派の重鎮だった、天照義団の故山下幸弘先生のご長女。この方には、思い出がある。確か、居酒屋を経営しており、山下先生の法事の帰りだと記憶しているが、毛呂清輝、北上清五郎の両先生のお供をして行ったことがあった。そのご長女、私の顔を見るなり、開口一番「何だ、蜷川。お前みたいな小物が、何で、毛呂、北上両先生と一緒にいるんだ」。

まあ、私も二十代の前半と言うこともあり、「小物」はその通りなのだが、客として来ているのに、その言い方はないと、思ったものだ。その方の写真を見ながら、そんな昔のことを思い出した。

夜は、大人しく、酔狂亭で、月下独酌。

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安部総理の真珠湾訪問の是非。

2017-01-16 11:03:50 | 日記
一月十一日(水)晴れ。

私が発行している機関誌『燃えよ祖国』にて、「安部総理の真珠湾訪問を私はこう思う」というテーマで、弊社の社友を中心として原稿をお願いした。賛否両論あったが、おおむね「慰霊訪問」ということで賛成と言う意見が多かった。

言うまでもないが、大東亜戦争は真珠湾の攻撃から始まったわけではない。先の大戦の象徴的な出来事ではあるが、出発点では無かった。また当時、米国側は、日本海軍の行動をすべて知っておりながら、真珠湾の米海軍部隊には一斉知らせず、日本軍の攻撃を「騙し討ち」という形にして、日米戦に消極的であった、米国の国民の「怒り」を演出させた。というのが、最近日本では「定説」になりつつある。その根拠として、真珠湾は水深が浅く、航空魚雷での攻撃は不可能と思われていたし、黄色人種を蔑視していた米国の軍部や指導者は、日本のパイロットの技量を軽視していた。従って、日本の機動部隊が、攻撃してきても、大した損害はないだろうと考えていた。

しかし、この「米国陰謀説」が、例え本当であったとしても、米国の国民は、「日本の騙し討ち」という節を、今後も信じ続けるに違いあるまい。これは理論、理屈などではなく、「我々は正しい戦をした」と思い続けることが、米国民のプライドであり、正当な歴史の事実であると、信じているからである。

例えば、我が国の「忠臣蔵」において、いくら浅野内匠頭が、思慮の浅い男で、吉良への進物も嫌がる吝嗇な主君。悪いのは浅野であって、吉良ではない。巷間言われていることは、間違い。と歴史家が百万言を弄しても、信じる者がいないのと同じなのだ。真珠湾の奇襲も、忠臣蔵もお互いの国民の琴線に触れる出来事である以上、「騙し討ち」の定説を覆すのは難しいと私は思う。

弊誌の特集号(鋭意製作中です)の中で大行社の小針政人氏は、ケント・ギルバート氏の論文を引用して、「米国は、紛争中立国が守るべき国際法を破った上に、日米開戦の準備を着々と進めていた。最終的に行われた『石油の全面禁輸措置』という敵対行為は、米国から日本への『武力を伴わない先制攻撃』である。真珠湾攻撃はそれに対する反撃だった」と、指摘している。安部総理の真珠湾訪問が、戦後の日本人が、そう言ったことを考える入り口になることを願っている。

野村先生は、自決に際して、同志らに宛てた檄文、「天の怒りか、地の声か」をこういう言葉で結んでいる。、「いつの日か必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真なる意味が何であったのかは、後世の史家が明らかにしてくれるであろう」。

夜は、酔狂亭にて「黒霧島」を相手に月下独酌。

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正月ボケが抜けない。

2017-01-16 10:40:34 | 日記
一月十日(火)晴れ。

一月も十日が過ぎた。世の中は、仕事モードで、屠蘇気分も抜けたと言うのに、私は、まだ正月ボケをしている。自宅にいる時は、朝からビールなど飲む気はしないが、なぜ旅に出ると、朝食の時から酒が欲しくなるのだろうか。旅行先に付けば、まず安着祝い。無事に羽田や成田に付けば、やはり安着祝い。旅先での酒は、どんな高級クラブで飲む酒より美味い。

テレビで金沢の町を特集していた。両親が元気なころに、一度行ったことがある。市場で買った魚をそのまま料理屋に持ち込んだり、確か「リリーマルレーン」とか言うJAZZなお店に行ったことがあった。自宅には、両親がアメ屋の暖簾から顔を出している写真が飾ってある。寒い時に、金沢のおでん屋で一杯やってみたい。そこそこの店でも、旅の感傷や風景が料理や酒の味を良くする。こんなことを考えているようでは、当分、正月ボケが抜けそうにもないか。

夜は、松本洋三氏が主催する勉強会が、氏の会社のセミナー室にて行われ出席。講師は、八幡和郎先生。もと通産省の官僚の超エリートである。「蓮舫二重国籍問題の告発者であり、皇室問題の第一人者の一人でもある立場から、トランプのアメリカやロシアとの関係、アンプのアメリカや東京五輪と小池知事の課題なども含めて日本の国の根本にかかわる諸問題を語る」である。びっしり二時間半。勉強になった。終了後は直会。初対面の方も多く、楽しかった。

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娘の成人式。

2017-01-15 14:31:55 | 日記
一月九日(月)曇り後雨。成人の日。

スーパーなどに「新玉ねぎ」が並ぶと、つい買ってしまう。一番好きなのは、味噌汁の具。次が、オイスターソースでさっと炒めたもの。そして、オニオンスライス。新玉ねぎと紅ショウガの天ぷらもいい。もちろん朝食は、新玉ねぎの味噌汁に、アジの干物、そしてメンタイコ。

今日は、上の娘が横浜のアリーナで行われる成人式に出席する。早いものだ。少し前までは、高校生だったのに、大学に進み、そしてもう二十歳になった。遅い歳の時の子供だったので、小さい頃は一緒にいると、「あら、いいわねぇー。お爺ちゃんと一緒で」。などと言われたものだ。

アリーナのすぐ近くに、着付けをする会場があると言うので、愚妻と共に送って行った。会場近くになると、沢山の和服を着た女性やスーツ姿の新成人にすれ違う。何やら街宣車からのスポット放送が聞こえる。良く見ると、旧知の政友皇志会の宣伝カーである。がなり立てる訳でもなく、耳障りなボリュームでもなく、とてもスマートな街宣で、さすがである。車が混んでいなければ、挨拶に行こうかとも思ったが、とても車を降りる余裕などなく、ガラス窓越しに応援をさせて頂いた。

私が成人式の頃は、文化体育館で行われていた。もちろん、当時はもう仕事をしていたので、出席をしなかった。成人の日は、一月十五日だった。私が二十歳だった昭和四十六年(一九七一年)どんな時代だったのか。

■NHK総合テレビが全番組カラー化を実施 ■『仮面ライダー』放映開始 ■第48代横綱・大鵬が引退表明 ■マクドナルド日本第1号店が銀座にオープン ■アポロ14号、月に着陸 ■阪神の江夏がオールスターゲームで9連続奪三振。

●ベストセラー
■日本人とユダヤ人(イザヤ・ペンダサン著、山本七平訳)■二十歳の原点(高野悦子)■戦争を知らない子供たち(北山修)■冠婚葬祭入門(塩月弥栄子)■青春の道(御木徳近)■誰のために愛するか(曾野綾子)■立ち尽くす明日(柴田翔)

●ヒット曲
1位 わたしの城下町 小柳ルミ子 110.3万 2位 知床旅情 加藤登紀子 102.8万 3位 また逢う日まで 尾崎紀世彦 92.8万 4位 傷だらけの人生 鶴田浩二 77.9万 5位 ナオミの夢 ヘドバとダビデ 66.6万 6位 よこはま・たそがれ 五木ひろし 60.6万 7位 花嫁 はしだのりひことクライマックス 60.5万 8位 雨のバラード 湯原昌幸 55.5万 9位 望郷 森進一 54.5万 10位 さらば恋人 堺 正章 52.9万
■日本レコード大賞:また逢う日まで(尾崎紀世彦)■日本有線大賞:傷だらけの人生(鶴田浩二)■年間アルバム1位:この胸のときめきを(エルヴィス・プレスリー)

と、こんな時代でした。何処で何をしてていたのか、ほとんど記憶がない。前年に三島・森田両烈士が自決して、その事件に影響され、民族派運動を模索していた頃だ。

スマホに、子供の晴れ着姿が送られてきた。感慨無量なり。夜は、家族でどこかで食事をと思ったが、魚幸で、マグロと特大のエビを買い求め、刺身とエビフライを肴に、愚妻と乾杯。モエシャドンを開けた。

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初詣。

2017-01-12 10:46:46 | 日記
一月八日(日)曇り後雨。

初詣。大学のサークルの行事とかで出かけて行った上の子供以外の家族三人で、横浜の総鎮守である伊勢山皇大神宮へ出かけた。この神社は、『関東のお伊勢さま』と親しまれている。明治初年に国費を以て創建された神社であり、神奈川県の宗社、横浜の総鎮守とされている。参拝の後に新しいお札とお守りを買う。本殿に入るすぐ横に、明治三十七、八年の日露戦争に出征した横浜商業高校(Y高の前身)の学生、卒業生の慰霊碑(表忠碑=表忠とは忠義をあらわすという意味)がある。碑の揮毫は乃木将軍である。

参拝を終えた頃には、今にも泣き出しそうな空から雨が降ってきた。慌てて車に戻り、馬車道の「勝烈庵」にてランチ。その後、結露防止のマットや夜の肴を買ってから帰宅。風呂に入ってから、酔狂亭で独酌。

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