スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

勧善懲悪&解釈の弱点

2021-08-30 18:51:02 | 歌・小説
 『坊っちゃん』という小説は,勧善懲悪の小説であるという形容をされることが多いです。作者である夏目漱石に,善を勧め悪を懲らしめるということを読者に推奨するという意図があったかどうかは分かりません。ただこの小説は,少なくとも表面上は善が悪を懲らしめるというストーリーになっていますので,読後に爽快感や痛快な気持ちを得られるという側面があるということは事実です。
                                        
 登場人物の中で善を代表するのは主人公の坊っちゃんであり,また坊っちゃんと協力する山嵐です。悪を代表するのが赤シャツでありまた赤シャツに阿諛追従する野だいこであるといえるでしょう。実際のところ,坊っちゃんや山嵐がそれ自体で善なる人物というようには読めないかもしれませんが,赤シャツや野だいこは権力を用いて邪魔な教員を排除するような策略をする人物ですから,それ自体で悪を代表すると読解することができます。坊っちゃんや山嵐が善を代表すると読むことができるのは,赤シャツや野だいこのそういうやり方に義憤を感じ,その義憤を実行に移すからなのであって,もしも赤シャツや野だいこが存在しなかったとしたら,このふたりが善とみなされることはないかもしれません。とはいえ善悪というのは比較上の概念であって,悪があるから善があると認識されるのですし,逆に善があるから悪が認識されるのですから,坊っちゃんや山嵐が善を代表しているというのは誤りではないと思います。
 ただこれだけでは善なるものと悪なるものが存在するというだけであり,勧善懲悪であるとはいうことはできません。『坊っちゃん』が勧善懲悪の小説であるといわれるのは,実際に坊っちゃんと山嵐が赤シャツに鉄拳制裁を加えるからです。鉄拳制裁という方法のよしあしについては判断の相違が生じるでしょうが,それが物語の中の出来事であるとみるなら,このことが,単に善なるものと悪なるものが存在している小説であるというだけでなく,勧善懲悪の小説,善が勧められ悪が懲らしめられている小説であるといえるでしょう。
 ただしこれはあくまでも表面上のストーリーです。勧善懲悪であることは間違いないのですが,善が全面的に肯定され,悪が全面的に否定されているというのとは少し違う面もあるといえます。

 第五部定理二八は,ある事柄に関して第二種の認識cognitio secundi generisを蓄積していくことによって,その事柄を第三種の認識cognitio tertii generisで認識するcognoscereことの呼び水になるという意味をもっているとみることができます。ただしこの解釈には,ひとつだけ弱点があるのも事実です。
 第三部諸感情の定義一は,現実的に存在する人間が働きを受けるpati限りで,その人間の現実的本性actualis essentiaは欲望cupiditasであるというようにいっています。しかるに,現実的に存在する人間が働きを受けることによって何事かを認識するということがあるとしたら,この人間の知性intellectusのうちに生じるその観念ideaは混乱した観念idea inadaequataです。このことは第三部定理一から明らかです。具体的にいうなら,第二部定理一七の様式で僕たちの身体corpusが外部の物体corpusからその物体の本性を含むような刺激を受けるaffici,つまり働きを受けると,僕たちの精神mensはその外部の物体を現実的に存在すると認識する,つまり現実的に存在するその物体の観念が僕たちの知性のうちに生じるのですが,これは僕たちが働きを受けることによって僕たちの知性のうちに生じる観念ですから,その物体の十全な観念idea adaequataではなく,混乱した観念です。これは第二部定理二五から明らかです。
 一方,人間の精神mens humanaが第二種の認識で何かを認識する場合および第三種の認識で何かを認識する場合には,その人間の精神のうちに生じる何かの観念というのは,混乱した観念ではなく十全な観念です。いい換えれば,僕たちが働きを受けることによって僕たちのうちに生じる観念なのではなくて,僕たちの精神が働くagereことによって生じる観念なのです。したがって,これを僕たちの現実的本性という場合に,欲望が人間の現実的本性であるということに依拠することは不適切であるとみることができます。もちろん僕たちは第二種の認識や第三種の認識で何事かを認識するということはあるのですから,それが僕たちの現実的本性に属するということは間違いありません。それを欲望に依拠して考えてよいのかということが,いい換えればその点だけが,問題となってくるのです。
 まずこれについては,第五部定理二八で第三種の認識に向う欲望といわれるとき,その欲望というのが何を意味するのかを考えます。

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