10月1日に霧島ファクトリーガーデンで指された第38期女流王将戦三番勝負第一局は12日に放映されました。対局日時点での対戦成績は里見香奈女流王将が5勝,香川愛生女流三段が2勝。
振駒はと金が3枚で香川三段の先手。先手の5筋位取り中飛車に後手が銀2枚を前線に繰り出し押さえ込みを狙う将棋。力将棋で難解な中盤戦となり,どの手を境に差がついたのかが分からない一局でした。
先手が▲6六歩と突いて後手が6五にいた銀を逃げた局面。この手も銀を引かせるのは先手のプラスですが角道を自ら止めていますので,損得微妙です。
第1図から先手は▲5四歩△同歩▲同飛と動いていきました。先手が角道を止めた後なので△5五歩が目につきますが,△7七歩成と成り捨てました。この手は好手だったのではないでしょうか。
△5五歩と打つと▲6四飛△6三金で飛車を捕獲できるのですが,▲9七角△6四金▲同角と進むと後手も大変のようです。△7七歩成は▲同角と取ればその筋が消え,▲同金だと△8六歩でその筋が消えるだけでなく先手は角を使いにくくなります。なので▲同桂と取ったと思われますが,最善は▲同角だったのかもしれません。
これは▲9七角が消えていませんので後手はまず△6三金と上がり▲5九飛と引かせてから△7六歩と打って駒得を目指しました。先手は▲8五桂△同銀という捨て方をしてから▲5四歩。
先手の狙い筋はふたつあって,▲4五銀と捨ててしまい△同銀に▲5三歩成とと金を作る手と▲6五歩~▲6四歩で6三の金に働きかけてと金を作りに行く手。前者を受けるなら△4二金ですが実戦は後者を受けて△7四銀でした。
こちらを受けられたので▲4五銀はあったようです。銀を捨てても急所にと金を作れば互角以上というケースは将棋ではままあります。ですが本局は先に桂馬も損しているのでさすがにやりにくかったのでしょうか,▲6七金と遊んでいる駒を使いにいきました。ただこれはあまりよくなかったかもしれません。△8二飛で後手の飛車の成り込みが約束されたからです。
ここから▲6五歩△同銀▲4四角△同角▲4五銀△6二角▲6六歩と攻めていきましたがそこで△5八歩▲同飛に△8七飛成と金取りで成り込まれました。
第2図まで進むとさすがに後手が抜け出しているようです。
里見王将が先勝。第二局は19日に放映されました。
スピノザの場合は人間的属性を人間の本性natura,essentiaに置き換えることは問題ない筈です。なぜなら,スピノザは神が人間の実在性realitasを優越的にeminenter含んでいるということについて明確に否定しています。そしてスピノザの哲学では本性と実在性は同じものを異なった観点から把握しているにすぎません。ですからスピノザが神Deusのうちに人間の本性が優越的に含まれることを否定するのは当然です。したがって人間的属性に依拠して神を認識することを禁ずるということのうちに,人間の本性によって神の本性を認識することを禁ずるという意味が含まれていると解して差し支えありません。
フーゴー・ボクセルとスピノザとの間で交わされた,優越性に関する議論を,哲学的概念に限定して解するなら,この種のやり取りがあったとみるのがいいでしょう。すなわちボクセルは人間の本性が神のうちに優越的に含まれている,他面からいえば神とは人間にとっての神である,あるいは人間のための神であるということを主張し,それに対してスピノザは,人間の本性が神のうちに優越的に含まれるということを否定し,神は人間にとっての神であるわけではない,ましてや人間のための神ではないと主張したのです。書簡五十六の中で,スピノザが,三角形が話すことができれば神は優越的に三角であると言うだろうといったのには,とくに神が人間にとっての神であるわけではなく,能産的自然Natura Naturansとして所産的自然Natura Naturataに属するすべてのものにとっての神であるということも含意されているかもしれません。そしてこのやり取りはその書簡で終焉を迎えたのです。
したがってスピノザは神からの人格の剥奪を徹底することになりました。ただしそれはたとえば三角形についていえば,三角形の本性,あるいはそういうことばがあるとすれば三角形格を剥奪することも徹底していたということですし,所産的自然に属するあらゆるものの格を神から剥奪するという意味です。ただ,人間は人間の本性によって神を表象するimaginariでしょうから,人格を剥奪するということはとくに意味ないしは意義があったといえるでしょう。対してボクセルは,神から人格を剥奪してはならないと主張していたことになります。
振駒はと金が3枚で香川三段の先手。先手の5筋位取り中飛車に後手が銀2枚を前線に繰り出し押さえ込みを狙う将棋。力将棋で難解な中盤戦となり,どの手を境に差がついたのかが分からない一局でした。
先手が▲6六歩と突いて後手が6五にいた銀を逃げた局面。この手も銀を引かせるのは先手のプラスですが角道を自ら止めていますので,損得微妙です。
第1図から先手は▲5四歩△同歩▲同飛と動いていきました。先手が角道を止めた後なので△5五歩が目につきますが,△7七歩成と成り捨てました。この手は好手だったのではないでしょうか。
△5五歩と打つと▲6四飛△6三金で飛車を捕獲できるのですが,▲9七角△6四金▲同角と進むと後手も大変のようです。△7七歩成は▲同角と取ればその筋が消え,▲同金だと△8六歩でその筋が消えるだけでなく先手は角を使いにくくなります。なので▲同桂と取ったと思われますが,最善は▲同角だったのかもしれません。
これは▲9七角が消えていませんので後手はまず△6三金と上がり▲5九飛と引かせてから△7六歩と打って駒得を目指しました。先手は▲8五桂△同銀という捨て方をしてから▲5四歩。
先手の狙い筋はふたつあって,▲4五銀と捨ててしまい△同銀に▲5三歩成とと金を作る手と▲6五歩~▲6四歩で6三の金に働きかけてと金を作りに行く手。前者を受けるなら△4二金ですが実戦は後者を受けて△7四銀でした。
こちらを受けられたので▲4五銀はあったようです。銀を捨てても急所にと金を作れば互角以上というケースは将棋ではままあります。ですが本局は先に桂馬も損しているのでさすがにやりにくかったのでしょうか,▲6七金と遊んでいる駒を使いにいきました。ただこれはあまりよくなかったかもしれません。△8二飛で後手の飛車の成り込みが約束されたからです。
ここから▲6五歩△同銀▲4四角△同角▲4五銀△6二角▲6六歩と攻めていきましたがそこで△5八歩▲同飛に△8七飛成と金取りで成り込まれました。
第2図まで進むとさすがに後手が抜け出しているようです。
里見王将が先勝。第二局は19日に放映されました。
スピノザの場合は人間的属性を人間の本性natura,essentiaに置き換えることは問題ない筈です。なぜなら,スピノザは神が人間の実在性realitasを優越的にeminenter含んでいるということについて明確に否定しています。そしてスピノザの哲学では本性と実在性は同じものを異なった観点から把握しているにすぎません。ですからスピノザが神Deusのうちに人間の本性が優越的に含まれることを否定するのは当然です。したがって人間的属性に依拠して神を認識することを禁ずるということのうちに,人間の本性によって神の本性を認識することを禁ずるという意味が含まれていると解して差し支えありません。
フーゴー・ボクセルとスピノザとの間で交わされた,優越性に関する議論を,哲学的概念に限定して解するなら,この種のやり取りがあったとみるのがいいでしょう。すなわちボクセルは人間の本性が神のうちに優越的に含まれている,他面からいえば神とは人間にとっての神である,あるいは人間のための神であるということを主張し,それに対してスピノザは,人間の本性が神のうちに優越的に含まれるということを否定し,神は人間にとっての神であるわけではない,ましてや人間のための神ではないと主張したのです。書簡五十六の中で,スピノザが,三角形が話すことができれば神は優越的に三角であると言うだろうといったのには,とくに神が人間にとっての神であるわけではなく,能産的自然Natura Naturansとして所産的自然Natura Naturataに属するすべてのものにとっての神であるということも含意されているかもしれません。そしてこのやり取りはその書簡で終焉を迎えたのです。
したがってスピノザは神からの人格の剥奪を徹底することになりました。ただしそれはたとえば三角形についていえば,三角形の本性,あるいはそういうことばがあるとすれば三角形格を剥奪することも徹底していたということですし,所産的自然に属するあらゆるものの格を神から剥奪するという意味です。ただ,人間は人間の本性によって神を表象するimaginariでしょうから,人格を剥奪するということはとくに意味ないしは意義があったといえるでしょう。対してボクセルは,神から人格を剥奪してはならないと主張していたことになります。