昨年と同一カードとなった第82期棋聖戦五番勝負の第一局。対戦成績は羽生善治棋聖が32勝,深浦康市九段が27勝。
振駒で深浦九段の先手。変則的な出だしからの矢倉模様に進みましたが羽生棋聖が中飛車からカニカニ銀。後手が中央から動いて銀交換から金銀交換,その金銀を打って飛車を取る間に先手は馬を作るという中盤の戦い。今日は観戦できませんでしたので,終盤近辺からひとつだけ。
ここはもう先手が苦しいかもしれないのですが,ここで▲6五歩と突いて飛車を捕獲しにいきました。後手は△7五歩と横を通し先手は▲5五馬。先手が△5四歩と打ったのに対して▲8二馬と逃げました。次に飛車を取る狙いは残りましたが,△7六歩と取り込まれましたから,まるまる2手くらい損してしまったような感じを受けます。この局面でこの指し方はどうだったのかと疑問が残りました。先手も狙い通りに飛車は取れたのですが後手の一手勝ちに終っています。
羽生棋聖が先勝。第二局は25日です。
もちろんスピノザ自身は,人間の精神を代表とするような有限知性が,それが認識し得るような属性を表象するということはない,あるいは混乱して認識することはないということを明言しているわけではありません。そのような言及は,『エチカ』のどこをどう探しても発見することが僕にはできません。だから僕がここまで考察し続けてきたことは,あくまでも仮説の域にとどまるということになります。ただ一方で,有限な知性が自身が認識し得るような属性について,それを表象したり混乱して認識することについて,それを可能とするような要素が『エチカ』の中には見当たらないというのも事実ではあると思います。比喩としてはあまり適切とはいえないかもしれませんが,犯罪の捜査にたとえていうならば,状況証拠は揃っているけれども,決定的証拠が見つからないといったところでしょうか。疑わしきは罰せずという規則ではありませんが,やはりこれはあくまでも仮説であるとして,この部分の考察についてはここで一区切りをつけるということにします。
ところで,もしもこの仮説が正しいものであるとしたら,第一部定義四の認識論と実在論の問題に対してドゥルーズが示したような態度,すなわちスピノザの哲学における知性というのは実在するものだけを認識するのであるから,認識論的にしか読解できないような第一部定義四を実在論的に読み替えたとしても何の問題もないとして,この問題自体を一蹴してしまうような態度は,実は正当なものであるということになります。というのは,人間の知性ないしは有限な知性というのが,事物を混乱して認識する,なかんずく表象するということがあるということは,『エチカ』においてはまったく否定することができないですが,こと属性に関しての認識だけに限定した場合には,確かにドゥルーズのいっていることが正しいということになるからです。したがって,有限知性が全般に実在的なものだけを認識するという点に関しては僕は否定しますけれども,第一部定義四を実在論的に解釈するという点だけに限定するのであれば,もちろん仮説が正しければという前提はあくまでも必要ですが,この読み替えが可能であり,よって問題自体を一蹴することができるということについて,僕も同意します。
振駒で深浦九段の先手。変則的な出だしからの矢倉模様に進みましたが羽生棋聖が中飛車からカニカニ銀。後手が中央から動いて銀交換から金銀交換,その金銀を打って飛車を取る間に先手は馬を作るという中盤の戦い。今日は観戦できませんでしたので,終盤近辺からひとつだけ。
ここはもう先手が苦しいかもしれないのですが,ここで▲6五歩と突いて飛車を捕獲しにいきました。後手は△7五歩と横を通し先手は▲5五馬。先手が△5四歩と打ったのに対して▲8二馬と逃げました。次に飛車を取る狙いは残りましたが,△7六歩と取り込まれましたから,まるまる2手くらい損してしまったような感じを受けます。この局面でこの指し方はどうだったのかと疑問が残りました。先手も狙い通りに飛車は取れたのですが後手の一手勝ちに終っています。
羽生棋聖が先勝。第二局は25日です。
もちろんスピノザ自身は,人間の精神を代表とするような有限知性が,それが認識し得るような属性を表象するということはない,あるいは混乱して認識することはないということを明言しているわけではありません。そのような言及は,『エチカ』のどこをどう探しても発見することが僕にはできません。だから僕がここまで考察し続けてきたことは,あくまでも仮説の域にとどまるということになります。ただ一方で,有限な知性が自身が認識し得るような属性について,それを表象したり混乱して認識することについて,それを可能とするような要素が『エチカ』の中には見当たらないというのも事実ではあると思います。比喩としてはあまり適切とはいえないかもしれませんが,犯罪の捜査にたとえていうならば,状況証拠は揃っているけれども,決定的証拠が見つからないといったところでしょうか。疑わしきは罰せずという規則ではありませんが,やはりこれはあくまでも仮説であるとして,この部分の考察についてはここで一区切りをつけるということにします。
ところで,もしもこの仮説が正しいものであるとしたら,第一部定義四の認識論と実在論の問題に対してドゥルーズが示したような態度,すなわちスピノザの哲学における知性というのは実在するものだけを認識するのであるから,認識論的にしか読解できないような第一部定義四を実在論的に読み替えたとしても何の問題もないとして,この問題自体を一蹴してしまうような態度は,実は正当なものであるということになります。というのは,人間の知性ないしは有限な知性というのが,事物を混乱して認識する,なかんずく表象するということがあるということは,『エチカ』においてはまったく否定することができないですが,こと属性に関しての認識だけに限定した場合には,確かにドゥルーズのいっていることが正しいということになるからです。したがって,有限知性が全般に実在的なものだけを認識するという点に関しては僕は否定しますけれども,第一部定義四を実在論的に解釈するという点だけに限定するのであれば,もちろん仮説が正しければという前提はあくまでも必要ですが,この読み替えが可能であり,よって問題自体を一蹴することができるということについて,僕も同意します。