スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
奈良記念の決勝。並びは佐々木に山崎,道場‐松井‐郡司の南関東,古性‐三谷‐山本の近畿で皿屋は単騎。
郡司がスタートを取って道場の前受け。4番手に古性,7番手に佐々木,最後尾に皿屋で周回。残り3周のホームから佐々木が上昇。バックで道場が突っ張ったので佐々木は引き,追走しなかった皿屋が7番手になり,8番手に佐々木という一列棒状に。残り2周のホームから道場が全力で駆けていきそのまま打鐘。ホームに戻って古性が動いていくと松井が番手捲り。古性が郡司の外での競りとなりましたが,どうも郡司が下がってきた道場と接触し車体が故障したようで内をずるずると後退してしまい,松井の後ろに古性。直線に入ってから古性が差を詰めにいき,接戦にはなったものの届かず,優勝は松井。マークとなった古性が8分の1車輪差で2着。古性マークの三谷が1車身差で3着。
優勝した神奈川の松井宏佑選手は昨年9月の熊本のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2021年の小田原記念以来となる3勝目。奈良記念は初優勝。このレースは南関東勢の二段駆けが有力で,すんなりそうした展開になってしまえば松井と郡司の優勝争いになるでしょうから,古性がそうはさせまいと分断策に出るだろうと予想していました。僕は古性が前受けして道場が押さえにきたところで松井のところに飛びつくような展開を想定していたのですが,スタートを郡司に譲るような形で南関東の前受けになりましたので,松井は競られにくくなりました。郡司と古性の競りになったのは展開によるものですが,競りは競輪の醍醐味のひとつではあり,郡司と古性のように力がある選手同士だとなおさらなので,車体故障であっさりと決着がついてしまったのは残念な気がします。直線が短いとはいえ楽に古性にマークされることになりましたので,それを振り切った松井は称えてもよいでしょう。
同様のことは共通概念notiones communesを通しての認識cognitioについての場合にも当て嵌まると僕は考えています。
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第二部定理三八系でいわれているように,僕たちの精神mensのうちにはいくつかの共通概念があるのですが,この系Corollariumの証明Demonstratioの様式からすれば,僕たちの精神のうちには,少なくとも延長の属性Extensionis attributumの十全な観念idea adaequataがあるということが帰結しなければならないと僕は考えています。このことについてはかつて検討しましたので,ここでは詳細は省きます。そしてこの延長の属性は神Deusの本性essentiaを構成する属性なのですから,これは神を十全に認識するcognoscereということと同じことであると僕は考えています。したがってこの観点からも,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちには,神の十全な観念が必然的にnecessarioあるということが出てくるという見解opinioを僕は有しているのです。
しかしこの観念が,第一部定義六でいわれている神の観念を余すところなく表現しているかといえば,ぼくはそのようには考えません。これもまた延長の属性によって説明される限りでの神の十全な観念が僕たちの知性intellectusのうちにあるということを意味するのであって,絶対に無限な実体substantiaとしての神,無限に多くのinfinita属性によってその本性を構成される限りでの神の十全な観念が僕たちの精神のうちにあるという意味にはならないと僕は考えるconcipereのです。
何度もいうように,神が絶対に無限な実体であるということ,神の本性が無限に多くの属性によって本性を構成されていなければならないということについては,僕たちは十全に理解するintelligereということを僕は認めます。しかし僕たちの知性のうちにある神の十全な観念は,僕たちがそのように理解している神の観念であるというわけではなく,延長の属性によって説明される限りでの神の観念であるか,そうでなければ延長の属性に対応する思惟の属性Cogitationis attributumによって説明される限りでの神の観念だと僕は考えるということです。そしてここのところを同一視すること,僕の立場からいわせれば混同することには,僕は疑義を有します。つまり僕たちが神を十全に認識するからといって,第一部定義六で定義されている神を余すところなく十全に認識しているということにはならないと僕は考えているのです。
⑲-18の下図で先手が☗2八同玉と馬を取ると,後手は☖3六桂と王手をします。
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先手玉の逃げ場所は3つ。☗3八玉は☖2九龍と取り,☗同玉は頭金。☗3七玉は☖2八龍と引いて☗2七玉の変化に合流します。
その☗2七玉にも☖2九龍と取ります。合駒は無効なので☗3七玉か☗3六玉。☗3七玉が合流の変化でこれは☖2八龍☗3六玉☖2五金で詰み。
☗3六玉と桂馬を取っても☖2五桂☗3七玉☖3八金でやはり詰みです。
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これで分かるように上図から☗3八玉と☗2七玉はわりと簡単に先手玉が詰んで後手の勝ちです。よって上図の先手の最善は☗3七玉になります。
観点に相違があるとはいえ,両立はするのですから,それが何か重大な問題を引き起こすというようには考えなくていいと思います。ただ,現実的に存在する人間が神Deusを十全に認識するcognoscereというとき,それがどのようなあり方をするのかということは,わりと重要なことなのではないかと僕は考えています。
『エチカ』では,現実的に存在する人間は,神を十全に認識することができることになっています。このことはたとえば第五部定理二四でいわれていて,それはその通りだと僕も考えます。ただ,たとえばこの定理Propositioでいえば,個物res singularisの十全な認識cognitioが神の十全な認識に関連付けられているのですから,現実的に存在する人間が神の十全な認識に至るのは,現実的に存在するその人間が個物を十全に認識することを通してということになるでしょう。しかるに現実的に存在する人間が十全に,というか十全にであれ混乱してであれ,認識することができる個物というのは,物体corpusであるかそうでなければ物体の観念ideaであるかのどちらかです。したがって,物体という個物によって説明される限りでの神と,物体の観念という個物によって説明される限りでの神については現実的に存在する人間も十全に認識することになるでしょうが,それ以外の個物,要するに僕たちにとっては未知の属性attributumの個物によって説明される限りでの神は,この限りでは十全に認識されることにはなりません。第五部定理二四は,僕たちにとって未知の属性の個物を例にとって,その属性を対象とした思惟の属性Cogitationis attributumの知性intellectusを対象subjectumとしても,成立することになるだろうと僕は考えるconcipereのです。よってこのようにして現実的に存在する人間が十全に認識している神は,延長の属性Extensionis attributumによって説明される神および延長の属性を対象とした思惟の属性によって説明される限りでの神であって,絶対に無限な実体substantiaとしての神,無限に多くのinfinita属性によってその本性essentiaを構成されている神ではないと僕は考えます。いい換えれば,この定理に示されているような仕方で僕たちが神を十全に認識するということは僕は肯定するaffirmareのですが,だからといってその神は,絶対に無限な実体といわれている神ではないのではないかと僕は考えているのです。
第四部定理六三系証明の過程では,第四部定理六一への訴求がみられます。これは次の定理Propositioです。
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「理性から生ずる欲望は過度になることができない」。
欲望cupiditasというのを一般的に理解するなら,それは第三部諸感情の定義一にあるように,現実的に存在する人間が何らかの仕方であることをなすように決定されると考えられる限りにおいて,人間の現実的本性actualis essentiaそのもののことです。よって理性ratioから欲望が生じる,いい換えれば第三部定理三により,働きをなすagere限りにおいて現実的に存在する人間のうちに欲望が生じるとすれば,第三部定義二により,現実的に存在する人間の本性natura humanaが,一般的な意味における人間の本性から十全に考えられる何らかの事柄をなすように決定されると考えられる限りで,その人間の現実的本性を意味することになります。要するにこの場合は,現実的に存在するある人間の本性と,一般的な人間の本性が一致します。
そこでもしもこのような欲望が過度になり得るのだとしたら,一般的な意味での人間の本性がその人間の本性を超過するということを意味します。過度になるということと超過するということは同じことであるからです。したがってこれは,人間の本性がその本性によって決定されている力potentiaを超越した力を発揮するということを意味します。あるいは実在性realitasというのを力という観点からみた本性であるということに注意すれば,人間に一般の実在性を超過した実在性を人間が有するという意味になります。これらのことは明白に矛盾であるといえるでしょう。したがってもしも現実的に存在するある人間の欲望が,その人間の理性から生じた欲望であったとしたら,その欲望が過度になるということはあり得ないのです。
これは他面からいえば,もしも僕たちの欲望が僕たちの受動passioによって決定されるなら,僕たちの欲望は僕たちの力を超過し得るということを意味します。僕たちはできもしないことを欲望することがありますが,それはすべて僕たちの理性から生じるのではなく,受動によって決定されているのです。
神Deusの本性essentiaは無限に多くのinfinita属性attributumによって構成されます。このこと自体は僕たちも十全に認識し得ることだと僕は考えます。僕たちには認識するcognoscereことができない属性が無限に多くあるということ自体は,僕たちにも十全に認識することができると僕は考えるconcipereからです。なので第一部定義六を,僕たちが十全に認識することができるということを,僕は肯定します。
一方で,僕たちが認識することができるのは延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributum,より正確にいえば延長の属性に対応する思惟の属性だけです。なので僕たちが認識することができるのは,延長の属性において説明される限りでの神であり,また延長の属性に対応する思惟の属性によって説明される限りでの神であるということになります。そしてこの限りにおいて認識される神が,第一部定義六でいわれている神,無限に多くの属性によってその本性を構成されている神であるかといえば,そうではないと僕は考えます。このような仕方で絶対に無限な実在としての神を認識するためには,無限に多くの属性を認識することができる必要があり,それら各々の属性によって説明される限りでの神を認識することによって,第一部定義六に示されている神が十全に認識されると僕は考えるからです。いい換えればこのような仕方では,絶対に無限な実体substantiaとしての神を,僕たちは認識することできないと僕は考えるのです。
このふたつのことは両立すると僕は考えています。僕たちは絶対に無限な実体としての神を,属性によって十全に認識することができないのだとしても,僕たちには認識することができない属性もあるのであり,かつそうした属性もまた神の本性を構成していると十全に認識すること自体は可能だと考えるからです。というのも,僕たちにとっては未知の属性は,延長の属性および延長の属性に対応する思惟の属性とは実在的にrealiter区別されるがゆえに,僕たちはそれを認識することができないということ,いわば僕たちにとってそれが未知となる原因causaを,僕たちは正しく認識することができるからです。
両立はするのですが,このふたつの神の説明の仕方の間には,はっきり観点の相違があると僕は考えます。
5日と6日に立川で指された第74期王将戦七番勝負第三局。
永瀬拓矢九段の先手で角換わり。先手の腰掛銀に対し後手の藤井聡太王将の右玉という戦型になりました。
この将棋はAIの判断と人間的な判断の差が大きく出る一局でした。
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後手はこの局面で☖3六歩と打ちました。囲碁将棋チャンネルのAIによればこの手は疑問手。ここは☖5五歩が最善でそれなら互角。この手によって先手が60-40ほどのリードを奪っていると示しました。
そこから15手ほど進んで下図に。必然の進行ではありませんが,上図で後手が想定していた局面のひとつで,この順を最も深く読んでいたのではないかと推測します。ここまで進んでAIは先手が70-30に近いリードという判断。
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ここで☗6二銀不成☖同金と捨てて☗5一飛と打つのがAI推奨の手順で,これがリードを保つ唯一の手段。ただこの手は人間には思い浮かび難い手で,実戦も時間を残していた先手はさほど時間を使わずに☗4四桂と取っています。しかしこの手だとAIは後手有利を示しました。
下図で☗6二銀不成は浮かびにくいので,後手もこの順に進めたわけですし,先手が逃したのは仕方がないと思います。なので上図での☖3六歩はむしろこの将棋の勝着といえるでしょう。その時点で下図まで読み,そこで☗4四桂なら後手玉が簡単には寄らないということまで読んでいた後手の読みが素晴らしかったと思います。
藤井王将が勝って3連勝。第四局は15日と16日に指される予定です。
神Deusがなければ延長の属性Extensionis attributumはあることも考えるconcipereこともできないということは明白であるとしても,延長の属性がなければ神はあることも考えることもできないということについては,いくらかの疑問をもたれる方がいらっしゃるかもしれません。たとえば思惟の属性Cogitationis attributumは神の本性essentiaを構成するのだから,思惟の属性があれば神はあることも考えることもできるので,別に延長の属性がなかったとしても,神はあることも考えることもできるというようにいうことができそうだからです。しかし実際はそうではありません。なぜそうではないのかということは,ふたつの観点から考えることができます。
まず第一点として,第一部定義六により,神は無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性を構成されるのでなければなりません。よって神があるためには,また神を十全に概念するconcipereためには,無限に多くの属性があるということを十全に概念する必要があるのであって,その無限に多くの属性のどれひとつが欠けても,神はあることも考えることもできないといわなければならないでしょう。そこでもしも延長の属性が神の本性を構成する無限に多くの属性のひとつであったとしたら,それがなければ無限に多くの属性によって本性を構成される神はあることも考えることもできないでしょう。したがって延長の属性がなければ,神はあることも考えることもできないという結論になるのです。
ただし,第二部公理五の意味からして,僕たちが認識するcognoscereことができる属性は,思惟の属性と延長の属性だけである上に,第一部公理五により,ある属性の認識cognitioは他の属性の認識には依存しません。したがって,延長の属性によってありまた考えられる神というのは,無限に多くの属性によって本性を構成される神というよりも,延長の属性によって説明される限りでの神です。こう考えれば,延長の属性がなければ神があることも考えることもできないということは明白でしょう。延長の属性によって説明される限りでの神が,延長の属性なしにあることができるわけはないですし,考えることもできるわけもないからです。
このふたつは実は違った観点を有しているのではないかと僕は思っています。
昨晩の第52回佐賀記念。
逃げる構えを見せたのはメイショウフンジンとグロリアムンディとクラウンプライド。2馬身差でノットゥルノ。5番手にヒロシゲウェーブとシンメデージー。7番手にデルマソトガケ。2馬身差でシルトプレ。3馬身差でタケノサイコウ。2馬身差でサトノスライヴ。2馬身差の最後尾にララエフォールで発馬後の向正面を通過。前はメイショウフンジンの逃げとなり,クラウンプライドが2番手。グロリアムンディが3番手となりました。超スローペース。
3コーナー手前からクラウンプライドは後退。3コーナーではメイショウフンジン,グロリアムンディ,ノットゥルノの3頭が集団になり,4番手にはシンメデージー。直線に入る前にグロリアムンディは苦しくなり,直線入口ではメイショウフンジンがまた単独の先頭。ノットゥルノの外からシンメデージーが追ってきたものの届かず,逃げ切ったメイショウフンジンが優勝。シンメデージーが2馬身差で2着。ノットゥルノがクビ差で3着。
優勝したメイショウフンジンは重賞初勝利。このレースはかなり混戦で上位拮抗とみていましたが,コーナーが6回のレースなので,そのコース形態の適性の差が出るかもしれないと思っていました。重賞は初制覇ですが好走した経験は何度もあり,それは2着馬にも3着馬にも該当するところなので,たぶんその点は結果に影響しただろうと思われます。逃げてペースを落としつつ自由にコースを選択できたことも有利に働いたでしょうから,同じメンバーでも展開次第で次は同じ結果になるというわけではないでしょう。父は第40回を制したホッコータルマエで父仔制覇。
騎乗した酒井学騎手と管理している西園正都調教師は佐賀記念初勝利。
吉田はこのように説明していますが,これは属性attributumという語が一般的に使用される場合の説明なのであって,スピノザの哲学においては該当しません。先回りすることになりますが,なぜ妥当しないのかを僕が説明します。端的にいえば,スピノザの哲学における属性というのは,ある特殊な意味を有しているのです。
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第一部定義四にあるように,属性とは実体substantiaの本性essentiamを構成するもののことをいいます。この定義Definitioは認識論的な観点から記述されていますが,実在論的に解して問題ないということはかつて検討した通りです。第二部定理一と第二部定理二は,明らかに認識論的な観点だけを意味するわけではありません。
次に,第一部定理一四にあるように,自然Naturaのうちに実在する実体は神Deusだけなのですから,実在する属性はすべて神の本性を構成することになります。第一部定義六では,神の本性は無限に多くの属性infinitis attributisによって構成されるといわれていて,実際にはこの定義から実在する実体は神だけであるということが導かれるわけですが,ここではその順序は問いません。属性はそれがどんなものであっても実在的には神の本性を構成するのです。
では本性とは何かといえば,第二部定義二にいわれるように,あるものがなければそれが,逆にそれがなければあるものが,あることも考えるconcipereこともできないようなもののことです。したがって神と属性の関係は,属性がなければ神はあることも考えることもできないものであり,同時に神がなければ属性はあることも考えることもできないという関係を有しています。属性というのは無限に多くあるとされていますが,これはそのうちのどの属性を抽出したとしても成立しなければなりません。たとえば延長の属性Extensionis attributumがなければ神はあることも考えることもできないのですが,神がなければ延長の属性はあることも考えることもできないのです。
延長の属性は神の本性を構成する属性のひとつなので,神がなければ延長の属性があることも考えることもできないのは明白です。延長の属性を認識するcognoscereとは神の本性を認識するという意味だからです。しかしこの延長の属性がなければ,神はあることも考えることもできないのです。
続・谷津の雑感⑨でいわれていることは,整合性は取れています。この証言が真実だとすると,タイガーマスクが素顔の三沢光晴に戻ることを,ザ・グレート・カブキは知っていたということになります。この東京都体育館の試合はテレビ中継が入っていて,放送席で解説を務めていたのがカブキでした。カブキは実況のアナウンサーがそれを指摘する前からタイガーマスクがマスクを取ろうとしていることを指摘していて,これはこのことを事前に知っていたとしか思えないからです。
ただ,これが真相であったとするためには,まだいくつかの条件が揃わなければならないと僕は考えています。しかしインタビュアーは残念ながらこの部分については深く突っ込んでいないので,このことについては谷津の雑感とは別に,僕自身の考え方を示しておきます。
まず谷津は,自分だけでなくカブキもSWSに移籍するということを知っていたといっています。しかしこのことがカブキにだけ妥当するというのは無理があるように僕には思えます。当該の試合はタッグマッチで,三沢というかそのときはタイガーマスクですが,そのパートナーは川田利明でした。谷津はその対戦相手で,谷津のパートナーはサムソン・冬木だったのです。この冬木はやはり後にSWSに移籍しました。カブキが移籍することだけを知っていて冬木が移籍することを谷津が知らなかったとは僕には思えません。そして冬木に限らず,さらに多くの選手がSWSに移籍しているわけで,そうした選手については谷津はたぶんすべて知っていた筈だと僕は考えます。そしてこのことは谷津が知っていてカブキは知らなかったとするのも無理があるといえるでしょうから,この日に全日本プロレスのリング上で仕事をして,後にSWSに移籍する選手の間では,だれが移籍するのかということの情報は共有されていたと僕は考えます。移籍の時期はそれぞれの選手で若干のずれが生じたのですが,カブキは時期としては遅かったですから,そのカブキの移籍がすでに谷津に知られていたということは,移籍選手の間での情報の共有はなされていたと解するのがやはり自然であるように思えるのです。
前もっていっておいたように,その存在existentiaに本性essentiaが含まれていないもの,すなわち自己原因causa suiではないものが存在することの不可思議さにスピノザは注目したと吉田はみています。この問題意識はデカルトRené Descartesにも共有されていたのだと吉田はみているのですが,デカルトがそうしたように,この世界が存在することの不可思議さを神Deusの自由意志voluntas liberaによる創造という形で解決しようとはスピノザはしませんでした。スピノザにとっての世界は,あるいは世界を構成する諸々の個物res singularisは,それが神という実体の変状substantiae affectioであるがゆえに,すなわち様態modiであるがゆえに存在するのです。再び第一部定理二五系に着目すれば,この世界に現実的に存在する個物はすべて様態なのですが,そのこと自体が様態がこの世界に現実的に存在する理由にもなっているのだと吉田はいっているわけです。なぜそのこと自体が理由になり得るのかといえば,この系Corollariumでは,様態は神の属性Dei attributaを一定の仕方で表現するexprimunturといわれているからです。
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属性は第一部定義四により,実体substantiaの本性essentiamを構成するもののことをいうのですが,吉田はこれをやや変わった仕方で説明しています。もっとも,吉田は実体を説明するときもネコを実例としてあげていたわけですから,基本的に吉田はスピノザの哲学を講義の中で説明するときには,そういう方法を採用しているといってもいいでしょう。たぶん吉田は学生に対してスピノザの哲学を講義するときには,そのような方法を採用するのがよいと考えているのでしょう。
一般的には,何かがあるとして,その何かに属しているもののうちその属しているものがなくなってしまうとそれが何であるかを規定できなくなってしまうとき,そうしたものが属性といわれることになります。たとえば性的なフェティシズム,吉田はここでは眼鏡を例に挙げていますのでそれに倣いますが,眼鏡をかけている人に対して特殊な性的嗜好を有している人は,その眼鏡がなくなってしまうとその性的嗜好自体が消滅してしまいます。なのでこの人は性的に眼鏡属性を有しているということになるのです。属性という語は現にこのような使われ方をすることがあると思いますが,これは意外と忠実な用法なのです。
高知から1頭が遠征してきた川崎記念トライアルの第61回報知オールスターカップ。
発馬後はランリョウオー,ヘラルドバローズ,ヒーローコール,ライトウォーリアの4頭が並びその後ろにキャッスルブレイヴ,プラセボ,シシュフォス,ジョエルの4頭。この後ろは6馬身ほど離れてデルマルーヴルとマンガン。テンカハルがその直後。3馬身差でペルマナントとゲンパチハマジ。2馬身差の最後尾にドスハーツ。前の4頭からヒーローコールが前に出て単独の逃げとなり,ライトウォーリアが2番手。3番手となったランリョウオーの外に,2列目にいたプラセボが並んで1周目の正面を通過。超ハイペースでした。
単独の先頭に立った後,ヒーローコールのリードは1馬身から2馬身の間で終始。3コーナーでは1馬身くらいになり直線の入口ではライトウォーリアがほぼ並びました。ライトウォーリアがやや外に出たので,直線は離れた2頭の競り合い。どちらも一杯になっていましたが,ヒーローコールが逃げ切って優勝。ライトウォーリアが半馬身差で2着。これ以外の前にいた馬は直線入口の時点ですでに離れ気味。中団から外を追い込んだテンカハルが4馬身差で3着。
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優勝したヒーローコールは一昨年の戸塚記念以来の勝利で南関東重賞5勝目。年上の世代と対戦するようになってからは勝てていませんでしたが,それなりに安定した成績を残していました。ここは無理にでも先手を奪ったのが勝因で,現状はスタミナ勝負にした方が好走しやすいということなのだと思います。父はホッコータルマエ。フロリースカップ系サンマリノの分枝で,母の2つ上の半兄に2001年の函館2歳ステークスを勝ったサダムブルースカイ。
騎乗したJRAの内田博幸騎手は2010年の羽田盃以来となる南関東重賞制覇。第38回,42回を制していて報知オールスターカップは3勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞71勝目。報知オールスターカップは初勝利。
それでは吉田の論考に戻ります。
第一部公理一の意味は,自然Naturaのうちに存在するものは実体substantiaであるか,そうでなければ実体の変状substantiae affectioすなわち様態modiであるかのどちらかであるということです。しかるに第一部定理一四により,自然のうちに実在する実体は神Deusだけなのですから,自然のうちに存在する神以外のものはすべからく様態であるということになります。ですからネコもイヌもウマもすべて様態であるというのがスピノザの考え方です。そして様態というのは実体の変状,すなわち神の変状ですから,ネコというのは神がネコのようなあり方をとった状態,あるいは同じことですが,ネコのような状態をとった神であるということになります。吉田のいい方に倣えば,ネコとはネコモードの神であるということになります。
当然ながらこのことはネコにだけ限定していえることではありません。この世界を構成している諸々の個物res singularisは,それが生物であろうと無生物であろうと同じように神である実体の様態として存在していることになります。これは第一部定理二五系でいわれていることです。吉田はこのような考え方をすることで,スピノザは世界そのものの存在論的な意味での位置づけを大きく変更したといっています。ことのついでですから,この点についてもみていくことにします。
ユダヤ教あるいはキリスト教的な位置づけ,あるいはデカルトRené Descartesもそれに倣っているといえる神と個物の位置づけ,これは何度も繰り返すようですが創造主creaturaと被造物creatorという位置づけですが,創造主の意志voluntasによって被造物が産出されるという発想は,世界の存在existentiaの恣意的な性格が強調されることになると吉田はいいます。これはデカルトが採用した連続創造説のことを思い出せば明白であるといえるでしょう。この発想だと,そもそもこの世界は存在しなかったということもあり得たし,またいつなくなってしまったとしてもおかしくなかったのだけれども,神がその気になったことによりこの世界は産出されることになったし,また今もその気になっていることによって現にこの世界が存在し続けているということになるからです。この場合,潜在的には世界の存在は余計なものになります。
作家の目的は『道草』を対象とした対話の中で出てきたのですが,『道草』についてはこのブログで詳しく紹介したことがありませんでしたので,この機会に取り上げておきます。
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『道草』の主人公は大学教師の健三。遠いところから帰ってきたとされていて,これはかつて海外に留学していたことを意味します。健三にはお住という妻がいて,この夫婦の日々の生活が語られます。ですから基本的にダイナミックなドラマはほとんどありません。強いていえばかつて健三の養父であった島田という男が現れ,金の無心をするようになったということが,この物語の中では最も大きな出来事といえるでしょう。このための金策に健三夫婦は悩まされるのですが,最終的に健三が島田に100円を渡すことで,絶縁することになります。これが物語の最後の方で,プロットとしては最も大きなものといえるかもしれません。
イギリスという国名が出てくるわけではありませんが,明らかにそれと分かる仕方で海外留学を経験した後で大学教授を務めていたこと,そして実際に養子に出されていた経験があり,かつての養父から半ば恐喝のような仕方で金を無心されていたということからして,健三にははっきりとしたモデルがいるといえ,それは漱石自身です。ただし,『道草』は『こころ』の後,未完のまま終了してしまった『明暗』の前に書かれた小説ですから,『道草』を書いている当時の漱石がモデルになっているというわけではなく,それよりも前の漱石がモデルとなっているというべきでしょう。つまり年齢を重ねた漱石が,まだ若かった頃の自分自身をモデルとして小説を書いたということになります。
漱石がどういう意図で若かりし頃の自分自身をモデルとして小説を書こうと決意したのかは,僕にはよく分かりません。ただこのような事情があるので『道草』というのはほかの漱石の小説と比べて異質なところがあります。実生活ではそれほどドラマティックな出来事というのは起こらないわけで,それはストーリーの内容についてもいえることです。
もうひとつ,『エチカ』で直接的に言及されていることとの関係でいうと,第二部定理四〇備考一で,スピノザが超越的名辞termini transcendentalesおよび一般的概念notiones universalesについて語っている部分を指摘しておく必要があるでしょう。スピノザはそこで超越的名辞として有esse,物,ある物の3種類,一般的概念として人間,馬,犬の3種類をあげていますので,吉田による実体substantiaの考察に関しては,一般的概念がより関係するのですが,スピノザは超越的名辞も一般的概念も,僕たちの知性intellectusのうちに生じる原因causaは同一とみていますので,ここではどちらも,あるいは同じことですがその両方が実体と関係しているし,もっといえばイデアideaとも関係しているということができるでしょう。つまりこの部分では,イデア論がなぜ発生してくるかということの説明もされていると解して,そう大きな間違いはないだろうと僕は考えています。
スピノザの説明はごく単純なものです。
「人間身体は限定されたものであるから自らのうちに一定数の表象像しか同時に判然と形成することができないということから生ずる」。
人間の身体humanum corpusは,そしてその観念ideaである人間の精神mens humanaは,有限finitumであるがゆえに,無限に多くのinfinita表象像imaginesを形成することはできません。そこでその限界を超過してしまうと,事物を明瞭判然と認識するcognoscereことができなくなるので,いくつかの表象像のうちに一致点を見出し,その一致点を有するものについて,あるものを人間といい,またあるものを馬といい,またあるものを犬というような仕方で,これらの概念が発生してくることになるのです。
なおスピノザはこれが原因のすべてであるといっているわけではありません。原因のひとつです。ただ重要なのは,これらが表象像という混乱した観念idea inadaequataを基礎としている上に,いくつかの混乱した観念をさらにまとめているがゆえに,ますます混乱したものとなっているということです。したがってもし実体がこのような仕方で規定されるなら,そうした実体はきわめて混乱したものとして僕たちには認識されているといわなければならないのです。これは,事物は一般的に認識されるほど混乱し,個別に認識されるほど明瞭判然とすることの理由でもあります。
高知市文化プラザかるぽーとで指された昨日の第50期棋王戦五番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太棋王が6勝,増田康宏八段が1勝。
振駒で藤井棋王の先手となり角換わり。後手の増田八段が早めに6筋の位を取ったので,腰掛銀になる前に先手から仕掛けていく将棋に。中盤は後手から攻めのタイミングを窺う展開になりましたので,作戦としては後手の方が成功していたように感じられました。
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ここで後手は☖8七歩と垂らしました。先手は☗3九飛と寄りましたが,これが後手の想定にはなかったようです。
後手から狙いの攻め筋として,☖4四飛があります。☗同角☖同角で9九の香車を狙うというもの。また☖4四飛に☗同角と取らないなら,☖4七飛成~☖3八銀があります。ただ☗3九飛と寄られると,後者の筋は封じられている上に,前者の筋も☗3一飛という反撃筋を与えているため,この図ですぐに☖4四飛とするより後手の条件が悪くなっています。なので後手はその筋を指さずに受けに回ったのですが,実戦の変化は先手に分があるものでした。なので後手は図の局面かその前の段階で☖4四飛を決行しておかなければならなかっということになるでしょう。
藤井棋王が先勝。第二局は22日に指される予定です。
第一部定義三が実体substantiaの要件を構成するとするなら,実体であり得るものは,他に原因causaを依存して存在するものであってはなりませんし,それを認識するcognoscereために他に原因を依存するものであってはなりません。つまりそれ自身の原因がそれ自身でなければなりませんし,それを概念するconcipereために必要とするのもそれ自身の観念ideaだけでなければなりません。そしてこの要件を満たし得るのは神Deusだけです。なのでスピノザの哲学では,第一部定理一四にあるように,実在する実体は神だけであるということになるのです。
ではこの考察で実体として仮定していたネコは何なのかということが問題になるでしょう。吉田の講義ではこれをスピノザの哲学とだけ関連させて説明していますので,ここではその点をもう少し詳しく説明していきます。
まずこの種の実体に最も近い哲学上の概念として僕が思いつくのは,イデアideaといわれるものです。イデア論はプラトンPlatoが主張した学説で,古い歴史を有します。簡単にいえば,この世界において実在的なものをイデアと称し,僕たちが知覚するpercipereものはイデアに似たものだとする考え方です。ネコの例でいえば,ネコというイデアが実在していて,僕たちは諸々のネコを知覚するけれど,それはすべてネコというイデアの似た姿を有しているからで,そのイデアの似姿をしているもののことを僕たちはすべからくネコと称するとする説です。このように考えれば,ネコという実体があって,個々のネコはその実体であるネコの変状affectio,すなわち様態modiであるというように解することができるでしょう。そしてこれはネコにだけ妥当するわけではなく,イヌであろうとウマであろうと妥当することになりますから,この種のイデア論は,確かにネコを,あるいはイヌそしてウマを,実体として規定しているとみることができると思います。
この種のイデア論は,イデアそのものの認識cognitioが真の認識であるということを結論として導かざるを得なくなるので,事物は一般的に認識される方がより明瞭判然と認識されることになります。この点はスピノザの考え方と正反対です。よってこの種のイデア論は,スピノザの哲学とはきわめて相性が悪いことになります。
高松記念の決勝。並びは郡司‐松谷‐福田の神奈川,田中に成田,犬伏‐島川‐香川の四国に坂本。
成田がスタートを取って田中の前受け。3番手に犬伏,7番手に郡司で周回。残り2周のホームの入口から郡司が上昇。犬伏が合わせなかったので郡司は成田の後ろに。3番手が郡司,6番手に犬伏という一列棒状で打鐘になりました。ここから犬伏が発進。郡司が合わせようとしましたが,外から犬伏が前に。松谷の牽制を受けた島川がやや離れ,バックに入って郡司も島川を大きく牽制。これで郡司が犬伏を追うことになり,郡司の動きに松谷が離れたので,成田が郡司の後ろにスイッチ。バックではかなり車間が開いていたのですが,直線に向けて徐々に差が詰まり,差し切った郡司が優勝。マークになった成田が半車身差の2着。バック先頭の犬伏が4分の3車身差で3着。
優勝した神奈川の郡司浩平選手は松阪記念からの連続優勝で記念競輪22勝目。高松記念は初優勝ですが,2017年のウィナーズカップを当地で制しています。このレースは郡司の脚力が上なので,逃げなければならないような展開にならない限りは勝てるのではないかと思っていました。田中の前受けというのは意外な展開だったと思うのですが,後方から動いて無理なく3番手に入れたのが大きかったです。それでも犬伏には一旦は出られてしまったわけで,完勝といえるような内容ではなったのも事実ではないでしょうか。
様態modiという語の元来の意味は,大きさとか尺度であったそうです。これが転じてもっと広きにわたるようになり,ものごとの定まったあり方や性質,状態などを意味するようになったと吉田は説明しています。このラテン語から容易に推測できるように,これはモードの語源なので,哲学で様態といわれるときは,モードと訳した方が,現代の僕たちには分かりやすいのではないかと吉田は提案しています。つまり黒猫が歩いているというのは,ネコという実体substantiaに,黒という色のモード,歩くという動作のモードがあるということで,黒毛のモードのネコが歩行というモードに入っていると理解するということです。スピノザ自身がいっているように,事物は十全に観念されることが重要なのであって,ことばによってどう表現されるのかに重要な意味があるわけではありません。なのでこの方が理解が容易であるというのなら,そう理解した方がよいだろうと僕も思います。
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とはいえ,スピノザの哲学における実体とか様態といったものが,ここまで説明してきたように規定されているわけではないということは,よほどの初心者でない限りは心得ているところでしょう。ネコの実体とかイヌの実体などというのは,実体という語句の説明のためには無益ではないかもしれませんが,実際にスピノザがそういう実体を想定しているわけではありません。第一部定義三でいわれているように,実体というのはそれ自身のうちにあり,かつそれ自身によって概念されなければならないのであって,ネコとかイヌとかいったものは,その定義Definitioからは外れることになるからです。そしてここが重要なところですが,このことが意味するのは,第一部定義三のような仕方で実体を定義するのであれば,一般に実体として考えられているようなものはすべて,すべてがいいすぎならほとんどは,実体ではないということになるということです。といのも,もしそれがそれ自身のうちにあってそれ自身によって考えられるなら,そのものは存在するために自分以外のものは不要ですし,それを概念するために別の概念notioを必要としないでしょう。いい換えれば一切の外部を必要としないことになるでしょう。