第四部定理五七では,高慢な人間は阿諛追従の徒を愛し,寛仁の人を憎むといわれていました。このとき寛仁と訳されているラテン語はgenerositasです。
正直にいうと僕はこの訳語をあまり好んでいません。寛仁などという語は僕の語彙にはないからです。『破門の哲学』ではこの語が寛容と訳されていて,おそらく清水も何らかの理由で寛仁という訳語を好めなかったのだと推測します。そして寛容というのは僕の語彙にあって,だから僕も清水と同じように訳したい気持ちもあるのですが,そうは踏み切れない理由がまた別にあるのです。
寛仁というのをスピノザは精神の強さあるいは精神の逞しさのひとつであると規定しています。ところが寛容というのは一般的にはそれと正反対の意味合いをもつものとして表象される場合があると僕には思えるのです。要するにどんなことがあっても許してしまうような人間のことを寛容な人間と表現する場合があると僕には思えるのです。それはスピノザがgenerositasという語で表現しようとした感情,これは欲望cupiditasの一種なので感情なのですが,そういう感情とはまったく異なった思惟作用としてgenerositasを認識していることなのです。
ごく単純にいえば,このことは第四部定理五七でスピノザがいっていることから明白です。もしもすべてを許してしまうような態度がgenerositasであるなら,その人間は高慢な人間のことも許容するということになるでしょう。そうであればその人間が高慢な人間に憎まれなければならない理由はまったくありません。ところがスピノザはgenerositasという態度で高慢な人間に対峙する人間は,高慢な人間によって憎まれるといっているのです。つまりgenerositasである人間は,高慢な人間を許容するような人間ではないということになるのです。
このような事情があるために,僕はgenerositasという語を寛容と訳すことはしません。ですがそれ以外に何か適当な訳語があるかといえば,僕にはこれというものが思いつかないのです。なので岩波文庫版の畠中と同様にこれを寛仁といいます。僕が寛仁といい,寛容といわないということには明確な理由があるということは覚えておいてください。
創造される事物の定義については,スピノザは一と二に分けて説明しています。ですが僕が解するところによれば,スピノザは各々が関係するような事柄として,みっつの条件を示しています。まずその条件を列挙します。
条件①。 創造される事物の定義は,定義される事物の最近原因を含んでいなければならない。
条件②。 創造される事物の定義から,それ以外の概念と結び付けずに,定義される事物のすべての特質が帰結しなければならない。
条件③。 創造される事物の定義内容は,知性によって肯定的に認識ないしは評価されなければならない。
必要と思われる簡単な注釈をまず付しておきます。
条件①で最近原因causa proximaといわれているのは,定義される事物の発生要因,すなわち起成原因causa efficiensのことです。第一部定理二八備考でいわれているように,最近原因というのはそれ自体で特別な意味を有しますが,ここではそこまで考える必要はないと思います。創造される事物があるということは,それを創造する事物があるということです。そうしたものが創造される事物の定義の中には含まれていなければならないということが,この条件で主眼としていわれていることだと解します。
条件②は,スピノザが事前に内的本性といっていた事柄の具体的な意味と解します。つまりほかのものに依拠せずにそれのすべての特質proprietasが必然的に流出するものとして,それの内的本性はあるというように解するということです。
条件③は,最も単純にいうなら,定義命題はAはBであるとかAをBと解するというような,肯定文の命題でなければならないということです。ただし,事物を定義する目的は,知性の秩序を転倒させないようにすることでした。つまり知性に対して,あるいは定義されるものの観念の形成に資するためでした。ですから定義された内容について知性がそれを肯定的に認識できるのであれば,それ以上のことは必要ありません。よって文章として記述される命題が否定的になっていても,それが知性による事物の十全な認識に資するなら,そうした命題であっても構いません。知性によって肯定的に評価されるとはそういう意味です。
正直にいうと僕はこの訳語をあまり好んでいません。寛仁などという語は僕の語彙にはないからです。『破門の哲学』ではこの語が寛容と訳されていて,おそらく清水も何らかの理由で寛仁という訳語を好めなかったのだと推測します。そして寛容というのは僕の語彙にあって,だから僕も清水と同じように訳したい気持ちもあるのですが,そうは踏み切れない理由がまた別にあるのです。
寛仁というのをスピノザは精神の強さあるいは精神の逞しさのひとつであると規定しています。ところが寛容というのは一般的にはそれと正反対の意味合いをもつものとして表象される場合があると僕には思えるのです。要するにどんなことがあっても許してしまうような人間のことを寛容な人間と表現する場合があると僕には思えるのです。それはスピノザがgenerositasという語で表現しようとした感情,これは欲望cupiditasの一種なので感情なのですが,そういう感情とはまったく異なった思惟作用としてgenerositasを認識していることなのです。
ごく単純にいえば,このことは第四部定理五七でスピノザがいっていることから明白です。もしもすべてを許してしまうような態度がgenerositasであるなら,その人間は高慢な人間のことも許容するということになるでしょう。そうであればその人間が高慢な人間に憎まれなければならない理由はまったくありません。ところがスピノザはgenerositasという態度で高慢な人間に対峙する人間は,高慢な人間によって憎まれるといっているのです。つまりgenerositasである人間は,高慢な人間を許容するような人間ではないということになるのです。
このような事情があるために,僕はgenerositasという語を寛容と訳すことはしません。ですがそれ以外に何か適当な訳語があるかといえば,僕にはこれというものが思いつかないのです。なので岩波文庫版の畠中と同様にこれを寛仁といいます。僕が寛仁といい,寛容といわないということには明確な理由があるということは覚えておいてください。
創造される事物の定義については,スピノザは一と二に分けて説明しています。ですが僕が解するところによれば,スピノザは各々が関係するような事柄として,みっつの条件を示しています。まずその条件を列挙します。
条件①。 創造される事物の定義は,定義される事物の最近原因を含んでいなければならない。
条件②。 創造される事物の定義から,それ以外の概念と結び付けずに,定義される事物のすべての特質が帰結しなければならない。
条件③。 創造される事物の定義内容は,知性によって肯定的に認識ないしは評価されなければならない。
必要と思われる簡単な注釈をまず付しておきます。
条件①で最近原因causa proximaといわれているのは,定義される事物の発生要因,すなわち起成原因causa efficiensのことです。第一部定理二八備考でいわれているように,最近原因というのはそれ自体で特別な意味を有しますが,ここではそこまで考える必要はないと思います。創造される事物があるということは,それを創造する事物があるということです。そうしたものが創造される事物の定義の中には含まれていなければならないということが,この条件で主眼としていわれていることだと解します。
条件②は,スピノザが事前に内的本性といっていた事柄の具体的な意味と解します。つまりほかのものに依拠せずにそれのすべての特質proprietasが必然的に流出するものとして,それの内的本性はあるというように解するということです。
条件③は,最も単純にいうなら,定義命題はAはBであるとかAをBと解するというような,肯定文の命題でなければならないということです。ただし,事物を定義する目的は,知性の秩序を転倒させないようにすることでした。つまり知性に対して,あるいは定義されるものの観念の形成に資するためでした。ですから定義された内容について知性がそれを肯定的に認識できるのであれば,それ以上のことは必要ありません。よって文章として記述される命題が否定的になっていても,それが知性による事物の十全な認識に資するなら,そうした命題であっても構いません。知性によって肯定的に評価されるとはそういう意味です。