スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

確知と確実性&欲望の喚起

2023-01-27 19:18:28 | 哲学
 僕がこのブログで確知するcerto scimusというとき,最も気を付けておいてほしいのは,確知するということと確実であるということは,同じ意味ではないということです。いい換えれば現実的に存在するある人間が,Xを確知するということと,Xについて確実であるということとの間には差異があります。
                                   
 Xを確知するということがどのような意味であるのかは説明しましたので,Xについて確実であるということがどういう意味であるのかを説明しておきます。これは,ある人間の知性intellectusのうちにXの十全な観念idea adaequataがあるということだけを意味します。よってこの人間は第二部定理四三によって,その観念が十全な観念であるということを疑い得ません。このときその人間はXについて確実であると僕はいい,その人間はXについての確実性certitudoを有しているといいます。
 確実とか確実性というのをこのような意味で用いるのは,スピノザの考え方に従っています。第二部定理四九備考でスピノザがいっているのはそういうことであって,ある事柄についてそれを疑わないということと,その事柄について確実であるということとは異なるのです。ある人間がXを確知するというときは,その人間がXについて疑わないということを含むので,確知するということと確実性とは,その分だけ異なることになります。
 確知するということについては,たぶん僕はスピノザに従っているわけではないと思います。僕は確知するということと疑わないということをほぼ同じ意味に解していますが,スピノザはそこに差異を設けているように感じられます。ただ,そこにどのような規準を設定するのが適切なのかが僕には分かりません。疑わないということと疑い得ないということの間には明確に差があることが僕には分かるので,疑わないということが確実性なのではなく,疑い得ないということだけが確実性であると規定できます。しかし,疑わないという場合に,疑い得ないから疑わないのか,疑い得ないわけではないけれども疑わないのかということの差を設けることができるのかは僕には不明です。なので僕は,疑わないということと確知するということをほぼ同じ意味に解します。これはこのブログでの決まりというように理解してください。

 第五部定理二三で,現実的に存在する人間の精神mens humanaの中の永遠なるaeternusあるものaliquidが残存するとスピノザがいうとき,スピノザは人間が共通概念notiones communesに基づいて理性ratioによって何かを認識するcognoscere限りで永遠なるあるものが残存することを想定しているわけではなく,第三種の認識cognitio tertii generisで個物res singularisをあるいは個物の現実的本性actualis essentiaを認識する限りで永遠なあるものが残存するといいたいと推測されます。ただ,だから第二種の認識cognitio secundi generisで事物を認識することが,精神の中のあるものが残存するためにまったく有益ではないかといえば,そういうわけではありません。第五部定理二八にある通り,第二種の認識で事物を認識することは,その精神が第三種の認識で個物を認識する欲望cupiditasを喚起するからです。したがって,第二種の認識で事物を認識するのは,自由の人homo liberではあるけれど賢者ではないとみることができるのですが,自由の人は賢者になる欲望を有しているのであり,この欲望をその人間の現実的本性とみるという条件の下に,自由の人の精神の中のあるものも残存するとみることはできないわけではないでしょう。
 これで,現実的に存在する人間の精神もまた個物の観念であって,その限りで永遠から永遠にわたって存在するということ,つまり第五部定理四二備考でいわれるように,存在することをやめることはないというように解せないこともないということは分かりました。そこでは賢者は賢者としてみられる限りといっていて,やはり第三種の認識で個物を認識することを想定していると思われますが,たとえ第二種の認識で事物を認識するのであっても,そのようにいうことは可能であると僕はみます。一方,このことは,第二部定理一一系からも帰結させられそうなのですが,この点については僕は懐疑的です。
 神の無限知性intellectus infinitusというのは,書簡六十四でスピノザがいっている通り,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態です。よってそれは第一部定理二一によって永遠aeterunusです。つまり存在することをやめません。人間の精神はその無限知性の一部なので,全体である無限知性が永遠で存在することをやめないのであれば,その一部を構成する現実的に存在する人間の精神もまた永遠で存在をやめないように思えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする