スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
昨日の第29期竜王戦 挑戦者決定戦三番勝負第一局。対戦成績は丸山忠久九段が20勝,三浦弘行九段が12勝。
振駒 で丸山九段の先手。三浦九段の横歩取り。先手が左の金を前線に繰り出していく 将棋となりました。
後手が歩を垂らして攻め合いを目指した局面。ここで先手は58分も考えて▲4六歩 と突きました。残り10分を切るまで考えた手。こういう局面での長考は形勢が芳しくない場合の方が多いと思われますが,先手が読み切ろうとして目算を立てたものか,仕方がないと判断したものなのかは判別できません。結果的にいえば勝利を引き寄せる手になりました。
手の流れから△2八歩成▲4五歩△8八角成▲同王△3八とまでは一本道に近い気がします。先手はそこで▲4四歩と突き捨て△同飛に▲4七香と打ちました。後手は△1四飛と元の位置に。
先手は▲7四歩とこちらに手を付け後手は△2三銀。ここでまた▲4四歩と打って△同歩に▲5五金と寄ったのが好手順で,実質的な決め手になったようです。
一旦は突き捨てたところにまた歩を打ち,左側に手を付けたのに金を右に寄るというのは考えにくいところがあるように思います。こういう手順を発見できるのは強さの証ではないでしょうか。
丸山九段が先勝 。第二局は26日です。
創造されない事物の定義については,スピノザはよっつの条件を掲げています。まず順に列挙します。
条件①。 創造されないものの定義には,定義されるものの一切の原因が排除されていなければならない。
条件②。 創造されないものが定義されたら,それによって定義されるものの存在に関する疑問が生じてはならない。
条件③。 創造されないものは抽象的概念によって定義されてはならない。
条件④。 その定義から定義されるものの特質のすべてが帰結しなければならない。
これらのうち条件④は,創造される事物の定義の条件②と同じです。なのでこの条件がほかの条件とどう関係するのかということの説明は割愛します。また,この条件が実質的にどういう意味を有しているかということの説明も不要でしょう。
前にいったように,それがどんな事物であっても,定義は知性の秩序を転倒させないことに資するものです。ですから条件①も,その意味において有益でなければなりません。すなわちそこでいわれていることには,知性は創造されない事物を認識するために,第一部公理四の意味 において,定義されたもの以外の観念に依存することがあってはならないということが含意されています。というよりも,そういう意味合いの方が強いと受け取れる記述をスピノザはしています。
条件②のスピノザの記述は明らかに否定的になっていると僕は解します。ですがこれは積極的にいい換えることが可能です。すなわちこの条件が実際に示しているのは,創造されないものの定義のうちに,定義されるものの存在の確実性が担保されていなければならないということだと僕は解します。
条件③についてスピノザは,創造されないものの定義は,形容詞として解釈することが可能であるような名詞によってなされてはならないという主旨のことをいっています。ですが僕の見解では,この条件というのは品詞の問題に還元できるようなものではありません。スピノザがどういう意味でそう記したかいまひとつ不明なのですが,実際に示されている記述よりはもっと広範な意味をもっていなければならないと僕は考えています。
被災地支援競輪として松戸競輪場 で開催された第59回オールスター競輪の決勝 。並びは新田‐菅田の北日本,平原‐武田‐木暮の関東,村上‐稲垣‐岩津の西日本で中村は単騎。
前受けは新田。3番手に村上,6番手に中村,7番手に平原という周回。残り3周で平原が上昇しようとすると村上が併せていき,結果的に平原を出させずに新田を叩いて前に。平原は後ろまでは下げず,新田の後ろに割り込み,残り2周のホームで村上‐稲垣‐岩津‐中村‐新田‐平原‐武田‐木暮‐菅田で一列棒状。このまま村上が速度を緩めず先行。残り1周のホームに入ってから新田が発進しようとしましたが,直後から平原が発進。うまくコーナーで新田を外に振り,浮いた新田は圏外。平原が来る前にバックで稲垣が番手発進。平原の捲りは岩津に牽制されて失速。直線は粘る稲垣を交わして岩津の優勝。稲垣が4分の1車輪差で2着。このラインに続いた中村が流れ込んで半車身差の3着。
優勝した岡山の岩津裕介選手は昨年1月にいわき平記念 を優勝して以来のグレードレース優勝。ビッグは初優勝。このレースは稲垣が前を回るケースが圧倒的に多い京都勢が,村上が前という並び。村上も稲垣にはたくさん勝たせてもらっているので,今回は早めに駆けていくということも考えられましたが,その通りの展開に。どちらが前を回るにしても京都勢を追走というレースを選択する予定であったようですが,その選択がうまくいったということでしょう。捲ってきたのが新田ではなく平原になったのも,速度的に牽制しやすくなった面があると思われ,その点もこのラインにとってはよかったかもしれません。
ここで再びスピノザが第二部定理四九 を論証するときに示していた実例に目を向けてみます。
内角の和が二直角である図形を,スピノザが平面上の三角形の本性に属すると解していることは疑い得ません。ですが内角の和が二直角であるということは,三角形の発生を含んでいるとはいえません。ですから条件①により,これは三角形の完全な定義ではあり得ないことになります。
では内角の和が二直角であるという性質は,平面上の三角形にとって何なのでしょうか。それは条件②で示されている特質 proprietasであるとしか考えられないと僕は解します。すなわち円の定義,一端が固定されもう一端が運動する任意の直線に描かれる図形であるということから,中心から円周上に引かれるすべての直線の長さが同一であるという円の特性が帰結するように,内角の和が二直角であるということは,三角形の定義から帰結する特質であると僕は考えるのです。第三部諸感情の定義六説明 からみてとれるように,スピノザは本性と特質を対立的に考えています。これを踏まえるなら,スピノザはそれを三角形の本性に属すると解しているものの,実際には三角形の特質であって,本性ではない筈なのです。同様にこのことは,それが三角形のよい定義ではあり得ないということに着目すれば,第一部定理八備考二 でスピノザが示している定義の条件からしても,やはり三角形の本性であるとはみなせないことになるでしょう。
ある平面上に任意の直線ABがあって,この直線上さらにその延長線上でもない任意の点Cがあるとき,直線ACおよびBCによって描かれる図形というのは,やや微妙ですが,三角形の発生を含んでいるといえなくもないでしょう。内角の和が二直角であるということは,こうしたことから帰結しなければならないのだと僕は考えます。いい換えればこうした記述こそが,三角形のよい定義には相応しいものだと僕は考えるのです。
僕は第二部定義二 が,スピノザの定義論をむしろ難解にさせているという意味のことをいいました。その理由はこれでお分かりいただけたと思います。スピノザ自身が,特質を本性に属するものとみなしているからです。
僕にとってマイティ・井上 のパートナーは阿修羅・原 です。ですが井上は石川敬士とのチームでも何度かアジアタッグの王者に就いています。
井上が原と組んでいた頃,石川は佐藤昭雄 と組んでいました。ですから僕にとって石川のパートナーといえば佐藤になります。実際にこのチームでもアジアタッグの王者になっています。佐藤は後にアメリカに拠点を移し,全日本で試合をすることはなくなりました。原は天龍源一郎 の正パートナーに抜擢された時点で天龍同盟以外の選手と組むことはなくなりました。井上と石川が組むことになったのは自然な流れでしたが,僕にとっては単に残った組合せという印象なので,正規チームという感覚がないのです。
石川は最初から最後まで中堅クラスのレスラーであったと僕は思っています。アジアタッグ以外のタイトルは獲得していませんから,そう間違った判断ではないと思います。ただ,選手として輝いた時期はありました。それはジャパンプロレス との対抗戦時代 です。石川はこの時期はジャパンプロレスの上のクラス,長州力 や谷津嘉章 といった選手と当たる機会が多く,必然的に後ろの方で試合をすることが多くなりましたし,その試合がテレビ中継で放映されるということも多くなりました。何人かいた中で石川がそういう役割を与えられたことは何らかの理由があったと思われるのですが,それが何であったのかは僕にはよく分かりません。選手生活の中でそれほど長い時期ではありませんが,その前後より明らかによい役割を与えられていたと思います。
後に輪島が全日本に入団し,引退したときに石川も一緒に引退しました。何らかの責任を負わねばなかったからかもしれませんし,石川自身が輪島に対して責任を感じたからかもしれません。天龍がSWSに移籍した後で復帰し,SWSが崩壊した後,天龍がWARを創ったときにも参加しました。天龍は全日本を退団した時点で引退していた石川には声を掛けたと言っています。最後はリング上では敵対していましたが,個人的には深い繋がりがあったのでしょう。
一端が固定しもう一端が運動する任意の直線によって描かれる図形という円の定義が,知性による肯定によって円の定義として成立するということは,他面からいえば,円は必ずしもその仕方で現実的に存在するわけではないということです。したがって一般的にいえば,被造物の定義は,その被造物が現実的に存在する様式を知性のうちで再現しなくても構わないとスピノザは考えていることになります。要するにこの円あるいはあの円を十全に認識するための内容を含まなければならないのではなく,どの円にも共通する本性を知性が把握できればよいということであり,こうしたことがすべての被造物の定義に妥当すると解するべきだと僕は考えます。
こうしたことは上野修の『スピノザの世界 』の中で詳しく解説されています。そして上野がその部分で触れているように,このことはすでに『知性改善論 Tractatus de Intellectus Emendatione 』において指摘されているのです。
『知性改善論』の(七二)と(七三)では,球の十全な観念の形成について言及されています。このときスピノザは半円が直線部分を軸に一回転して球が生じると概念 するconcipereなら,その球の概念は真であるといっています。つまりこれは球の完全な定義です。しかし半円の回転については,任意の原因を虚構したものだといっています。つまり半円の回転という観念は,球の観念と因果関係で連結されない限りは誤った観念であり,しかしそれが因果関係で連結される場合には真の観念idea veraとなるのです。いい換えれば,半円の回転という観念は,条件①で示されている球の最近原因causa proximaという観点からは真であっても,それを離れて単独である知性のうちにあるとみられるなら,真ではなく偽,つまり誤った観念です。
なぜそれが単独で認識される場合には偽であるかといえば,一回転するという半円の運動は,半円の本性でも特質でもないからです。いい換えればこうした運動を単に半円に基づいて知性が肯定するなら,それは偽であるのです。それが球の発生を肯定する思惟作用と結び付くことで真になるのです。このことは第二部定理一一系 と関係するのですが,今は定義論の方を先に進めていくことにします。
先生は私に対して,自殺する人は不自然な暴力 を使うと言いました。ですが不自然な暴力とで死ぬというなら,普通は私が返したように,殺されるということの方に合致するように僕には思えます。先生が自殺だけを念頭に置いてそのように言ったのは,この時点で自殺,過去のKの自殺 だけでなく,将来の自分の自殺のことも考えていたためだとしか思えません。
不自然な暴力で死んだということから僕が第一に想起してしまうのは,『罪と罰 』におけるマルメラードフ の死に方です。マルメラードフは酩酊状態で,ゆっくりとした速度で走っていた馬車に轢かれて死にました。馬車の御者によれば,マルメラードフが通りを横切ろうとしているのが見えたので,大声で注意しながら馬を止めようとしたのだけれども,マルメラードフの方が真直ぐ馬の前に出てきて,勝手に倒れてしまったということです。多くの目撃者がいて,御者のことばを肯定していますから,それが事実であったのでしょう。
御者はマルメラードフが酩酊状態で前後不覚だったからそういう行動に出たのか,それともわざとそういう行動に出たのかは分からないという主旨のことも言っています。つまりマルメラードフの死というのは,事故死であったのか自殺であったのか分からないというように『罪と罰』の中ではなっています。真相を知っているのはマルメラードフだけであり,しかしマルメラードフはそのまま死んでしまったので,これは分からないとしか結論のしようがありません。僕は自殺であったと読解していますが,事故死だったという読解ももちろん可能でしょう。
自殺であるか事故死であるのか分からない死。しかし自然死ではないということだけは確かでしょう。だから僕はこの死に方から,不自然な暴力による死というのを連想してしまうのです。
スピノザは条件①の定義の実例として,再び円の定義に言及しています。この条件を満たすために,円は,一端が固定しもう一端が運動する任意の直線によって描かれる図形であると定義されなければなりません。そしてその定義によって円という図形が有するすべての特質 proprietasが帰結するとしています。たとえば事前に固有性という語で説明していた,中心から円周に引かれたすべての直線が等しい図形であるということも,この定義から帰結するとしています。ここで条件①と条件②との間には明確な関係があるということが分かるでしょう。
一方,こうした円の定義に関しては,次のことに注意しておかなければなりません。
もしも一端が固定されもう一端が固定されていない直線が現実的に存在するのだとしても,その直線が運動するということは直線の本性のうちに含まれているわけではありません。したがってこの運動の観念は,もし直線それ自体の観念としてみるなら,明らかに混乱した観念です。あるいは実際に直線がそう運動をしたとしても,それを人間の知性が把握するとすれば,第二部定理一七 の様式で発生する表象imaginatioなのであって,やはり混乱した観念であることに変わりはありません。つまりこの限りにおいては,知性による事物の十全な認識に資するような定義であるとはいえないのです。
こうした直線の運動が人間の知性のうちで十全なものとなり得るのは,この運動自体が円の観念と結び付けられる限りにおいてです。いい換えれば原因としての直線の運動の観念と結果としての円の観念が,因果関係の秩序によって結び付けられる限りにおいてです。ここから理解できるのは,スピノザが円の定義として記述しているのは,現実的に存在する直線がある特定の運動をすることによって円という図形が形成されるという意味ではないということです。むしろここでいわれている直線の運動は,物体の運動ではなく任意の思惟作用である,とくに知性が十全な原因causa adaequataとなった,いい換えれば知性の能動 actioによる思惟作用であるということになります。この点において,僕は条件①は条件③とも関係していると考えます。これは知性による肯定だからです。
第四部定理五七 では,高慢な人間は阿諛追従の徒 を愛し,寛仁の人を憎むといわれていました。このとき寛仁と訳されているラテン語はgenerositasです。
正直にいうと僕はこの訳語をあまり好んでいません。寛仁などという語は僕の語彙にはないからです。『破門の哲学 』ではこの語が寛容と訳されていて,おそらく清水も何らかの理由で寛仁という訳語を好めなかったのだと推測します。そして寛容というのは僕の語彙にあって,だから僕も清水と同じように訳したい気持ちもあるのですが,そうは踏み切れない理由がまた別にあるのです。
寛仁というのをスピノザは精神の強さあるいは精神の逞しさのひとつであると規定しています。ところが寛容というのは一般的にはそれと正反対の意味合いをもつものとして表象される場合があると僕には思えるのです。要するにどんなことがあっても許してしまうような人間のことを寛容な人間と表現する場合があると僕には思えるのです。それはスピノザがgenerositasという語で表現しようとした感情,これは欲望cupiditasの一種なので感情なのですが,そういう感情とはまったく異なった思惟作用としてgenerositasを認識していることなのです。
ごく単純にいえば,このことは第四部定理五七でスピノザがいっていることから明白です。もしもすべてを許してしまうような態度がgenerositasであるなら,その人間は高慢な人間のことも許容するということになるでしょう。そうであればその人間が高慢な人間に憎まれなければならない理由はまったくありません。ところがスピノザはgenerositasという態度で高慢な人間に対峙する人間は,高慢な人間によって憎まれるといっているのです。つまりgenerositasである人間は,高慢な人間を許容するような人間ではないということになるのです。
このような事情があるために,僕はgenerositasという語を寛容と訳すことはしません。ですがそれ以外に何か適当な訳語があるかといえば,僕にはこれというものが思いつかないのです。なので岩波文庫版の畠中と同様にこれを寛仁といいます。僕が寛仁といい,寛容といわないということには明確な理由があるということは覚えておいてください。
創造される事物の定義については,スピノザは一と二に分けて説明しています。ですが僕が解するところによれば,スピノザは各々が関係するような事柄として,みっつの条件を示しています。まずその条件を列挙します。
条件①。 創造される事物の定義は,定義される事物の最近原因を含んでいなければならない。
条件②。 創造される事物の定義から,それ以外の概念と結び付けずに,定義される事物のすべての特質が帰結しなければならない。
条件③。 創造される事物の定義内容は,知性によって肯定的に認識ないしは評価されなければならない。
必要と思われる簡単な注釈をまず付しておきます。
条件①で最近原因causa proximaといわれているのは,定義される事物の発生要因,すなわち起成原因causa efficiensのことです。第一部定理二八備考 でいわれているように,最近原因というのはそれ自体で特別な意味を有しますが,ここではそこまで考える必要はないと思います。創造される事物があるということは,それを創造する事物があるということです。そうしたものが創造される事物の定義の中には含まれていなければならないということが,この条件で主眼としていわれていることだと解します。
条件②は,スピノザが事前に内的本性といっていた事柄の具体的な意味と解します。つまりほかのものに依拠せずにそれのすべての特質 proprietasが必然的に流出するものとして,それの内的本性はあるというように解するということです。
条件③は,最も単純にいうなら,定義命題はAはBであるとかAをBと解するというような,肯定文の命題でなければならないということです。ただし,事物を定義する目的は,知性の秩序を転倒させないようにすることでした。つまり知性に対して,あるいは定義されるものの観念の形成に資するためでした。ですから定義された内容について知性がそれを肯定的に認識できるのであれば,それ以上のことは必要ありません。よって文章として記述される命題が否定的になっていても,それが知性による事物の十全な認識に資するなら,そうした命題であっても構いません。知性によって肯定的に評価されるとはそういう意味です。
第28回ブリーダーズゴールドカップ 。
まずビービーバーレルが先頭に立ったのですが,ノットフォーマルが外から交わしていきこちらの逃げに。外に切り返したビービーバーレルが2番手。3番手にティンバレス。この後ろは発走後の正面ではジュエルクイーン,タイニーダンサー,アムールブリエの3頭で併走。向正面に入るあたりでアムールブリエが単独の4番手。5番手にジュエルクイーン。少し控えたタイニーダンサーが6番手という隊列に。
3コーナー手前にかけてアムールブリエまでの4頭と,インを回ったジュエルクイーンまで隊列が凝縮。逃げたノットフォーマールはコーナーの途中で一杯。一時的にビービーバーレルが先頭に立ちましたが,外のティンバレスのさらに外を回ったアムールブリエが4コーナーの出口では先頭に。そのまま後ろを引き離していく一方の圧勝。アムールブリエを追って外を追い上げたタイニーダンサーが,ビービーバーレルとの競り合いを制して7馬身差の2着。ビービーバーレルが1馬身半差で3着。
優勝したアムールブリエ は3月のエンプレス杯 以来の重賞5勝目。第27回 に続く連覇でブリーダーズゴールドカップ2勝目。距離が短いと牝馬同士でも苦戦しますが,2000mあってこのメンバーならほぼ勝てるだろうとみていました。能力通りの勝利といえるでしょう。ただ,牡馬の一線級に混じると互角には戦えないようなので,大レースを目指すとなると少し難しいかもしれません。長距離ならば牝馬同士はもちろん,トップクラスの牡馬が揃わない重賞でも勝つチャンスは多くありそうです。母はヘヴンリーロマンス 。祖母はファーストアクト 。半兄に昨年のシリウスステークス,今年の名古屋大賞典 とアンタレスステークスを勝っている現役のアウォーディー 。半弟に今年のUAEダービー を勝った現役のラニ 。Amour Brillerはフランス語で愛の輝き。
騎乗した浜中俊騎手と管理している松永幹夫調教師は共に連覇でブリーダーズゴールドカップ2勝目。
ここまで説明した後に,スピノザは具体的に事物の定義がどのようなものでなければならないのかということを説明していきます。そのときにスピノザは,まず創造される事物の定義から説明し,次に創造されない事物の定義を説明しています。この順序には違和感があるかもしれません。
スピノザはその直前に,事物を定義する目的として,知性の秩序を転倒させないようにすることを掲げていました。それに則するのであれば,まず創造されない事物の定義について説明し,その後で創造される事物の定義について説明するのが本来の順序だろうと思われるからです。実際に,創造される事物によって創造されない事物のことを認識するなら,これは表象なのであって,秩序を転倒した認識であることになります。それとは逆に,創造されない事物によって創造される事物が認識されるのでなければなりません。
スピノザ自身が主張しているところでこれに該当するのが,神からの人格の剥奪 です。人間的なものとして神を表象することは秩序を転倒した認識です。むしろ人間が神の様態,第二部定理一〇系 に倣うならば様態的変状 modificatioとして認識されることによって,神も人間も十全に認識することが可能になるのです。同様に,僕がよく注意を促す点についていえば,自己原因と原因 は自己原因causa suiの方が本性の上で「先立つ 」のですから,原因のようなものとして自己原因を認識するのは表象であって,秩序を転倒した認識です。それとは逆に原因というのが自己原因の一種であるという仕方で認識されるとき,自己原因も原因も十全に認識することが可能になるのです。
もちろんここでは,各々の定義のあり方についてスピノザは説明しているのであって,創造されないものと創造されるものとの間の関係について何かをいおうとしているのではありません。ですから実際に創造されるものの定義の方が先に説明されているからといって,それが秩序の転倒に直結するというものではありません。ですからこの順序についてそれを問題視することは僕はしませんが,説明の順序として奇妙であると思うことは,スピノザの哲学を理解していることの証拠かもしれません。
旭川で指された第57期王位戦 七番勝負第三局。
羽生善治王位の先手。木村一基八段は矢倉なら受ける気があったようですが先手は角換りを志向。後手はそれは拒否して横歩取り に。早い段階で戦いになりましたが,ずっと均衡がとれていたのではないかと思います。
先手が4筋に歩を垂らして後手が受けた局面。後手は駒得で馬ができているので,徹底抗戦するのは方針としては正しいのではないかと思います。
先手は▲2四桂と跳ねて後手は△3一金と逃げました。このときに跳ねた桂馬は5六にも打つことができた局面で3六に打ったものですが,こちらに跳ねたのでその選択を生かした手順に進んでいたとはいえるでしょう。先手は▲1六飛と回りました。先手にとって最も懸念されていたのが飛車の働きでしたから,こう転換できるようになってその不安は解消できたといえそうです。
△7四香▲7七歩としてから△6四歩 で桂馬を取りにいきました。得していた駒をここに打ってしまうのはもったいない気がしますので,歩を使わせることが重要という判断だったのではないかと推測します。
先手は▲1四飛△同歩と飛車角交換して▲7一角と打ち込みました。そこで△7一飛と打つのでは少し苦しい感はあります。先手は桂馬が生きているうちに攻めきらなければならないとみたようで▲6二角成△同飛と切って▲3二金と打っていきました。入手したばかりの駒を立て続けに打っていますので,手順自体は快調といえるのでしょう。取れば狙った桂馬に逃げられつつ成られるので△5二玉。先手は▲3一金と取るほかありません。
実戦はこれを△同銀と取ったので結局は▲5三桂成 とされ△同玉▲3三飛で先手の勝勢に。第2図で△6五歩と取れないのでは後手が厳しいと思います。それでも後手の負けなら,△6四歩と突いたところで何かほかの手を指さなければいけなかったということではないでしょうか。
羽生王位が勝って2勝1敗 。第四局は22日と23日です。
なぜ事物の本性を見逃すということが危険なことなのでしょうか。他面からいえば,なぜ事物の定義はその事物の本性,内的本性を明らかにしなければならないのでしょうか。スピノザによればそれは,形相的な意味における自然を再現するべきである知性の秩序の連結を転倒させないようにするためです。
これは『知性改善論 Tractatus de Intellectus Emendatione 』の主旨と関係した記述であるといえます。というのも『知性改善論』においては,知性の連結のうちに知性の対象となるような自然を再現させるということが目標のひとつになっているからです。けれどもこれは,『知性改善論』についてだけ妥当するような説明ではありません。あるいは『知性改善論』に限定された目標ではありません。スピノザの哲学全体の目標のひとつであると解しても差し支えないと思います。
『エチカ』では第二部定理七 が論証されるとき,ただ第一部公理四 にだけ訴求されています。したがって第一部公理四の意味 のうちに,すでに平行論 の成立を予感させるものが含まれているといえます。ですからそれが目標として設定されるかどうかは別としても,知性が形相的な意味での自然を再現するという思惟の営みに関しては,否定されることはあり得ず,むしろ肯定されていると解して構わないと思われます。よって形相的自然の知性による再現と関連して記述されていると推定される『知性改善論』の当該部分の定義論の前提は,『エチカ』でも成立すると僕は考えます。
これでみれば,事物の定義というのは,このような目的に資するものでなければならないとスピノザは考えていることになります。いい換えれば,ある事物を定義するということは,それ自体がひとつの目的であるとは考えられていないのです。この部分は意外と重要かもしれません。
もしこのように考えるなら,ことばと観念 が異なるということに注目すれば,もしも定義が知性による自然の十全な認識に役立つ内容を有しているならば,定義されるものがどういうことばで記号化されるのかはさして重要ではないという見解が出てくるでしょう。つまりこの部分には,唯名論 を定義として肯定する要素があると考えられるのです。
スピノザが『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』で示した,神に対する人間の服従の条件 と,『カラマーゾフの兄弟 』におけるイワンの認識 を,「許す」という概念を基軸として比較してみましょう。
スピノザがいっているのは,人間は必ず過ちを犯すのだから,もし神が人間の過ちを許さないのなら,人間は神に対する信仰を有することはできないということです。これは他面からいえば,もしも人間が過ち,あるいはより宗教的に罪を犯すことがあったとしても,悔い改めれば神はそれを許すという意味です。しかしもしも神がそれを許さないとしたら,悔い改めた人間を許す存在は何も存在しないということになるでしょう。したがってこれは,神がいなければ一切の罪が許されるということはない,いい換えれば神が存在する限りにおいて一切の罪は許されるということです。
イワンが思っているのは,ことばの上ではこれとちょうど逆です。スピノザは神が存在する限りにおいてすべては許されるといっているのに対し,イワンは神が存在しなければすべては許されると思っているからです。もちろんこれは,スピノザがいっている許すということと,イワンが思っている許すということの内実が異なっているからそうなっているだけであって,単にことばの上だけで両者が正反対のことを主張していると断定することはできません。けれども,スピノザがいっている神と,イワンが信仰に対して疑義を抱いている神もまた,単に神ということばの上だけで共通性を有しているだけであり,その内実には大きな開きがあるといえます。
スピノザがいっている神というのは,悔い改める人間を許す神なのです。ですがイワンが思っているのはそういう神ではありません。むしろそれが存在しなければすべてが許されるのですから,これは過ちないしは罪を禁ずる神なのであり,また罰する神なのです。
人間が罪を犯すという点についてはスピノザもイワンも同じ認識を抱いているといえるでしょう。しかしそういう人間にとってどういう神が要請されるのかという点で,両者は違った道を歩むことになるのです。
『エチカ』では本性 natura,essentiaに対して特質 proprietasが対置される場合があります。最も顕著な一例をここで示しておきましょう。
スピノザは第三部諸感情の定義六 ,すなわち愛amorの定義の直後に説明を加えています。その冒頭部分は以下の通りです。
「この定義は愛の本質を十分明瞭に説明する。これに反して著作家たちのあの定義,愛とは愛する対象と結合しようとする愛する者の意志である という定義は,愛の本質ではなくその一特質を表明するにすぎない 」。
この説明におけるスピノザの意図は,過去の著作家たちによる愛の定義ははなはだ不十分なものであって,スピノザがしたように定義されなければならないということを強調する点にあります。ですがこの文言から,スピノザが本性に対して特質を対置させていることは明白でしょう。そして同時に,一般に事物の定義は事物の特質によって命題化されてはならず,事物の本性によって命題化されなければならないと考えていることも理解できます。
このことから,『知性改善論 Tractatus de Intellectus Emendatione 』において,直後に特性と置き換えられている固有性というのは,特質,とりわけ事物の特質のうち,その事物と一対一で対応し合うような特質のことであると解するのが妥当であると僕は考えます。実際にそこでスピノザが示している実例は,円の特質ではありながら,円という図形と一対一で対応し合うものになっています。Xの本性というのは第二部定義二 からも明らかにように,必然的にXと一対一で対応し合います。ですがXの特質の場合にはそうではありません。Xと一対一で対応し合う特質もあれば,一対一では対応し合わない特質というのもあるのです。もしもXの特質もまたXの本性と同じようにXと一対一で対応し合うということであれば,共通概念 notiones communesというのは存在し得ないことになります。第二部定理三七 で,スピノザが個物の本性を構成しないといっている共通なものとは,共通の特質のことを意味すると僕は解します。
円の実例の後でスピノザは,事物の特性すなわち特質は,本性が十全に認識されなければ正しく理解されないという主旨のことをいっています。そして本性を見逃すことの危険性に言及します。
第四部定理五七備考 では,自卑的な人間が高慢な人間に最も近いとされています。そしてスピノザはそこで,自卑的な人間が他者に対してどういう態度で挑むのかということも例示していました。それは,やり方は別であったとしても,高慢な人間が迷惑な存在であるのと同様に,自卑的な人間もやはり迷惑な存在なのであるということを示そうという意図がスピノザにはあったのだと僕は考えています。
ですが,高慢な人間と自卑的な人間の間には,それを矯正するという意味においては歴然とした差があります。そのことは第四部定理五六備考のうちに示されています。
「しかし自卑は高慢よりも容易に矯正されうる 」。
高慢な人間も自卑的な人間も,自分自身を正当に評価しない,評価できていないという共通点があります。この点において第四部定理五五 にあるように,高慢な人間も自卑的な人間も自分自身について無知な人間であるといえます。しかし高慢という無知よりは,自卑という無知の方がまだ矯正しやすいとスピノザはいっているのです。
第三部諸感情の定義二八 にあるように,高慢とは自己愛という喜びの一種です。そして第三部諸感情の定義二九 にあるように,自卑は悲しみの一種です。しかるに現実的に存在する人間は,第三部定理一二 にあるように喜びを希求し,第三部定理一三 にあるように悲しみは忌避する傾向があります。ここから分かるように,ある人間が高慢という感情に固執するということがあったとしたら,それは人間の現実的本性 actualis essentiaには合致していることになります。ですが自卑という感情に固執することは,人間の現実的本性にはむしろ相反していることになります。ですから同じ強度の高慢と自卑があると仮定すれば,それが現実的本性に反する分だけ,自卑の方が矯正されやすいということになるのです。
第四部定理七 から,自卑を抑制し得るのはそれと相反する感情 です。高慢に相反する感情よりも自卑に相反する感情の方が生じやすいというのが,自卑は高慢より矯正されやすいということの具体的な意味といえます。
『知性改善論 Tractatus de Intellectus Emendatione 』における定義論では,まず一般的な定義の条件があげられています。それは定義が完全であるといわれるためには,定義される事物の内的本性が明らかにされていなければならないということです。内的本性,実際の記述は内的本質ですが,この場合の内的ということが何を意味するのかは僕には不明です。しかしもしもその点を棚上げしてよいのであれば,ここでいわれていることは第一部定理八備考二 でいわれていることと同じであると解してよいでしょう。
ただし,スピノザはこの部分ではさらなる説明を与えています。それは事物の内的本性ではなくある固有性をもって定義されてはならないということです。
ここでスピノザが固有性というとき,たとえば定義命題がAはBであるなら,AとBとが一対一で対応し合う場合を念頭に置いていると僕は解します。つまり事物とその事物の本性は一対一で対応し合うのですが,ある事物と一対一で対応し合う事柄は必ずしもその事物の本性でだけではないということをスピノザはここでいっているのだと解します。他面からいうなら,AはBであるという命題においてAとBが一対一で対応し合うというだけでは,それはAにとってのよい定義,完全な定義であるとはいえないということをスピノザはいおうとしていると解するのです。
『スピノザ哲学研究 』では,平面上の三角形は内角の和が二直角の図形であるという命題があるとき,三角形と内角の和が二直角の図形は一対一で対応し合うけれども,それは三角形のよい定義ではあり得ないといわれていました。僕もその工藤の見解に同意しています。その理由のひとつがここにあります。単にAとBが一対一で対応し合うだけでは,それは完全な定義の条件を満たすことにはならないのです。
この固有性の実例をスピノザは円で例示しています。中心から円周に引かれたすべての線が相等しい図形であると円が定義されたなら,こうした定義は円の本性を何も明らかにしていないというのがその内容です。そしてスピノザはこれで明らかにされるのは円の特性であるといっています。つまりここでは固有性が特性に置き換えられているのです。
⑫-1 の第2図からはまた駒組。▲4八銀△9四歩▲9六歩△7二玉▲1六歩△1四歩▲3七桂△6二金▲2九飛△1二香▲4七銀と進んで第1図に。
この手順中,1筋を先手から突くのは少しだけ損な意味合いはあったかもしれません。ただ,先手が突かなければ後手から突いてくるでしょうし,そうなれば先手は受けることになるでしょうから,結局のところは同じ局面にと進展したと思われます。
第1図から後手が△6五歩と突いていきました。作戦勝ちの後,指したい手はすべて指したので,このあたりで仕掛けていくのは自然に思います。先手は取らずに▲5七角。ここから△6六歩▲同銀△6四歩というのは不思議な手順で,部分的には後手が一方的に損をしていますが,先手の銀はこの状況だと身動きが取れないので,自陣の傷だけは消しておこうという意図であったと思われます。
先手が▲4五歩と突いたときに後手は△6五桂と跳ねていきました。この手が指したかったために6筋から動いていったということだったのでしょう。
ここは角が逃げる一手です。そして逃げ場所が直後の進展に大きな影響を与えました。
僕は第二部定義六 と第四部定義八 のふたつの定義を除けば,『エチカ』に記述されているその他のあらゆる定義が第一部定理八備考二 で示されている定義の条件を満たしていると考えているといいました。ですが第四部定義一 に関しては,この条件から逸脱しているという見解もあり得るだろうとは思っています。そしてこの場合には,第四部定義二 もまた同じ条件から外れているということになるでしょう。
スピノザは第二部定理八 の中で,個物の形相的本性essentiae formalesといういい方をしています。この定理全体の文脈からして,ここでいわれる形相的本性が意味するのは,知性の外にあるとみられる限りでの,いい換えれば思惟の様態とはみられない限りでの個物の本性のことでしょう。第二部定理六系 では,思惟の様態の事物ではない形相的有という表現がみられますが,そうした形相的有の本性が形相的本性といわれていると考えられます。
第四部定義一や第四部定義二が示しているのは,善にも悪にもそういう形相的本性は存在しないということであると解せます。各々の定義で確知するものといわれるとき,確知というのが何を意味するのかは不明ですが,それが認識されるものであること,すなわち思惟の様態であるということだけは疑い得ません。したがって善も悪も認識される何かなのであって,それを認識する知性を離れて,つまりそうした知性の外に存在することはないということが,これらの定義の意味の中には含まれているといえるからです。つまり善も悪も形相的有としては存在しませんし,形相的有の本性が形相的本性なら,善にも悪にも形相的本性などは存在し得ません。よってたとえば物体としての三角形の本性が存在するようには,善の本性は存在しないし悪の本性も存在しないのです。
したがって,第一部定理八備考二でスピノザが本性というとき,それは形相的本性を意味すると解するなら,これらふたつの定義もまたその条件を逸脱しています。ただ,思惟の様態にも本性はあるのであって,それはこれらの定義に含まれると僕は考えますので,第四部定義一も第四部定義二も,その条件を逸脱してはいないというように僕は考えるのです。
馬場とハンセンの初対決 では,ハンセンが馬場にショルダースルーを仕掛け,馬場がそれを受けるというシーンがありました。とりたてて特別な攻防ではありませんが,これについてはちょっと思うところがあります。
プロレスファンなら承知しているでしょうが,ショルダースルーを巡る攻防には大きく分けてみっつのパターンがあります。ひとつは相手が仕掛けてきたときに素直に受けるというもの。もうひとつは逆に受けることを拒否するというもの。たとえばショルダースルーを仕掛ける選手は前かがみになりますので,胸板の辺りを蹴り飛ばすというのがこのパターンの代表例です。もうひとつが受けると受けないの中間で,切り返すというもの。この代表的なのはショルダースルーを仕掛けた相手に回転エビ固めを仕掛け返すというもの。このときは回転エビ固めを巡る攻防というのもあって,ショルダーするを仕掛けた選手が回転エビ固めをさらにヒップドロップで切り返すというようなパターンも見られます。また,相手の仕掛けたショルダースルーの勢いをもらって,前方宙返りのように一回転して立ち,振り向いてきた相手に対して別の攻撃を繰り出すというようなものも僕はこのパターンに含めます。
馬場は大型でしたが,運動神経は悪くなく,意外なほど器用なところもあったようなので,もしかしたら前方宙返りは無理にしても回転エビ固めくらいはやろうと思えばできたかもしれません。ただ,馬場のような大型選手がそのような切り返しをすることは相応しくありませんし,ファンに対して説得力を欠くような面があるということは馬場自身がよく心得ていたと思います。なのでハンセンがショルダースルーを仕掛けてきたならば,馬場には受けるか受けないかのふたつの選択肢しかなかったと僕は判断します。
馬場はその選択肢の中から,このときは受ける方を選んだのだと僕は思っています。ことによるとその選択には理由があったかもしれません。
第四部定義一 はその文言を読めば明白なように被造物の定義です。この定義でいわれている我々というのが人間ないしは人間の精神を意味するのは疑い得ません。第二部定理一〇系 から明らかにように人間の精神は被造物です。被造物である人間の精神が確知する何らかの事柄が定義されているのですから,それは被造物の定義といわざるを得ません。もちろん,確知されるものに注目すれば,それは被造物である場合もあれば被造物でない場合もあるでしょう。ですがそのように確知されるものの本性について定義されているのではないということは明らかなので,これは被造物の定義なのです。つまり善は被造物なのです。僕たちはあまり善を被造物とはみなさないでしょうから,この点については注意しておく必要があります。
スピノザは神は神自身の本性の必然性によって働くと考えています。ですがスピノザは第一部定理三三備考二 の中で意志と善意 を比較し,神が意志の自由によって働くとする意見は,神が善意によって働くという意見ほどには真理から乖離していないと主張していました。つまり善が神の本性に属するという意見は,自由意志が神の本性に属するという意見よりずっと混乱して神を認識しているといっているのです。このことからも善が神の本性には属さないということ,すなわち被造物でないものには属さないということは理解できるでしょう。
さらにいうと,神が何事かを認識すると仮定しても,神が善を認識するということはないのです。詳細は省きますがこのことは第四部定理六八 と第二部定理七系の意味 から帰結しなければなりません。また同じことは,第四部定理八 に注意するなら,第五部定理一七からも帰結するでしょう。
「神はいかなる受動にもあずからず,またいかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされない 」。
『エチカ』内部での意味合いは,この定理は神が人を愛することもないし憎むこともないということを帰結させるために配置されているといえるかもしれません。ですがこの定理から神が善も悪も認識しないということは明白でしょう。つまり善も悪も被造物であると考えなければならないのです。
『思い出す事など 』の中では,漱石はニーチェについても少しだけ書いています。
漱石は二十三の中で,今の,というのはもちろん漱石がそれを書いているとき,つまり1910年頃のことですが,青年が自我の主張を根本義にしているといっています。その主張自体は小憎らしいと思えるものであるけれども,青年たちをそう主張せざるを得ないほどに追い詰めたのはこの時代の世間,とくに経済状況であるとしています。基本的に漱石はこの時代というものが青年世代を虐待しているのであって,青年たちが自我を主張することのうちには,首を吊ったり身投げしたりして自殺するのと同じくらい悲惨な煩悶が含まれているのだという考え方をしています。漱石のことを慕って家を訪問してくる人は少なくなく,そうした人たちの中にはおそらくここで漱石が青年といっている世代の人もいたと思われますので,たぶん漱石はそういう交際の中の実感としてそのように思っていたのではないかと思います。
ここで急にニーチェが出てきます。漱石は虐待されている青年たちとニーチェを重ね合わせているのです。漱石によればニーチェは多病で弱い人でした。また,孤独な書生でした。だからツァラトゥストラはかくの如く叫んだのだといっています。
漱石が『ツァラトゥストラはこう言った』を読んでいたのは間違いありません。そしてそれがニーチェ自身の叫びであったということも間違いないと思います。つまり漱石は,この本を自我の叫びであるというように解していたのです。そしてその理由は,ニーチェが弱い人間であったことに由来していると考えていたことになります。
たぶんニーチェは自分が弱い人間とみなされることを嫌悪するだろうと思います。そのことを漱石が気付いていなかったとも僕は思いません。それでも漱石からみると,ニーチェは孤独な弱い人間であったのです。
それが被造物の定義Definitioであるかそれとも被造物の定義ではないか,あるいは僕が示したような種類の,被造物であるとも被造物でないとも断定することができないものの定義であるのかという分類を持ち出す場合には,誤って理解されやすそうな定義というのがひとつあります。それは善bonumを定義した第四部定義一です。さらにこの定義は,第一部定理八備考二 でいわれている内容との関連からも指摘しておきたいことが残っていますので,ここで改めて詳しく分析してみます。
「善とは,それが我々に有益であることを我々が確知する (certo scimus )もの,と解する 」。
実はこの定義には解釈の上で難題が含まれていると僕は考えています。それはここで確知するといわれていることが,どういう意味を有しているのかということです。もしそれが確実に認識するcognoscereという意味であるなら,スピノザの哲学においては十全に認識するというのと同じ意味でなければなりません。確かにそのような意味で確知すると記述されて不思議ではないと思います。ですが,もしも僕たちがそれを確実であると思い込むといった場合に関しても,それを確知すると記述しておかしくはないように僕には思えるのです。この場合には思い込みが含まれますから,必ずしもそれを十全に認識しているとは限らず,むしろ混乱して認識している場合も含まれ得ると僕は考えます。とりわけスピノザは第四部定理八 では意識された喜びlaetitiaを善と等置し,意識された悲しみtristitiaを善の反対概念である悪malumと等置しています。第三部定理五九 と第三部定理一 から,意識された悲しみというのが十全な認識cognitioであることは不可能です。であるならばそこで同時に語られている意識された喜びについても,スピノザは必ずしも十全な認識だけに限定しているとは僕には思えない面があるのです。
とはいえ,こうしたことは定義論とは無関係です。『スピノザ哲学研究 』で僕が考えてみたいもうひとつ別の課題が,このことと大きく関係するので,ここで先走って説明しておいたまでです。ですからこの問題に関しては,スピノザの定義論に関する僕の見解のすべてを表明し終えた後で,工藤の論考を基に改めて深く考察していくことにします。
スピノザは第四部定理五七備考 で,自卑的な人間に最も近いのは高慢な人間であるといいました。このことを『エチカ』の定理の中で裏付けるなら,第四部定理五五を援用するのが最適だと思われます。
「最大の高慢あるいは最大の自卑は自己に関する最大の無知である 」。
スピノザはこの定理にきちんとした証明を与えていません。単に高慢を定義した第三部諸感情の定義二八 と自卑を定義した第三部諸感情の定義二九 から明白だといっているだけです。
高慢というのは自分自身について正当以上に評価する感情であり,自卑というのは自分自身について正当以下に感じる感情のことでした。それら各々の感情がどのような起成原因をもっているのかということを別にして,これらの感情には,自分自身について正当に評価していないという共通項があります。この共通項のことを,第四部定理五五ではスピノザは自分自身に対する無知といい換えたのです。
自分自身を正当に評価しないということは,その人間の精神のうちで必然的に発生します。これは第一部公理三 から明らかです。したがって,ある人間が自分を正当に評価しないということと,その人間が自分を正当に評価することができないということは同じことです。各々の感情の定義からは自分を正当に評価しないという意味合いの方が強く感じられ,無知といういい回しからは自分を正当に評価できないという意味合いの方が強く感じられるかもしれません。ですがそれは同じことなのですから,スピノザがしたようないい換えが実際に可能なのです。
定理の方は,最大の高慢と最大の自卑が最大の無知といういわれ方になっています。ですが高慢と自卑の共通性を考えるならば,それが最大であるか最大でないかを考慮する必要はないと僕は考えます。最大であろうとなかろうと,それが自己についての無知であることには何ら変わりはないからです。
『知性改善論 Tractatus de Intellectus Emendatione 』で示されている定義の条件は,創造された事物を定義する場合と,創造されない事物を定義する場合に分けられています。『エチカ』でいえばこれは第一部公理一 で現れる分類です。すなわちほかのもののうちにあるものを定義する場合と,それ自身のうちにあるものを定義する場合の分類といえます。あるいは所産的自然 Natura Naturataに属するものを定義する場合と,能産的自然 Natura Naturansに属するものを定義する場合の分類といえるでしょう。
スピノザはこれ以外のパターンには何も言及していません。第一部公理一の分類がこの分類に妥当するなら,ほかには何も言及しないでよいと思われるかもしれませんが,もしスピノザがこの分類によって,何かが定義されるすべての場合について説明できていると判断していたなら,僕はスピノザは誤りを犯していたと解します。何かが定義される場合には,それが被造物であるか被造物でないかを判断できない場合があり得ると僕は考えるからです。
たとえば,第二部定義二 は本性essentiaを定義しています。本性というのは必ず何かの本性であることがこの定義から理解できます。もしもそれが神の本性であるならそれは被造物ではありません。ですが人間の本性であるならそれは被造物です。ですから本性をそれ自体で一般に定義しようとするなら,それは被造物の定義であるとも被造物の定義でないとも確定できないと僕は考えるのです。
同じように,第三部定義二 では能動 actioが定義されています。これもそれを神の能動と解するなら,第一部定理三四 からしてこれを被造物と考えることはできません。しかし人間の精神の能動と解するなら,たとえば第二部定理九 によってそれは被造物であるとみなされなければならないと僕は考えます。ですから能動を一般的に定義するなら,それは被造物の定義であるとも被造物の定義でないとも決定できないと僕は考えるのです。
『エチカ』の中にはほかにも同様の定義があります。またこれは定義の一般論なので,『エチカ』では定義されていないけれども定義することが可能なものまで含めれば,そうしたものがほかにも出てくるでしょう。なので僕はこの規定が不十分と考えるのです。
第37回サンタアニタトロフィー 。
サトノタイガーがハナへ。ゴーディー,リアライズリンクスがそれぞれ半馬身差で外に並んでこの3頭で先導するレース。ムサシキングオー,ショウナンラムジ,インサイドザパークの3頭が集団で好位を形成。テムジンはこれらをみる位置を単独で追走。その後ろにミラーコロ,ジャルディーノ,アメージングタクトの3頭。前半の800mは50秒8のスローペース。
向正面半ばからアメージングタクトが外を上昇。前をいく3頭のさらに外の4番手に取りつきました。このまま3コーナーに入ると最初に苦しくなったのがゴーディーでこれは後退。直線に入るとサトノタイガーを交わしてリアライズリンクスが先頭に。追ってきたのはアメージングタクトのさらに外に進路を取ったテムジンでしたが,抜け出したリアライズリンクスには追いつくことができず,優勝はリアライズリンクス。テムジンが1馬身4分の1差の2着で同一厩舎のワンツー。早めに動いたアメージングタクトが3馬身差で3着。
優勝したリアライズリンクス は一昨年12月のゴールドカップ 以来の南関東重賞2勝目。その後もいいスピードをみせるレースを続けていましたが,昨年後半からはそのスピードが影を潜めるようになってしまいました。こういうタイプの馬はなかなか復活するのが難しいのですが,今日はスムーズなレースができたこともあっておよそ1年4か月ぶりの勝利。馬自体の傾向が以前とは変わってきているのは明らかなので,以前とは違ったイメージをもつ必要がありそうです。父は2000年のシンザン記念,スプリングステークス,鳴尾記念,2001年の京都金杯,2002年の京都金杯を勝ったダイタクリーヴァ 。その父はフジキセキ 。母の父はマイネルラヴ 。Lynxはオオヤマネコ。
騎乗した大井の的場文男騎手は大井記念 以来の南関東重賞制覇。第2回,4回,7回、21回、27回 を制していて10年ぶりのサンタアニタトロフィー6勝目。管理している浦和の小久保智調教師 はサンタアニタトロフィー初勝利。
スピノザによる第二部定理四九証明を読む限り,平面上の三角形の観念の本性に,内角の和が二直角であることを平面上の図形について肯定する意志作用 volitioが属していると,スピノザ自身が考えていることは間違いないといえます。同時に僕たちもこれらふたつが同一ではないというように認識する方がむしろ困難であるといえます。なのでこの例を定義論の範疇で考察します。
三角形とは,内角の和が二直角である図形であるという命題があったとしましょう。あるいは『エチカ』の多くの定義と合致するように,三角形とは,内角の和が二直角の図形のことと解するという命題があったとしても構いません。仮にこれを定義命題と解した場合には,定義されるものと定義された内容が一対一で対応し合っています。事実,内角の和が二直角である図形は,平面上では三角形だけなのであって,それ以外のいかなる図形のことも正しく説明できないからです。そしてこの定義内容が三角形の本性に属することをスピノザは認めていると理解できます。よって第一部定理八備考二 でスピノザが示している定義の条件も満たしています。つまり,書簡九 のいい回しに倣えば,これはよい定義であるように思えます。
ところが,『スピノザ哲学研究 』では,工藤はこれは三角形の定義ではあり得ないといっています。僕も工藤と同じように考えます。これらの命題をいずれも,スピノザは三角形の定義であると認められない筈なのです。なぜなら,『エチカ』では詳しくは触れられていないですが,スピノザの哲学の全体では,第一部定理八備考二で示されていること以外にも,ある命題がその命題の主語の定義であるために必要とされる条件というものがあるからです。そのことをスピノザはいくつかの場所で述べています。なので『エチカ』の場合だけそうした条件から除外されるというようには考えにくいと僕は考えるのです。
スピノザが定義論としてある程度まとまった論述を展開しているのは,『知性改善論 Tractatus de Intellectus Emendatione 』の(九五)から(九七)にかけてです。この部分も僕は定義論として十分とは考えていませんが,ここからはそこでいわれていることを綿密に検証していきます。
被災地支援競輪として実施された弥彦記念の決勝 。並びは浅井‐北野‐浜口の中部,川村‐沢田の近畿,松浦に渡辺で小野と諸橋は単騎。
浅井と渡辺でスタートの取り合い。内の浅井が前に出て前受け。4番手に松浦,6番手に川村,8番手に諸橋,最後尾に小野で周回。残り2周のホームに入るあたりで後方の川村と中団の松浦がほぼ同時に上昇開始。まず浅井を叩いたのは松浦。バックに入り打鐘前に川村が前に。しかし打鐘後のコーナーでは浅井が早くも巻き返していき,ホームで川村を叩きかまし先行。川村が4番手,6番手に諸橋,7番手が小野,8番手に松浦の一列棒状でしたが,バックでは3番手の浜口と4番手の川村の間が開きました。こうなると中部勢の争い。早めの先行になったのでどうかと思われましたが浅井が逃げ切って優勝。マークの北野が1車輪差の2着で中部のワンツー。コーナーで内目を回り直線でバンクの中ほどに出てきた諸橋が半車身差で3着。
優勝した三重の浅井康太選手 は前回出走のサマーナイトフェスティバル に続いての優勝。さらに前々回出走の福井記念 も優勝しているのでこれで3開催連続の優勝となる記念競輪20勝目。弥彦記念は初優勝になりますが,2011年の寛仁親王牌 は当地で優勝しています。このレースはほかの有力選手が敗退したため,力量的には負けられないくらいの組合せに。前を取って引くのは得意の組立ですが,隊列が短くなったのが打鐘が入った直後だったため,やや早めに駆けていくことになりました。その瞬間を見逃さなかったのもさすがでしたし,そこから駆けていって逃げ切ったのですから,とてもよい内容を伴っての優勝といえるでしょう。中部ライン以外の選手にとっては北野の位置を狙うのが優勝への近道だったと思いますが,浅井にそういう展開にさせてもらえなかった面もあったと思います。川村にとっても浅井があの段階から駆けてくるのには不意を突かれたかもしれません。
スピノザはおそらく第二部定義六 で実在性 realitasと完全性perfectioは同一であるというのと同じ意味合いをもって,第二部定理四九系 では意志 voluntasと知性 intellectusは同一であるといっているのです。ですがこれが同じ意味合いをもつということを,僕たちは経験的には理解しにくいのではないかと思います。なぜなら僕たちは,個々の観念とその観念を肯定ないしは否定する個々の意志作用 volitioについては,それを意識するという場合には別個に意識するからです。このために僕たちは個々の観念と個々の意志作用を別個の思惟の様態であるかのように認識しがちです。なのでスピノザが意志と知性の関係について述べている事柄は,僕たちがある思惟の様態を観念とみるか意志作用とみるかは,観点の相違に帰着すると解しておく方が,スピノザがいっていることを間違えずに理解しやすいだろうと僕は思っています。ですが実在性と完全性の場合にはこのような意味において観点の相違に帰着させることはできません。たとえば僕たちがある事物の実在性を認識したということが,その事物の完全性を認識したということなのだというように解さなければならないからです。よってスピノザは同じ意味合いでいっている筈ですが,むしろ同じ意味合いに解さない方が,誤りに陥りにくいだろうと僕は思います。このこともまた,知性と意志の関係を第一部定理八備考二 と関連させた定義論の範疇で僕が扱わないことの理由です。というよりこちらの方が大きな理由だといっておきましょう。
しかし,スピノザがこのことを導くために用いている例証の方は,知性と意志の関係よりも実在性と完全性の関係の方に近かろうと僕は思います。三角形,スピノザはそういういい方はしませんが,僕は正確を期すために平面上の三角形といいますが,平面上の三角形というのと,内角の和が二直角である平面上の図形というのは,同一の図形のことなのであって,この相違を観点の相違に帰着させるのはむしろ難しいと思えるからです。
なお,スピノザの例証は思惟の様態としての三角形ですが,ここでは物体としての三角形と考えても構いません。三角形の観念と三角形というのは,この場合には同一個体 だからです。