第三部定理五〇では,どんなものも偶然によって希望spesおよび不安metusの原因となり得ることが示されていました。ただ,注意しておきたいのは,とくに希望および不安という感情の対象となるものだけが,現実的に存在するある人間にとって偶然に発生するというものではないということです。むしろどんなものも,やはり偶然によってあらゆる感情affectusの原因となり得るのです。それは第三部定理一五で示されています。
「おのおのの物は偶然によって喜び・悲しみあるいは欲望の原因となりうる」。
スピノザの哲学における感情論では,欲望cupiditasと喜びlaetitiaと悲しみtristitiaが基本感情affectus primariiとされ,それ以外のあらゆる感情はこれらいずれかの感情の一種であるとされています。たとえば愛amorは第三部諸感情の定義六により喜びの一種です。また憎しみodiumは第三部諸感情の定義七により悲しみの一種です。そして競争心は第三部諸感情の定義三三により欲望の一種です。すべての感情がこのようになっていますので,どんなものも偶然によって喜び,悲しみ,欲望の原因となり得るということは,どんなものも偶然によってあらゆる感情の原因となり得るといっているのと同じことなのです。
このことは,僕たちがAを表象したとき,それによってBを連想するということがあるということさえ踏まえておけば,そう難しい論証を必要としません。ある人間がAを表象したとしても何の感情も感じないと仮定します。しかしBを表象したときには何らかの感情Xを感じると仮定します。このとき,この人間はAを表象したなら必然的にBを連想するのですから,Xという感情を感じることになります。ですからそれによってAはXという感情の原因となるでしょう。ここで偶然の原因といわれているのはこのような意味での原因です。したがって,もしもその人間に表象の動揺が発生して,AからBを連想しなくなったとしたら,この人間はAを表象してもXを感じなくなるでしょう。いい換えれば,AはXの偶然の原因ではなくなるということです。
僕はスピノザの哲学では,真理獲得の方法は真理の獲得と別に存在しないと考えています。つまり真理を獲得しないうちに,どのような方法によって真理を獲得することが可能であるのかということは知り得ないと考えるのです。そして逆に,何らかの真理をひとつでも獲得してしまえば,それと同時に真理を獲得する方法も知ることが可能になると考えるのです。スピノザの哲学を生活の実践として用いる場合にも,ちょうどこれと同じような関係になるというのが僕の考え方です。あるいはこれは僕が経験的にも知っていることなので,考え方というより,リアルな体験であるといった方がいいのかもしれません。
きわめて簡潔にいってしまえば,スピノザは敬虔pietasに生きるということを生き方としては志向しているといっていいでしょう。他面からいえば,スピノザの哲学は,敬虔に生きることを教える哲学だといういい方は可能だと僕も思います。ですが,どのような方法を用いれば敬虔であることができるのかということだけをスピノザの哲学から抽出することはできません。そもそもスピノザは信仰によって人間は敬虔であり得るということを認めているのであって,これは神学であって哲学ではありません。他面からいえばそれは受動なのであって能動actioではありません。ですが哲学においてはスピノザは能動的であることを肯定し,受動的であることを可能な範囲で否定することを志向します。ですから,単にどうすれば敬虔であることができるのかということだけをスピノザは教えることができないのです。あるいはそれだけを説くことは,スピノザ自身が自分の哲学を部分的に否定することと同じなのです。
こうした事情から,僕はスピノザの哲学というのは第一義的にはに真理を説くものであると解します。倫理的な側面はその真理から必然的に流出する結果であると解するのです。つまり能動,精神の能動actio Mentisである理性ratioによる事物の認識が,必然的に敬虔であることを流出させるのだと考えるのです。この意味において,敬虔であることへの方法論は,実際に敬虔であること,あるいは敬虔になるということと切り離して獲得できることではないと考えるのです。
「おのおのの物は偶然によって喜び・悲しみあるいは欲望の原因となりうる」。
スピノザの哲学における感情論では,欲望cupiditasと喜びlaetitiaと悲しみtristitiaが基本感情affectus primariiとされ,それ以外のあらゆる感情はこれらいずれかの感情の一種であるとされています。たとえば愛amorは第三部諸感情の定義六により喜びの一種です。また憎しみodiumは第三部諸感情の定義七により悲しみの一種です。そして競争心は第三部諸感情の定義三三により欲望の一種です。すべての感情がこのようになっていますので,どんなものも偶然によって喜び,悲しみ,欲望の原因となり得るということは,どんなものも偶然によってあらゆる感情の原因となり得るといっているのと同じことなのです。
このことは,僕たちがAを表象したとき,それによってBを連想するということがあるということさえ踏まえておけば,そう難しい論証を必要としません。ある人間がAを表象したとしても何の感情も感じないと仮定します。しかしBを表象したときには何らかの感情Xを感じると仮定します。このとき,この人間はAを表象したなら必然的にBを連想するのですから,Xという感情を感じることになります。ですからそれによってAはXという感情の原因となるでしょう。ここで偶然の原因といわれているのはこのような意味での原因です。したがって,もしもその人間に表象の動揺が発生して,AからBを連想しなくなったとしたら,この人間はAを表象してもXを感じなくなるでしょう。いい換えれば,AはXの偶然の原因ではなくなるということです。
僕はスピノザの哲学では,真理獲得の方法は真理の獲得と別に存在しないと考えています。つまり真理を獲得しないうちに,どのような方法によって真理を獲得することが可能であるのかということは知り得ないと考えるのです。そして逆に,何らかの真理をひとつでも獲得してしまえば,それと同時に真理を獲得する方法も知ることが可能になると考えるのです。スピノザの哲学を生活の実践として用いる場合にも,ちょうどこれと同じような関係になるというのが僕の考え方です。あるいはこれは僕が経験的にも知っていることなので,考え方というより,リアルな体験であるといった方がいいのかもしれません。
きわめて簡潔にいってしまえば,スピノザは敬虔pietasに生きるということを生き方としては志向しているといっていいでしょう。他面からいえば,スピノザの哲学は,敬虔に生きることを教える哲学だといういい方は可能だと僕も思います。ですが,どのような方法を用いれば敬虔であることができるのかということだけをスピノザの哲学から抽出することはできません。そもそもスピノザは信仰によって人間は敬虔であり得るということを認めているのであって,これは神学であって哲学ではありません。他面からいえばそれは受動なのであって能動actioではありません。ですが哲学においてはスピノザは能動的であることを肯定し,受動的であることを可能な範囲で否定することを志向します。ですから,単にどうすれば敬虔であることができるのかということだけをスピノザは教えることができないのです。あるいはそれだけを説くことは,スピノザ自身が自分の哲学を部分的に否定することと同じなのです。
こうした事情から,僕はスピノザの哲学というのは第一義的にはに真理を説くものであると解します。倫理的な側面はその真理から必然的に流出する結果であると解するのです。つまり能動,精神の能動actio Mentisである理性ratioによる事物の認識が,必然的に敬虔であることを流出させるのだと考えるのです。この意味において,敬虔であることへの方法論は,実際に敬虔であること,あるいは敬虔になるということと切り離して獲得できることではないと考えるのです。