スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

和田京平の回顧&想起の前提

2011-06-10 18:39:55 | NOAH
 全日本プロレスの創成期からのスタッフで,後にチーフレフェリーも務めることになる和田京平さんは,『読む全日本プロレス』という著書の中で,アラビアの怪人黒い呪術師についてもいくらか触れています。
                         
 それによれば,ふたりは性格的にはかなり違っていたとのこと。試合の中ではシークの方が冷静で,ブッチャーはときに手がつけられなくなることもあり,レフェリーとしてはブッチャーの方が怖かったそうです。
 僕はシークについては,相手の技を受けるようなところがなく,プロレスラーとしては大きな不満を感じていました。和田レフェリーによれば,そもそもシークというのは観客のことなどははじめから考えていないし,勝負に対するこだわりもなかったとのこと。つまり反則負けになるならばそれで構わないし,それで全日本プロレスに呼ばれなくなったとしてもそれはそれで構わないくらいに考えていたようです。だからああいった試合スタイルになったのでしょう。和田レフェリーはシークの試合はシーク自身のマスターベーションであったと回顧していますが,なるほどこれはなかなかいい得て妙だと思いました。
 このような考え方だったからでしょう,シークは試合の中でも抑制すべきところは抑制していたようです。確かによく考えてみると,シークがレフェリーに対して過度な暴行をふるうというシーンはあまりなかったかもしれません。少なくともブッチャーに比べれば確かに少なかったと思います。そういう意味でいえば,真相はシーク自身が発案したストーリーではあったわけですが,ブッチャーと仲間割れをした後の遺恨決着戦で,実況アナウンサーを襲ったというシーンは,むしろレアケースに属するかもしれません。あまりに強烈なエピソードなので,シークの印象を強く決定づけているかもしれませんが,本当のシークというのはそういうイメージとは実際には違ったプロレスラーであったようです。

 属性の場合にも,例として示したリンゴの場合のような同一の表象が生じるのであれば,属性ということばによる表象は,属性の混乱した認識であるということになります。しかし僕は,属性の場合にはこれと同じことが生じ得ない,あるいはそこまではいわないとしても,生じるとは考えづらいと思っています。
 以前に人間の身体のうちに生じたことと同一の運動が後に人間の身体のうちにまた生じるためには,当たり前のことですがその運動が以前に生じているということが前提となります。これを僕が考えている表象の種類と関連させていうならば,人間の精神がある事物ないしは事象を想起するためには,それ以前に想起されるその内容について経験していなければならないという意味になります。未経験の事柄を想起できるわけもありませんからこれもきわめて当然のことでしょう。そこでかつて果物のリンゴを知覚し,それがリンゴという名前で呼ばれることを知っている人間は,後にただリンゴということばに刺激されるだけで,その人間の現前には実在していないリンゴのことを,あたかも現実的に存在すると表象するようになるでしょう。というか,必ずそうであるとはいえないかもしれませんが,そうしたことは生じ得ます。これがリンゴの想起であって,この想起はその人間の身体の運動という観点から,以前のリンゴの知覚と同一の表象であるといえるわけです。
 ところが,人間はリンゴを知覚するようには思惟および延長の属性については知覚しないのではないかというのが僕の仮説のそもそもの主旨となっています。というのは,リンゴについては第二部定理一七の様式で人間はリンゴを表象しますし,これはあらゆる物体について,またそうした物体の観念についても同様です。ところがそこで示されているような様式が人間に生じるときには,人間は思惟ないしは延長の属性に関しては,むしろそれを表象するのではなく,共通概念として十全に認識するであろうというのが僕の結論なのです。だから属性ということばによって人間が何事かを表象するということはあり得ると僕は認めますが,それが属性の想起であるというようには考えられません。よってこの観点からも,人間が属性を混乱して認識するということはないのではないかと思えるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする