豊橋記念の決勝。並びは郡司‐佐藤‐和田の東日本,吉田‐岡本の愛知,取鳥‐清水‐原田‐中本の西国。
郡司がスタートを取って前受け。4番手に取鳥,8番手に吉田で周回。残り3周のバックの出口から吉田が上昇開始。ホームで郡司に並び掛けていきましたが,中途半端な抑え方となってしまい,郡司が突っ張りました。バックに入って取鳥が発進。郡司を叩いて打鐘。郡司はどこにも飛びつくことができず,5番手に。8番手に吉田の一列棒状でホームを通過。バックに入ると清水が取鳥との車間を開け,そのまま番手から発進。郡司はその外から追い上げてきましたが,原田の横あたりで一杯。直線は踏み込んだ原田が清水を差し切って優勝。番手捲りの清水が半車輪差の2着で西国のワンツー。郡司マークから原田と郡司の間に進路を取った佐藤が1車輪差で3着。
優勝した徳島の原田研太朗選手は防府,高松,松山とFⅠを3連勝中で,これで4連続優勝。記念競輪は一昨年7月の小松島記念以来となる5勝目。豊橋記念は初優勝。このレースは取鳥の先行が有力。郡司が飛びつくことができなかったので,西国ラインにはとても有利な展開になりました。清水はあれほど取鳥との車間を開ける必要はなかったかもしれませんが,番手捲りの清水を差し切ったのですから,最近の原田の調子はそれほどよいということなのでしょう。もう少し上を目指すことができる選手だと思っています。
『勝負の視点』に収録されている「右脳が左脳に勝つ日」というコラムが週刊将棋に掲載されたのは,1995年の2月15日号です。前述したように,『脳内革命』が出版されたのがこの1995年です。『脳内革命』の出版が何月何日であったかは不明ですし,週刊将棋の2月15日号が実際に発売されたのがいつであったのかも不明ですが,同年の2月3日の対局のことが書かれています。青野は当然ながらその発行の前に原稿を執筆するわけですから,週刊将棋の2月15日号の発行は,2月15日かその1週前の2月8日だったと推定されます。そのときにすでに『脳内革命』は発売されていた可能性はありますが,状況的にみると,おそらく青野がこのコラムを書いたのが,たとえ『脳内革命』が出版された以後のことであったとしても,『脳内革命』だけに影響されてこのコラムを執筆したわけではないということは間違いないでしょう。近藤は脳には関心があったから『脳内革命』を読み,それで右脳と左脳の働きの差異が自身の算数や数学の経験,あるいは飯田の麻雀のプレイに対して腑に落ちる内容だと感じたわけです。ですから近藤が右脳と左脳の差異に着目する以前から,青野はそれに注目していたということになります。

これは考察とは無関係ですが,1995年というのは阪神淡路大震災があった年です。それが1月17日のことです。青野の2月3日の対局は,関西将棋会館でのものでした。青野はその1ヶ月半ほど前,つまり阪神淡路大震災以前にも関西将棋会館での対局があり,雰囲気の違いを感じたという主旨のことを記しています。このときの政府の初動などが,右脳と左脳に関する青野の記述と関係しているのですが,この部分は正確な解釈であるものとして紹介できる自信が僕にありませんので,それは割愛します。
青野はコラムの中で,人間の脳には左脳と右脳があり,それぞれが独自の働きをしていることはよく知られていると書いています。つまりそのことは,『脳内革命』がベストセラーとなる以前から知られていたことになります。少なくとも青野は,そのことは世間一般に広く知られていると認識していたことになります。
郡司がスタートを取って前受け。4番手に取鳥,8番手に吉田で周回。残り3周のバックの出口から吉田が上昇開始。ホームで郡司に並び掛けていきましたが,中途半端な抑え方となってしまい,郡司が突っ張りました。バックに入って取鳥が発進。郡司を叩いて打鐘。郡司はどこにも飛びつくことができず,5番手に。8番手に吉田の一列棒状でホームを通過。バックに入ると清水が取鳥との車間を開け,そのまま番手から発進。郡司はその外から追い上げてきましたが,原田の横あたりで一杯。直線は踏み込んだ原田が清水を差し切って優勝。番手捲りの清水が半車輪差の2着で西国のワンツー。郡司マークから原田と郡司の間に進路を取った佐藤が1車輪差で3着。
優勝した徳島の原田研太朗選手は防府,高松,松山とFⅠを3連勝中で,これで4連続優勝。記念競輪は一昨年7月の小松島記念以来となる5勝目。豊橋記念は初優勝。このレースは取鳥の先行が有力。郡司が飛びつくことができなかったので,西国ラインにはとても有利な展開になりました。清水はあれほど取鳥との車間を開ける必要はなかったかもしれませんが,番手捲りの清水を差し切ったのですから,最近の原田の調子はそれほどよいということなのでしょう。もう少し上を目指すことができる選手だと思っています。
『勝負の視点』に収録されている「右脳が左脳に勝つ日」というコラムが週刊将棋に掲載されたのは,1995年の2月15日号です。前述したように,『脳内革命』が出版されたのがこの1995年です。『脳内革命』の出版が何月何日であったかは不明ですし,週刊将棋の2月15日号が実際に発売されたのがいつであったのかも不明ですが,同年の2月3日の対局のことが書かれています。青野は当然ながらその発行の前に原稿を執筆するわけですから,週刊将棋の2月15日号の発行は,2月15日かその1週前の2月8日だったと推定されます。そのときにすでに『脳内革命』は発売されていた可能性はありますが,状況的にみると,おそらく青野がこのコラムを書いたのが,たとえ『脳内革命』が出版された以後のことであったとしても,『脳内革命』だけに影響されてこのコラムを執筆したわけではないということは間違いないでしょう。近藤は脳には関心があったから『脳内革命』を読み,それで右脳と左脳の働きの差異が自身の算数や数学の経験,あるいは飯田の麻雀のプレイに対して腑に落ちる内容だと感じたわけです。ですから近藤が右脳と左脳の差異に着目する以前から,青野はそれに注目していたということになります。

これは考察とは無関係ですが,1995年というのは阪神淡路大震災があった年です。それが1月17日のことです。青野の2月3日の対局は,関西将棋会館でのものでした。青野はその1ヶ月半ほど前,つまり阪神淡路大震災以前にも関西将棋会館での対局があり,雰囲気の違いを感じたという主旨のことを記しています。このときの政府の初動などが,右脳と左脳に関する青野の記述と関係しているのですが,この部分は正確な解釈であるものとして紹介できる自信が僕にありませんので,それは割愛します。
青野はコラムの中で,人間の脳には左脳と右脳があり,それぞれが独自の働きをしていることはよく知られていると書いています。つまりそのことは,『脳内革命』がベストセラーとなる以前から知られていたことになります。少なくとも青野は,そのことは世間一般に広く知られていると認識していたことになります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます