『ドストエフスキー カラマーゾフの預言』に収録されている亀山郁夫と中村文則の対談の中で,アリョーシャも無罪ではあり得ない,つまりアリョーシャも有罪であるというアメリカの研究者の説に亀山が言及しています。このことは対談の主題ではないので軽く触れられているだけなのですが,なぜアリョーシャも有罪といわなければならないのかという理由については,アリョーシャはスメルジャコフに対して冷徹であり過ぎるということがいわれています。これは対談中の発言なので,この理由がアリョーシャ有罪説を唱えたアメリカの学者によるものなのか,亀山の自説であるのかは分かりません。どちらとも受け取れるような発言になっています。
僕は確かにアリョーシャの態度がスメルジャコフに対して冷徹であるということは否定しません。ただスメルジャコフは『カラマーゾフの兄弟』の登場人物たちのほとんどから軽んじられているとみられます。スメルジャコフと最も親しくしているのはイワンだと思いますが,イワンのスメルジャコフに対する態度が,友人に対するあるいは弟に対するそれであるというようには僕には感じられないからです。スメルジャコフに対して愛情を感じるような接し方をしていると僕に感じられるのはグリゴーリーが唯一であり,だから僕はそのグリゴーリーがスメルジャコフの父ではないかと推測したのです。
アリョーシャのスメルジャコフに対する態度が冷徹になるのは,僕にはむしろフョードルが殺された後であるように感じられます。ドミートリーは無実にもかかわらず連行された上に裁判にかけられたのですから,アリョーシャのドミートリーに対する態度にある種の優しさが滲み出るのは不自然ではありません。ただスメルジャコフにフョードル殺害の使嗾をしたともいえるイワンに対しても,アリョーシャは徹底的に無罪であると強調します。それに対して実行犯であるスメルジャコフは,死んでしまったのにアリョーシャが赦しているようには感じられません。なのでこの観点からアリョーシャを有罪というなら,殺人事件があった後のアリョーシャは有罪であるというように僕には強く感じられます。
第二部定理八系で示されている個物res singularesのふたつの存在existentiaのあり方のうち,個物が神Deusの属性attributumの中に包容されている限りにおいて存在するというあり方の場合は,この個物は神の属性が存在する限りで存在するといわれなければなりません。しかし神の属性というのは永遠aeterunusから永遠にわたって存在するのですから,個物の観念ideaもまた永遠から永遠にわたって存在するといわれなければならないでしょう。いい換えれば個物の存在がこのあり方で考えられるとき,この個物は存在することをやめないでしょう。したがって,第二部定理八系のいい方に倣えば,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれる場合の個物の観念も,永遠から永遠にわたって存在することになります。このことは,ここでいわれている神の無限な観念というのが永遠から永遠にわたって存在するということからも明らかですし,第二部定理七系により,神の属性に包容されている限りで存在するといわれる個物の観念は,その個物が神のうちにあるといわれるのと同じ秩序ordoで神のうちになければならないということからも明白であるといえます。
現実的に存在する人間がある事物を十全に認識するcognoscereのであれば,この人間は第二種の認識cognitio secundi generisでその事物を認識しているか,そうでなければ第三種の認識cognitio tertii generisでその事物を認識しているかのどちらかです。このうち第二種の認識というのは理性ratioによる認識ですから,第二部定理四四系二により,その人間はこの事物を永遠の相aeternitatis specieの下に認識していることになります。したがってこれを第二部定理八系に合わせれば,神の属性に包容されている限りでの事物を認識しているということになるでしょう。というのも,そうでなければその事物が持続するdurareといわれる限りで認識していることになりますが,持続するものを永遠の相の下に認識するというのは,それ自体で不条理だといわなければならないからです。
理性による認識というのは共通概念notiones communesに基づく認識です。ですから第二部定理三七によりそれは個物の認識ではありません。よって個物の存在の二通りのあり方について規定している第二部定理八系は,そのまま適用することができるわけではないということは確かです。
僕は確かにアリョーシャの態度がスメルジャコフに対して冷徹であるということは否定しません。ただスメルジャコフは『カラマーゾフの兄弟』の登場人物たちのほとんどから軽んじられているとみられます。スメルジャコフと最も親しくしているのはイワンだと思いますが,イワンのスメルジャコフに対する態度が,友人に対するあるいは弟に対するそれであるというようには僕には感じられないからです。スメルジャコフに対して愛情を感じるような接し方をしていると僕に感じられるのはグリゴーリーが唯一であり,だから僕はそのグリゴーリーがスメルジャコフの父ではないかと推測したのです。
アリョーシャのスメルジャコフに対する態度が冷徹になるのは,僕にはむしろフョードルが殺された後であるように感じられます。ドミートリーは無実にもかかわらず連行された上に裁判にかけられたのですから,アリョーシャのドミートリーに対する態度にある種の優しさが滲み出るのは不自然ではありません。ただスメルジャコフにフョードル殺害の使嗾をしたともいえるイワンに対しても,アリョーシャは徹底的に無罪であると強調します。それに対して実行犯であるスメルジャコフは,死んでしまったのにアリョーシャが赦しているようには感じられません。なのでこの観点からアリョーシャを有罪というなら,殺人事件があった後のアリョーシャは有罪であるというように僕には強く感じられます。
第二部定理八系で示されている個物res singularesのふたつの存在existentiaのあり方のうち,個物が神Deusの属性attributumの中に包容されている限りにおいて存在するというあり方の場合は,この個物は神の属性が存在する限りで存在するといわれなければなりません。しかし神の属性というのは永遠aeterunusから永遠にわたって存在するのですから,個物の観念ideaもまた永遠から永遠にわたって存在するといわれなければならないでしょう。いい換えれば個物の存在がこのあり方で考えられるとき,この個物は存在することをやめないでしょう。したがって,第二部定理八系のいい方に倣えば,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在するといわれる場合の個物の観念も,永遠から永遠にわたって存在することになります。このことは,ここでいわれている神の無限な観念というのが永遠から永遠にわたって存在するということからも明らかですし,第二部定理七系により,神の属性に包容されている限りで存在するといわれる個物の観念は,その個物が神のうちにあるといわれるのと同じ秩序ordoで神のうちになければならないということからも明白であるといえます。
現実的に存在する人間がある事物を十全に認識するcognoscereのであれば,この人間は第二種の認識cognitio secundi generisでその事物を認識しているか,そうでなければ第三種の認識cognitio tertii generisでその事物を認識しているかのどちらかです。このうち第二種の認識というのは理性ratioによる認識ですから,第二部定理四四系二により,その人間はこの事物を永遠の相aeternitatis specieの下に認識していることになります。したがってこれを第二部定理八系に合わせれば,神の属性に包容されている限りでの事物を認識しているということになるでしょう。というのも,そうでなければその事物が持続するdurareといわれる限りで認識していることになりますが,持続するものを永遠の相の下に認識するというのは,それ自体で不条理だといわなければならないからです。
理性による認識というのは共通概念notiones communesに基づく認識です。ですから第二部定理三七によりそれは個物の認識ではありません。よって個物の存在の二通りのあり方について規定している第二部定理八系は,そのまま適用することができるわけではないということは確かです。