大津びわこ競輪場の廃止に伴い,グリードーム前橋での開催となった第62回高松宮記念杯競輪は2日に開幕,昨日が決勝でした。並びは佐藤-伏見の北日本,武田-後閑の関東,深谷-山口の中部,稲垣-村上の京都で小倉が単騎。
Sを取ったのは伏見で佐藤の前受け。武田が3番手で小倉が続き,6番手に深谷,8番手から稲垣で周回。残り2周半になるあたりから稲垣が上昇。すぐには前まで行かず,打鐘前のバックにかけて深谷に蓋をしてから打鐘で佐藤を叩いて先行態勢に。深谷も追う構えでしたが3番手は佐藤が確保。その後ろで武田と深谷がもつれるようになり,深谷は強引にホームから再び発進。山口が離れ単騎となり,村上も牽制しましたがその上を行ききりました。併せられなかった村上が深谷を追いましたが,結局はゴールまで追いつくことができず,深谷の優勝。村上が2着で,コーナーで浮いた佐藤から村上に切り替えるような形で伏見が3着。
優勝した愛知の深谷知広選手は昨年暮れのヤンググランプリ以来のビッグ2勝目。今年は立川記念を制しました。そのときに,いずれはこの選手の時代が間違いなくやってくると確信しましたが,早々にGⅠ制覇を成し遂げてくれました。この1勝で完全に深谷時代に突入したとはいえないかもしれませんが,今後の競輪界は,深谷選手に対してこれまでのトップレーサーたちがどのように対抗してくるかというのが最大の争点となってくるのではないでしょうか。
さらにもうひとつ,僕の仮説を正確に理解してもらうための注意点を上げておきましょう。
僕はたとえば第二部定義一でスピノザが示しているような事柄に関しては,共通概念としてどんな人間の精神のうちにも十全な観念としてあると考えています。そしてこれ自体は,第二部定理三八系からして,スピノザも同様であろうと思います。しかし,このことは,現実的に存在するある物体に関して,その十全な観念が人間の精神のうちにあるということとは,はっきりと異なることなのだと思うのです。
スピノザの哲学では,事物の定義というのは,その事物の本性と発生とを含んでいなければならないということになっています。そして,これについてはここでは詳しくは説明しませんが,第二部定義一というのもその条件を満たしていると僕は考えています。しかしこのことは,たとえば物体Aが現実的に存在するとき,その本性と発生を,とくに発生というのを正確に示しているとは僕は考えません。というのは,個物の現実的な意味での発生というのは,その個物自身の本性には含まれません。したがってこれを延長の個物に限定して一般的にいうならば,物体が現実的に存在するようになる原因というのは,物体の本性,すなわち第二部定義一のうちに含まれているわけではないということになるからです。これは第一部定義一からして,この主張は物体が自己原因であるといっているのに等しくなりますから当然でしょう。この定義のうちに示されている物体の発生というのは,物体が神の延長の属性の有限様態であるということにより,第一部定理一六からして無限に多くの物体が実在的なものでなければならないという意味であって,ある物体が現実的に実在するという意味ではないと考えるのです。
むしろある個物が現実的に存在することの原因というのは,第一部定理二八の様式において説明されなければなりません。いい換えれば,ある個物についてその十全な観念がある知性のうちにあるというのは,その個物について第一部定理二八の様式が十全に認識されているという意味でなくてはならず,第二部定義一で示されていることが十全に認識されているというだけでは不十分だと思います。よって,ある知性によって第二部定義一が十全に認識されることと,たとえば現実的に存在する物体Aが十全に認識されることの間には,大きな隔たりがあると思います。
Sを取ったのは伏見で佐藤の前受け。武田が3番手で小倉が続き,6番手に深谷,8番手から稲垣で周回。残り2周半になるあたりから稲垣が上昇。すぐには前まで行かず,打鐘前のバックにかけて深谷に蓋をしてから打鐘で佐藤を叩いて先行態勢に。深谷も追う構えでしたが3番手は佐藤が確保。その後ろで武田と深谷がもつれるようになり,深谷は強引にホームから再び発進。山口が離れ単騎となり,村上も牽制しましたがその上を行ききりました。併せられなかった村上が深谷を追いましたが,結局はゴールまで追いつくことができず,深谷の優勝。村上が2着で,コーナーで浮いた佐藤から村上に切り替えるような形で伏見が3着。
優勝した愛知の深谷知広選手は昨年暮れのヤンググランプリ以来のビッグ2勝目。今年は立川記念を制しました。そのときに,いずれはこの選手の時代が間違いなくやってくると確信しましたが,早々にGⅠ制覇を成し遂げてくれました。この1勝で完全に深谷時代に突入したとはいえないかもしれませんが,今後の競輪界は,深谷選手に対してこれまでのトップレーサーたちがどのように対抗してくるかというのが最大の争点となってくるのではないでしょうか。
さらにもうひとつ,僕の仮説を正確に理解してもらうための注意点を上げておきましょう。
僕はたとえば第二部定義一でスピノザが示しているような事柄に関しては,共通概念としてどんな人間の精神のうちにも十全な観念としてあると考えています。そしてこれ自体は,第二部定理三八系からして,スピノザも同様であろうと思います。しかし,このことは,現実的に存在するある物体に関して,その十全な観念が人間の精神のうちにあるということとは,はっきりと異なることなのだと思うのです。
スピノザの哲学では,事物の定義というのは,その事物の本性と発生とを含んでいなければならないということになっています。そして,これについてはここでは詳しくは説明しませんが,第二部定義一というのもその条件を満たしていると僕は考えています。しかしこのことは,たとえば物体Aが現実的に存在するとき,その本性と発生を,とくに発生というのを正確に示しているとは僕は考えません。というのは,個物の現実的な意味での発生というのは,その個物自身の本性には含まれません。したがってこれを延長の個物に限定して一般的にいうならば,物体が現実的に存在するようになる原因というのは,物体の本性,すなわち第二部定義一のうちに含まれているわけではないということになるからです。これは第一部定義一からして,この主張は物体が自己原因であるといっているのに等しくなりますから当然でしょう。この定義のうちに示されている物体の発生というのは,物体が神の延長の属性の有限様態であるということにより,第一部定理一六からして無限に多くの物体が実在的なものでなければならないという意味であって,ある物体が現実的に実在するという意味ではないと考えるのです。
むしろある個物が現実的に存在することの原因というのは,第一部定理二八の様式において説明されなければなりません。いい換えれば,ある個物についてその十全な観念がある知性のうちにあるというのは,その個物について第一部定理二八の様式が十全に認識されているという意味でなくてはならず,第二部定義一で示されていることが十全に認識されているというだけでは不十分だと思います。よって,ある知性によって第二部定義一が十全に認識されることと,たとえば現実的に存在する物体Aが十全に認識されることの間には,大きな隔たりがあると思います。