スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第四部定理五六備考&固有性

2016-08-08 19:05:20 | 哲学
 第四部定理五七備考では,自卑的な人間が高慢な人間に最も近いとされています。そしてスピノザはそこで,自卑的な人間が他者に対してどういう態度で挑むのかということも例示していました。それは,やり方は別であったとしても,高慢な人間が迷惑な存在であるのと同様に,自卑的な人間もやはり迷惑な存在なのであるということを示そうという意図がスピノザにはあったのだと僕は考えています。
                                     
 ですが,高慢な人間と自卑的な人間の間には,それを矯正するという意味においては歴然とした差があります。そのことは第四部定理五六備考のうちに示されています。
 「しかし自卑は高慢よりも容易に矯正されうる」。
 高慢な人間も自卑的な人間も,自分自身を正当に評価しない,評価できていないという共通点があります。この点において第四部定理五五にあるように,高慢な人間も自卑的な人間も自分自身について無知な人間であるといえます。しかし高慢という無知よりは,自卑という無知の方がまだ矯正しやすいとスピノザはいっているのです。
 第三部諸感情の定義二八にあるように,高慢とは自己愛という喜びの一種です。そして第三部諸感情の定義二九にあるように,自卑は悲しみの一種です。しかるに現実的に存在する人間は,第三部定理一二にあるように喜びを希求し,第三部定理一三にあるように悲しみは忌避する傾向があります。ここから分かるように,ある人間が高慢という感情に固執するということがあったとしたら,それは人間の現実的本性actualis essentiaには合致していることになります。ですが自卑という感情に固執することは,人間の現実的本性にはむしろ相反していることになります。ですから同じ強度の高慢と自卑があると仮定すれば,それが現実的本性に反する分だけ,自卑の方が矯正されやすいということになるのです。
 第四部定理七から,自卑を抑制し得るのはそれと相反する感情です。高慢に相反する感情よりも自卑に相反する感情の方が生じやすいというのが,自卑は高慢より矯正されやすいということの具体的な意味といえます。

 『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』における定義論では,まず一般的な定義の条件があげられています。それは定義が完全であるといわれるためには,定義される事物の内的本性が明らかにされていなければならないということです。内的本性,実際の記述は内的本質ですが,この場合の内的ということが何を意味するのかは僕には不明です。しかしもしもその点を棚上げしてよいのであれば,ここでいわれていることは第一部定理八備考二でいわれていることと同じであると解してよいでしょう。
 ただし,スピノザはこの部分ではさらなる説明を与えています。それは事物の内的本性ではなくある固有性をもって定義されてはならないということです。
 ここでスピノザが固有性というとき,たとえば定義命題がAはBであるなら,AとBとが一対一で対応し合う場合を念頭に置いていると僕は解します。つまり事物とその事物の本性は一対一で対応し合うのですが,ある事物と一対一で対応し合う事柄は必ずしもその事物の本性でだけではないということをスピノザはここでいっているのだと解します。他面からいうなら,AはBであるという命題においてAとBが一対一で対応し合うというだけでは,それはAにとってのよい定義,完全な定義であるとはいえないということをスピノザはいおうとしていると解するのです。
 『スピノザ哲学研究』では,平面上の三角形は内角の和が二直角の図形であるという命題があるとき,三角形と内角の和が二直角の図形は一対一で対応し合うけれども,それは三角形のよい定義ではあり得ないといわれていました。僕もその工藤の見解に同意しています。その理由のひとつがここにあります。単にAとBが一対一で対応し合うだけでは,それは完全な定義の条件を満たすことにはならないのです。
 この固有性の実例をスピノザは円で例示しています。中心から円周に引かれたすべての線が相等しい図形であると円が定義されたなら,こうした定義は円の本性を何も明らかにしていないというのがその内容です。そしてスピノザはこれで明らかにされるのは円の特性であるといっています。つまりここでは固有性が特性に置き換えられているのです。
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