第41回エリザベス女王杯。
先手を奪ったのはプリメラアスール。単独の2番手にメイショウマンボ。その後ろにシングウィズジョイとパールコード。そしてその後ろがマキシマムドパリとシャルール。この6頭が先行集団。やや開いた中団馬群の先頭にミッキークイーンでそれをマークする位置にマリアライト。この後ろにクイーンズリング,ヒルノマテーラ,プロレタリアトの3頭が追走。最初の1000mは61秒8の超スローペース。
直線に入ると前をいくプリメラアスールとメイショウマンボの間に進路を取ったシングウィズジョイが先頭に立ち,パールコードが2番手に。一旦はシングウィズジョイが抜け出しましたがプリメラアスールとパールコードの間から伸びてきたクイーンズリングが猛追。決勝線の手前でシングウィズジョイを捕えて優勝。シングウィズジョイがクビ差で2着。パールコードの外から伸びたミッキークイーンが1馬身4分の1差で3着。
優勝したクイーンズリングは前哨戦の府中牝馬ステークスからの連勝で大レース初制覇。3歳のときから牝馬戦であれば大レースを勝てるだけの能力があることは分かっていました。ただ,この距離はやや長いと思われたので,僕は今日は軽視していました。超スローペースになって上がりの勝負になったのが味方したのではないかと思います。コース選択も各馬の明暗を分けたのではないでしょうか。勝ちはしましたが,本質的にはもっと短い距離に適性があるとみています。父はマンハッタンカフェ。
騎乗したミルコ・デムーロ騎手はJBCスプリントに続いての大レース制覇。エリザベス女王杯は初勝利。管理している吉村圭司調教師は厩舎開業から4年8ヶ月で大レース初制覇。
スピノザの優越性の解し方の中に,検証しておくべき事柄が含まれています。
スピノザは原因が結果の実在性realitasをより完全に含んでいる場合に,原因が結果を優越的にeminenter含むと解していたのでした。これは原因の実在性が結果の実在性より大きい場合に,原因は結果より実在性をより完全に含むと前提している可能性があります。その場合には,少なくとも原因が結果より優越的であるという場合には,ものの実在性と完全性perfectioが等置されなければならないことになります。実在性以外の何かを原因が結果より完全に含んでいても,優越的であるとはいえないことになっているからです。
第二部定義六から明らかにように,スピノザはとくに優越性とは関係なく,実在性と完全性を同一視します。ですからスピノザが優越性をこうして解しているとしても,スピノザの哲学全体とは離反しません。なので仮にスピノザがそう解しているとして,その解し方に依拠してスピノザの哲学について考察することが可能です。
一方,これは前にもいったことがあったと思いますが,デカルトがスピノザと純粋に同じ意味で実在性と完全性を同一視することは本来はできないと僕は考えています。なぜなら,スピノザのように実在性と完全性を同一視する場合には,物体的実体substantia corporeaと神Deusを同一視することが要請されることになると考えるからです。いい換えれば,神が最高に完全であるために,延長の属性Extensionis attributumが神の本性essentiaを構成することが要求されると考えるからです。しかしこの考え方はデカルトには認められない筈です。
ただし,デカルトは自身の哲学を考える際には,実在性と完全性を同一視しています。つまり実在性とか完全性という概念の解し方が,デカルトとスピノザでは異なっているのだと僕は考えます。ただ,その差異がどこにあるのであれ,事実としてデカルトが実在性と完全性を等置している以上は,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』というデカルトの哲学の解説書の中で,スピノザが優越性を解するにあたって実在性と完全性を同一視しても,僕はそれを問題視する必要はないだろうと思います。なのでそれは追及せずにそのまま解し,この解し方がスピノザの哲学に与える意味について考えていくことにします。
先手を奪ったのはプリメラアスール。単独の2番手にメイショウマンボ。その後ろにシングウィズジョイとパールコード。そしてその後ろがマキシマムドパリとシャルール。この6頭が先行集団。やや開いた中団馬群の先頭にミッキークイーンでそれをマークする位置にマリアライト。この後ろにクイーンズリング,ヒルノマテーラ,プロレタリアトの3頭が追走。最初の1000mは61秒8の超スローペース。
直線に入ると前をいくプリメラアスールとメイショウマンボの間に進路を取ったシングウィズジョイが先頭に立ち,パールコードが2番手に。一旦はシングウィズジョイが抜け出しましたがプリメラアスールとパールコードの間から伸びてきたクイーンズリングが猛追。決勝線の手前でシングウィズジョイを捕えて優勝。シングウィズジョイがクビ差で2着。パールコードの外から伸びたミッキークイーンが1馬身4分の1差で3着。
優勝したクイーンズリングは前哨戦の府中牝馬ステークスからの連勝で大レース初制覇。3歳のときから牝馬戦であれば大レースを勝てるだけの能力があることは分かっていました。ただ,この距離はやや長いと思われたので,僕は今日は軽視していました。超スローペースになって上がりの勝負になったのが味方したのではないかと思います。コース選択も各馬の明暗を分けたのではないでしょうか。勝ちはしましたが,本質的にはもっと短い距離に適性があるとみています。父はマンハッタンカフェ。
騎乗したミルコ・デムーロ騎手はJBCスプリントに続いての大レース制覇。エリザベス女王杯は初勝利。管理している吉村圭司調教師は厩舎開業から4年8ヶ月で大レース初制覇。
スピノザの優越性の解し方の中に,検証しておくべき事柄が含まれています。
スピノザは原因が結果の実在性realitasをより完全に含んでいる場合に,原因が結果を優越的にeminenter含むと解していたのでした。これは原因の実在性が結果の実在性より大きい場合に,原因は結果より実在性をより完全に含むと前提している可能性があります。その場合には,少なくとも原因が結果より優越的であるという場合には,ものの実在性と完全性perfectioが等置されなければならないことになります。実在性以外の何かを原因が結果より完全に含んでいても,優越的であるとはいえないことになっているからです。
第二部定義六から明らかにように,スピノザはとくに優越性とは関係なく,実在性と完全性を同一視します。ですからスピノザが優越性をこうして解しているとしても,スピノザの哲学全体とは離反しません。なので仮にスピノザがそう解しているとして,その解し方に依拠してスピノザの哲学について考察することが可能です。
一方,これは前にもいったことがあったと思いますが,デカルトがスピノザと純粋に同じ意味で実在性と完全性を同一視することは本来はできないと僕は考えています。なぜなら,スピノザのように実在性と完全性を同一視する場合には,物体的実体substantia corporeaと神Deusを同一視することが要請されることになると考えるからです。いい換えれば,神が最高に完全であるために,延長の属性Extensionis attributumが神の本性essentiaを構成することが要求されると考えるからです。しかしこの考え方はデカルトには認められない筈です。
ただし,デカルトは自身の哲学を考える際には,実在性と完全性を同一視しています。つまり実在性とか完全性という概念の解し方が,デカルトとスピノザでは異なっているのだと僕は考えます。ただ,その差異がどこにあるのであれ,事実としてデカルトが実在性と完全性を等置している以上は,『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』というデカルトの哲学の解説書の中で,スピノザが優越性を解するにあたって実在性と完全性を同一視しても,僕はそれを問題視する必要はないだろうと思います。なのでそれは追及せずにそのまま解し,この解し方がスピノザの哲学に与える意味について考えていくことにします。