スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マルペンサ&別の解釈

2023-01-16 19:17:14 | 血統
 ホープフルステークスを勝ったドゥラエレーデの祖母は2006年にアルゼンチンで産まれたマルペンサという馬です。Malpensaはミラノにある国際空港の名前。ナイスランディング,ローザネイと同じくファミリーナンバー1-w
                                        
 アルゼンチンでGⅠを3勝した馬。競走生活を引退した後で輸入され,繁殖生活は日本で送りました。
 輸入されて最初に産んだのがサトノダイヤモンド。2016年のJRA賞で最優秀3歳牡馬に選出されました。
 その後に残した産駒は3頭だけ。すべて現役は退いています。この3頭のうち,サトノダイヤモンドのひとつ下の半妹とふたつ下の半妹は牝馬で,いずれも繁殖牝馬になりました。ドゥラエレーデの母になったのはふたつ下の牝馬の方で,こちらもドゥラエレーデが初めての産駒になります。
 マルペンサはすでに繁殖生活を送っていませんので,2頭の牝馬が今後の一族を担っていくことになります。マルペンサもドゥラエレーデの母も,最初の産駒が大レースを勝ちました。サトノダイヤモンドのひとつ下の半妹,つまりドゥラエレーデの母のひとつ上の半姉は,重賞で2着が2回,3着が1回と,未勝利に終わったドゥラエレーデの母よりも競走馬として活躍し,そのために繁殖牝馬となったのは半妹よりも後になりました。産駒は今年が2歳なので,順調にいけば今年か来年にデビューするでしょう。初産駒が活躍する傾向の一族ですから,注目してみるのもよいかもしれません。

 第五部定理四二備考で,賢者が存在することをやめることはないといわれていることは,現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちに何らかの十全な観念idea adaequataがあるなら,その人間はそのものについて誤謬errorを犯すということはないので,賢者として存在し続けるというように解釈することは可能です。そしてこの解釈が,現実的に存在するある人間についてその人間を賢者という場合,あるいは同じことですが現実的に存在するある人間を賢者としてみる場合に,最も適切な解釈であると僕は思います。しかし一方でこの部分は,それとは別の,字義どおりに近い意味で解釈することもできますので,その解釈についても僕の見解を述べておきます。
 第五部定理四二備考で,無知者は存在することをやめるという場合,それは第一義的に解釈すれば,文字通りに無知者が存在することをやめるのでなければならないということだと僕はいいました。無知者は現実的に存在するある人間として想定されているわけですから,人間が存在することをやめるというのは,その人間が死ぬという意味です。しかしこのような意味でその備考Scholiumを解釈することができないということは明白です。明白であるということを知っていながら僕があえて第一義的にはこのような意味でなければならないということをいっておいたのは,その後の賢者の場合と比較する上でのことです。
 賢者は賢者としてみられる限りで存在することをやめないというのは,第一義的には賢者は賢者として存在し続けるという意味なのであって,それは賢者は死ぬことはないという意味でなければなりません。しかしこれは不条理です。賢者として想定されているのも無知者と同様に現実的に存在する人間なのであって,人間は現実的に存在するものとしてみられる限りは必ず存在することをやめるからです。これは生きている人間は必ず死ぬという意味であって,賢者であろうと無知者であろうと関係ありません。もっといえば,持続duratioのうちに存在するいかなるものもいずれは現実的に存在しなくなるので,このことは現実的に存在するいかなる個物res singularisにも妥当します。現実的に存在するとは持続のうちに存在するという意味なのです。
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和歌山グランプリ&虚偽の認識

2023-01-15 19:31:05 | 競輪
 和歌山記念の決勝。並びは新田‐守沢‐山崎‐佐藤の北日本,脇本‐古性‐藤田の近畿で真杉と深谷は単騎。
 新田がスタートを取って前受け。5番手に深谷,6番手に真杉,7番手に脇本で周回。残り2周のバックに入ったところから脇本が発進。新田と並んだところで打鐘。ここから新田は突っ張り,先行争いに。ホームで脇本が叩いて前に出ましたが,先行争いのあおりで新田が番手に入りました。3番手は確保した古性はすぐに追い上げ,新田の外で併走。競りがバックの出口まで続き,古性が奪い返しました。競りの後ろにいた守沢は半ば自力で発進したものの,前には追い付けず。直線は古性が脇本に迫りましたが差すには至らず,逃げ切った脇本の優勝。古性が4分の3車輪差の2着に続いて近畿のワンツー。守沢が半車身差で3着。守沢マークから外の方に進路を取った山崎が4分の1車輪差で4着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は競輪グランプリに続いての優勝。記念競輪は昨年9月の向日町記念以来となる優勝で11勝目。GⅢは12勝目。和歌山記念は初優勝ですが,2020年の高松宮記念杯を当地で勝っています。グランプリの内容から復活しているので,最有力候補。単騎の深谷がかまして後方になってしまうと苦しむかもしれないと思っていましたが,深谷も真杉も脚を使うことができない展開になりました。新田は突っ張ったというより番手を狙いにいったのではないかと思いますが,一旦は奪われた古性がすぐに追い上げることによって事なきを得ました。そういう意味では古性の役割が大きかった上での結果だったといえるでしょう。

 Xの混乱した観念idea inadaequataとXの十全な観念idea adaequataは,同じ人間の精神mens humanaのうちに同時にあることができます。現実的に存在するある人間の精神のうちにXの混乱した観念があるとき,その精神のうちにXの十全な観念が発生してもXの混乱した観念は排除されないとか,現実的に存在するある人間の精神のうちにXの十全な観念があるとき,同じ精神のうちにXの混乱した観念が発生することは妨げられないということは,そのようなことを意味するからです。ただ,Xの十全な観念とXの混乱した観念が同じ人間の精神のうちに同時にあるときには,その人間はXの混乱した観念については,それが混乱した観念であることを知ります。このことは第二部定理四二第二部定理四三から明白なのであって,もし現実的に存在するある人間の精神のうちにXの十全な観念があるなら,その人間はそれがXの十全な観念であるということを知るのであって,そのことによってXの真理veritasと虚偽falsitas,いい換えればXの十全な観念とXの混乱した観念とを区別することができるからです。よってこの場合にはその人間がXの混乱した観念を真理であると思い込むこと,あるいは同じことですがXの混乱した観念をXの十全な観念であると思い込むことは絶対に生じません。
 第五部定理四二備考で,賢者は賢者としてみられる限りではその存在をやめることはないといわれるとき,その意味を上述の主旨に関連させて解釈することは可能でしょう。すでに考察しておいたように,現実的に存在する人間は,必ずある観念から別の観念へと移行するのであって,それは十全な観念から混乱した観念あるいは表象像imagoへと移行することも含みます。ただそのときに賢者と無知者を分かつのは,十全な観念を認識しているか混乱した観念を認識しているのかという差異にあるのではなくて,混乱した観念を虚偽であると知っているか真理であると思い込んでいるかという差異にあるのでした。したがって,Xの十全な観念がある人間の精神のうちにある限り,その人間はXの混乱した観念を認識したとしても,常にそれが虚偽であると知ることになります。つまりその人間はXについて賢者であることをやめることはないでしょう。
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バイザキャット&再考察

2023-01-14 19:33:37 | 血統
 アユサンの母は1995年にアメリカで産まれたバイザキャットという馬です。アマゾンウォリアー,ファンシミン,マイグッドネス,アンティックヴァリュー,ソルティビッドと,日本で多くの活躍馬が出ているファミリーナンバー9-fの一族。
                                        
 アメリカで4頭の産駒を産んでから輸入されました。アユサンは日本で4頭目の産駒で,産駒の中で活躍した初めての馬となりました。
 アユサンの5つ下に全妹がいて,この馬は重賞は勝てなかったものの,2017年の阪神ジュベナイルフィリーズで3着,翌年のフィリーズレビューと紫苑ステークスで2着になり,桜花賞とオークスで5着になるなど,2頭目の活躍馬となっています。
 アユサンが繁殖牝馬となって5頭目の産駒が朝日杯フューチュリティステークスを勝ったドルチェモア。こちらもアユサンの産駒としては初の活躍馬といえる存在です。
 多くの活躍馬が出ているわけではありませんが,重賞を勝った2頭は大レースまで手が届きました。現状では活躍馬が続出するわけではないけれども,トップクラスまでいく馬がぽつぽつと出てくる一族という傾向になっています。

 第四部定理一の意味は,本来はある人間の精神mens humanaのうちにあるXの十全な観念idea adaequataは,Xの混乱した観念idea inadaequataの積極性を排除しないということです。つまり,現実的に存在するある人間の精神のうちにXの混乱した観念があるとき,その同じ人間の精神のうちにXの十全な観念が発生したとしても,Xの混乱した観念は除去されないということであり,また同時に,現実的に存在するある人間の精神のうちにXの十全な観念があったとしても,その同じ人間の精神のうちにXの混乱した観念が発生することは妨げられないということです。したがって,ある人間の精神のうちにAの十全な観念があり,それがそれとは別のBの混乱した観念あるいは表象像imagoに移行するということを直接的に意味するものではありません。とはいえ,ある人間の精神のうちにXの十全な観念があっても,その同じ人間の精神のうちにXの混乱した観念が発生し得るということについては明確に肯定しているとみなければなりませんから,ある人間の精神が,Xの十全な観念からXの混乱した観念へと移行するということについては肯定しているとみなければならないのであり,人間の精神が十全な観念から混乱した観念へと移行し得るということについては,この定理Propositioが認めているとみてよいでしょう。
 したがって,ある人間の精神が十全な観念だけにとどまるということはないのであり,第五部定理四二備考で賢者が存在することをやめないといわれているとき,賢者は何らかの十全な観念から混乱した観念へと移行することはないという意味に解するのは無理があると僕は考えるのです。ただこの意味でも解釈することができないとなると,そこの部分でスピノザがいわんとしていることが何であるかということを考察する際に,あり得るとした解釈のすべてが否定されてしまうことになります。しかしそれらのうちのどれかに解釈することができるのは確実だといわなければならいので,ここまでの考察を生かした上で,再び適切な解釈はどれであるのかということを考えていきます。
 第四部定理一は,Xの十全な観念とXの混乱した観念が,現実的に存在する同じ人間の精神のうちに同時に存在するということも示します。
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リンデンリリー&十全な観念からの移行

2023-01-13 19:20:40 | 名馬
 東京2歳優駿牝馬を勝ったメイドイットマムの4代母はリンデンリリーです。5代母がシュリリー
 デビューは2歳の12月。ダート1400mの新馬を勝ちました。年明けに芝1200mのオープンに出走するも大敗。ここから休養に入ります。
 復帰したのは7月。ダート1700mの特別競走で4着。同じ条件の一般競争を2着になった後,芝2000mの特別戦で2勝目をあげました。そのまま当時は10月に行われていたローズステークスに出走するとこれを優勝して重賞の勝ち馬に。このレースは当時は3歳の限定戦だったエリザベス女王杯のトライアルだったのでそのまま出走。するとこのレースも勝って大レースの勝ち馬となりました。
 この後,重度の故障を発症してしまったためこのまま現役を引退。実質的には最後の3連勝のレースしか適した条件に出走しなかったという馬で,その中で大レースまで制したのですから,かなり素質が高かったのだろうと思います。
 競走馬としては致命的な重傷を負ってしまいましたが,幸いなことに繁殖牝馬になることはできました。産駒の1頭であるヤマカツリリーは2003年にフィリーズレビューを勝ちました。牝系は広がっていますので,またどこかで活躍馬が出るということがあるかもしれません。

 十全な観念idea adaequataであれ混乱した観念idea inadaequataであれ,人間の精神mens humanaがある特定の単一の観念にとどまるということは現実的に生じません。したがって,第五部定理四二備考で賢者が存在することをやめないといわれるとき,その賢者がある特定の十全な観念にとどまり,その他の観念に移行することはないといわれていると解することはできません。
                                   
 では十全な観念から十全な観念へ移行するという意味でそのようにいわれているのかといえば,その解釈にも無理があるように僕には思えます。これもすでに説明しましたが,人間は精神の能動actio Mentisにあるとみられる状況のときにも,第四部定理四系は適用されるのであり,いくらかの受動passioに隷属しているからです。したがって,確かに第二部定理四〇にあるように,人間の精神のうちにある十全な観念があるとき,その観念を原因causaとして何らかの観念が生じるなら,その生じた観念もまた十全な観念です。しかしこのことは,だから人間の精神は十全な観念からは十全な観念へのみ移行するということを意味しているわけではありません。集中力の何たるかを説明したときにもいったように,人間の精神のうちに十全な観念があるのだとしても,その人間はその十全な観念を原因とはしないような表象像imagoに移行するということがあるのであって,それは第三部定理七にいわれている人間の現実的本性actualem essentiamにほかならないからです。いい換えれば人間の現実的本性は,十全な観念から別の原因によって混乱した観念へ移行するようになっているのです。第四部定理一は,混乱した観念の積極性は十全な観念によって排除されないという意味のことをいっていますが,これは人間の精神のうちに混乱した観念が発生するということは,人間の精神のうちに十全な観念があるというだけでは妨げられないといっているのと同じです。虚偽の積極性というのはあらゆる混乱した観念に含まれている要素なのであり,混乱した観念に含まれている積極的なものが除去されないというのは,混乱した観念が排除されないといっているのと同じだからです。もしもそれが同じではないとしたら,混乱した観念がなくてもその積極性はあるといわなければならず,不条理だからです。
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JRA賞&十全な観念の移行

2023-01-12 19:27:35 | 中央競馬
 昨年のJRA賞の競走馬部門は10日に発表されました。
 年度代表馬は天皇賞(秋)有馬記念を勝ったイクイノックス。部門別では最優秀3歳牡馬。クラシックを未勝利で秋に古馬を相手に大レースを2勝した馬が年度代表馬に選出されるのはシンボリクリスエス以来。今年はシンボリクリスエスに比肩する活躍が期待されます。
 最優秀2歳牡馬はサウジアラビアロイヤルカップと朝日杯フューチュリティステークスを勝ったドルチェモア。文句なしの選出です。
 最優秀2歳牝馬は阪神ジュベナイルフィリーズを勝ったリバティアイランド。アルテミスステークスは勝ちを逃したという一戦で,この馬の競走馬キャリアの中で残念だったということになる可能性もありそうです。
 最優秀3歳牝馬は桜花賞オークスを勝ったスターズオンアース。秋に順調にレースを使えなかったのは残念です。
 最優秀4歳以上牡馬は日経賞と天皇賞(春)宝塚記念を勝ったタイトルホルダー。春の時点では年度代表馬の最有力候補でした。凱旋門賞はともかく有馬記念で大きく負けたのは心配されるところです。
 最優秀4歳以上牝馬はオールカマーとエリザベス女王杯を勝ったジェラルディーナ。昨年の秋から完全に本格化したとみていいでしょう。
 最優秀短距離馬は富士ステークスとマイルチャンピオンシップを勝ったセリフォス。この部門は2023年からスプリンターとマイラーの二部門に分けられることが決定しています。
 最優秀ダートホースはフェブラリースステークス南部杯を勝ったカフェファラオ。ダート戦は多くのレースに出走するのが一般的なので,この馬のように年内に3戦,そのうち1戦が芝だった馬が選出されるのは,今後も含めて極めて珍しいケースになるでしょう。
 最優秀障害馬は中山グランドジャンプを勝ったオジュウチョウサン。これは春秋の大レースの勝ち馬のうち,それ以前の実績が評価されたという感があります。2016年,2017年,2018年,2021年に続き2年連続5度目の受賞。これは大記録となります。すでに競走馬としての登録は抹消されました。

 表象像imagoの移行がだれにでも生じるように,十全な観念idea adaequataから別の十全な観念への移行もだれにでも生じ得ることです。他面からいえば,ある特定の観念,これは十全な観念であろうと混乱した観念idea inadaequataであろうと同じですが,現実的に存在する人間の精神mens humanaが,あるひとつの特定の観念にとどまって,それ以外の観念へ移行することはないということはあり得ません。混乱した観念いい換えれば表象像の場合についてその移行がどのような様式の下で生じるかということはすでに示してありますので,ここでは十全な観念が別の十全な観念へ移行するということを,ある具体例によって説明します。前もっていっておけばこれは具体例のひとつであり,十全な観念が別の十全な観念に移行する様式一般を示すわけではありません。
                                   
 第二部定理四〇は,現実的に存在する人間の精神のうちにある十全な観念が存在するなら,その十全な観念を原因causaとして生じるあらゆる観念は十全な観念であるという意味のことをいっています。そして第二部定理三八系は,現実的に存在する人間の精神のうちにはいくつかの共通概念notiones communesがあるといっています。共通概念は観念としてみられる限り,個物res singularisの観念ではありませんが,十全な観念であることに相違ありません。つまり現実的に存在する人間の精神のうちには,現にいくつかの十全な観念が存在することになります。
 次に第一部定理三六は,あるものの本性naturaからは必ず何らかの結果effectusが生じるといっています。スピノザの哲学では事物の本性というのはその事物の存在existentiaを鼎立するものですから,これは何らかのものが存在するならそのものから必ず何らかの結果が生じるという意味に解して問題ありません。よって現実的に存在するある人間の精神のうちに何らかの十全な観念があるのであれば,この観念を原因として何らかの結果が生じます。当然ながらそれはその同じ人間の精神のうちに生じるのであり,かつそれは第二部定理四〇によって十全な観念です。したがってこのことが現実的に存在するその人間の精神のうちに起きるとき,その人間は原因である十全な観念から結果の観念へと移行することになるでしょう。そしてこのことは必ず生じるのです。
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ニューイヤーカップ&表象像の対比

2023-01-11 19:15:52 | 地方競馬
 第66回ニューイヤーカップ
 先行したのはスイフトランナーとワラ。2馬身差でハセノゴールドとポリゴンウェイヴ。直後にウインドフレイバーとサムタイムアゴー。2馬身差でアメノオシホミミとピノホホッアという隊列で発馬後の正面を通過。コーナーワークでスイフトランナーが単独の先頭に立ちましたが,向正面に入るとまたワラが並び掛けていき,単独の3番手に上がったポリゴンウェイヴとの差は4馬身くらい。3コーナーにかけてその差が1馬身くらいに縮まっていきました。超ハイペース。
 向正面で後方から捲り上げてきたのがピノホホッア。ワラ,スイフトランナーの順で後退していき,最終コーナーにかけてポリゴンウェイヴとピノホホッアが併走になり,外のピノホホッアが前に出て先頭で直線に。一旦は捲られたポリゴンウェイヴでしたが直線に入ると今度はピノホホッアの外に出し,また差を詰めていくと差し切って優勝。ピノホホッアが半馬身差で2着。ピノホホッアが捲り切った後に外から捲り追い込んできたアメノオシホミミが3馬身差で3着。
 優勝したポリゴンウェイヴは南関東重賞初制覇。このレースは出走したどの馬が勝ってもおかしくないという混戦。捲られたのを差し返して勝つというのはなかなかできない芸当で,かなりの闘争心を持ち合わせた馬だといえそうですが,そういうメンバー構成での勝利なので,優勝自体をどこまで評価してよいのかは悩ましいところです。距離が延びるのはプラスに思えますが,今日のレースが8戦目なので,心身の消耗はクラシックに向けてやや懸念されるところではないでしょうか。母の父はキングカメハメハフロリースカップガーネットの分枝。母のひとつ上の半兄に2014年に福島記念,2015年に金鯱賞を勝ったミトラ。Polygon WaveはPerfumeの楽曲名。
 騎乗した大井の笹川翼騎手は習志野きらっとスプリント以来の南関東重賞16勝目。ニューイヤーカップは初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞58勝目。第57回,58回,62回,64回に続き2年ぶりのニューイヤーカップ5勝目。

 第五部定理四二備考の無知者が存在することをやめるといわれている部分を,表象像imagoとの関連で理解するためには,ある人間がAの表象像からBの表象像へと移行し,かつそれらの表象像が表象像であることに気付いていない,つまりそれらの表象像が混乱した観念idea inadaequataであるということを知らないということが前提で,この前提条件を満たしたときに,Aの表象像について,Aの無知者であることをやめるというように解する必要がありました。同じ備考Scholiumの賢者が存在することをやめないということをそれとの対比で解するなら,Aの表象像もBの表象像も混乱した観念であるということに気付いた上で同じ移行が果たされるか,そうでなければ,表象像すなわち混乱した観念ではなく十全な観念idea adaequataが移行することについていわれているか,そうでなければ十全な観念であれ混乱した観念であれ,ある観念から別の観念へとは移行しないといわれているかのどれかであることになります。
                                   
 このうち,最初の対比は成立しません。表象像が混乱した観念であるということに気付いているということは賢者の必要条件のひとつであるといっていいと僕は考えますが,人間の精神mens humanaが何かを表象するimaginariということ,いい換えればある事物を混乱して認識するcognoscereということは,それ自体では賢者なり自由の人homo liberなりの所業であるというわけではなく,無知者や奴隷の所業だといわなければならないからです。したがって,賢者の存在を云々するときに,その賢者の精神のうちに混乱した観念があるということを前提するのが不自然であることになるからです。いい換えれば,無知者についていわれている場合には現実的に存在する人間はだれしもが事物を表象する,事物を混乱して認識するということを前提とする必要があるのですが,賢者について何かがいわれている場合には,それを前提することは不要である,というか前提してはならないのです。
 このことから,ある観念から別の観念へとは移行しないということがいわれているのであれば,その場合にも混乱した観念を前提することはできません。というか表象像の移行は第二部定理一七の様式で,現実的に存在するすべての人間に生じることです。
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ALSOK杯王将戦&メカニズム

2023-01-10 19:31:39 | 将棋
 一昨日と昨日,掛川城二の丸茶室で指された第72期王将戦七番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太王将が7勝,羽生善治九段が1勝。
 掛川市長による振駒で藤井王将が先手となり,羽生九段の一手損角換り1-Ⅱ。相早繰り銀の将棋になりました。先手が進出させた銀が後手の左銀と交換に。後手はその銀を飛車取りに打ちました。これは1筋の突き合いがなく,先手が飛車を定位置に引きにくかったためのもの。この打った銀が先手陣に成り込み,先手が銀を打ってその成銀との交換を迫ったところで封じ手に。
 封じ手で銀を取れば先手は金で取り返すほかなく,その局面で後手がどう指すか難しかったので,後手はその前に封じ,その局面を夜のうちにも考えたものと推測されます。このために時間を消費することになりましたが,その難解な局面をクリアしましたので,時間を消費したかいがあったと思います。
 これに対して先手はただのところに銀を打っていきました。これは後手が金で取れば飛車を成り込んでよしというもの。後手は飛車取りに銀を打ち返し,先手が金と桂馬,後手が飛車を取る振り替わりに。このとき先手が一旦は飛車を逃げて飛車を取られる位置を変えたのですが,それで後手は苦しむことになったようです。
 この後,後手は桂馬を打たれるのを防ぐために歩で歩を取り込んで取らせ,歩を受けるという手順を採用。ただそれに対して先手が歩を突き捨ててから歩がいたところに桂馬を打つという手順に進め,そこでリードを奪いました。AIは銀を引いて受けることを推奨していましたが,感想戦でもあまり取り上げられなかった手順で,人間的にはそれでは後手が苦しいという判断だったようです。
                                        
 藤井王将が先勝。第二局は21日と22日に指される予定です。

 現実的に存在するある人間が,何らかの能動的感情に刺激されていたとしても,もしその人間がそれと相反するより強力な受動感情に刺激されるafficiなら,第四部定理七が適用されます。つまりその人間は,その受動的感情に刺激されることになるでしょう。これはそれ自体でみれば自由の人homo liberから奴隷になるということであり,同じことですが賢者から無知者になるということです。ただこのようなことはだれにでも生じることなので,それだけで賢者と無知者あるいは自由の人と奴隷を分類することはできません。すでに考察したように,受動感情に対して賢者と無知者,自由の人と奴隷とを分かつのは,受動感情に刺激されたときにどのような対処をするのかということであって,受動感情に刺激されるか否かということではないからです。したがって,能動的感情を感じていた人間が,それに相反しかつそれより強力な受動感情に刺激されるなら,そのときにさらにそれより強力で相反する能動的感情でそれを抑制するのが賢者ないしは自由の人であるということになります。いい換えれば,常に受動感情に対してそのような対処をするのが賢者なのであって,その限りにおいて賢者は賢者としての存在をやめることはありません。第四部定理七は一般的な定理Propositioなので,個別の受動感情すべてに対して適用することが可能です。したがって,第五部定理四二備考で賢者は存在することをやめないという意味のことがいわれるとき,それを受動感情とのみ関連させて解釈する場合には,賢者は受動感情を除去しまた抑制するメカニズムを知っている限りで賢者であることをやめることはないというように解するのが適切だと僕は考えます。少なくとも現実的に存在する人間が,ある能動的な感情affectusに刺激されれば,その感情に刺激し続けられることによって賢者であることをやめないという解釈は誤りであって,そのようなことは現に生じ得ないと僕は考えます。
 受動感情の場合はこのような解釈になりますので,今度は表象像imagoあるいは混乱した観念idea inadaequata一般の場合について探求します。この場合も同じ備考Scholiumで無知者については存在することをやめるといわれていることとの対比だと仮定します。
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ニシノフラワー&対比

2023-01-09 19:11:05 | 名馬
 中山大障害を勝ったニシノデイジーの3代母はニシノフラワーです。母はデュプリシト
 2歳の7月に札幌でデビュー。ダート1000mの新馬を4馬身差で勝つと当時は芝の1200mだった札幌2歳ステークスに出走。3馬身半差のレコードタイムで優勝。早々に重賞制覇を達成。さらに11月に行われていた芝1400mのデイリー杯3歳ステークスも勝つとシンコウラブリイらを相手に阪神3歳牝馬ステークスも勝って大レースを制覇。4戦4勝の成績でこの年のJRA賞の最優秀2歳牝馬に選出されました。
 3歳の初戦となったオープンだったチューリップ賞は2着。これにより主戦騎手が変わった桜花賞は3馬身半差の快勝で大レース2勝目。オークスは7着に敗れました。
 秋の初戦のローズステークスは4着。当時は3歳牝馬限定であったエリザベス女王杯は3着。この一連の成績を考慮して当時は暮れに行われていたスプリンターズステークスに出走すると中団から差し切って優勝。大レース3勝目をあげました。この年のJRA賞では最優秀3歳牝馬と最優秀スプリンターをダブル受賞。
 4歳初戦のマイラーズカップは3馬身半差で快勝。安田記念は着差は大きくはないものの10着に敗れました。なぜか宝塚記念に出走してメジロマックイーンの8着。
 秋初戦のスワンステークスと続くマイルチャンピオンシップはいずれもシンコウラブリイの3着と13着。連覇を狙ったスプリンターズステークスは前年は6着に降していたサクラバクシンオーに逆転されての3着。これで競走生活から退きました。
 繁殖牝馬としてはオープンの勝ち馬や重賞の2着馬は産んだのですが,重賞勝ちには手が届きませんでした。ニシノデイジーの札幌2歳ステークスが,子孫の初めての重賞制覇でした。

 第五部定理四二備考の無知者について語られている場面で,無知者が存在することをやめるといわれているのがどのような意味を有しているかは,概ね理解することができました。前もっていっておいたように,『はじめてのスピノザ』の中では,その具体的な事例が著者である國分によって説明されています。ただしここではそのことの前に,國分がそこで語っていない事柄の考察を先に済ませておくことにします。
                                         
 同じ備考Scholiumの中で賢者について語られている部分では,賢者は賢者としてみられる限りでは存在することをやめることはないという主旨のことがいわれています。なぜ賢者は存在することをやめないとはいわれずに,賢者としてみられる限りでは存在することをやめないといわれているのかという点についてはすでに考察してありますから,今はそのことは繰り返しません。ただ,ここで存在することをやめないといわれているのは,明らかに無知者が存在することをやめるといわれていることの対比です。この対比をどのように理解すればよいかということが,ここからの考察の中心的課題となります。
 まず,受動感情に刺激されているとき,無知者が存在することをやめるといわれるのは,第四部定理七の様式である受動感情から別の受動感情へ移行するとき,移行する前の感情affectusについてそれにとらわれるつまり刺激を受けるaffici存在であることをやめるという意味でした。これとの対比で考えると,賢者は,能動的感情から別の能動的感情へは移行することがないので,存在することをやめないという意味になるでしょう。僕はこのように解釈しても間違いではないと思いますが,第四部定理七というのは,受動感情だけに適用される定理Propositioであるというわけではなく,能動的感情にも適用されるのですから,あまり好ましくない解釈であるとも思います。能動的感情が受動的感情を抑制したり排除したりするのは,その能動的感情が受動的感情よりも強力である限りにおいてです。ということは,現実的に存在するある人間が何らかの能動的感情を抱いているときに,それよりも強力な受動感情に刺激されれば,その能動的感情もまた抑制されまた排除されるからです。
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セイウンスカイ&表象像の移行

2023-01-08 19:20:50 | 名馬
 中山大障害を勝ったニシノデイジーの祖母の父はセイウンスカイという馬です。
 3歳1月にデビュー。このレースを勝つとオープンも勝ちました。弥生賞はスペシャルウィークの2着でしたが皐月賞を4コーナー先頭の競馬で勝って重賞初勝利を達成するとともに大レースを制覇。このレースは半馬身差の2着がキングヘイローでさらに1馬身差の3着がスペシャルウィーク。ダービーはスペシャルウィークの4着でした。
 秋は古馬相手の京都大賞典で復帰。逃げ切って重賞2勝目。このレースは3着がシルクジャスティスで4着がステイゴールドというメンバー構成で,少頭数でしたが精鋭揃いでした。さらに菊花賞も絶妙のペース配分でスペシャルウィークに3馬身半差をつけて逃げ切り勝ち。大レース2勝目となりました。有馬記念は1番人気に推されたもののグラスワンダーの4着。
 4歳春は日経賞で復帰。重賞4勝目をあげて天皇賞(春)へ。ここはスペシャルウィークの3着。
 札幌記念に出走するとそれまでとは違う,中団に控える競馬をして重賞5勝目。天皇賞(秋)は1番人気でしたがスペシャルウィークの5着でした。
 このレースの後に故障を発生。そこで引退でよかったと思うのですが,復帰を目指し,6歳のときに天皇賞(春)に出走しました。テイエムオペラオーが勝ったこのレースは大差のしんがり負け。そのまま引退となりました。
 種牡馬としては大した実績を残すことはできませんでした。父が安定した成績を残すタイプの馬ではなく,この馬は特異に走ったという一発屋タイプ。この馬もおそらくそういうタイプだったのですが,繁殖牝馬と相性で,そういう馬が輩出できなかったということだと思います。

 第四部定理四二備考でスピノザが無知者について,存在することをやめるといっていることを,人間の精神mens humanaが事物を表象するimaginariということと関係させて正しく理解するためには,人間の精神が事物を表象するということ,とくに第二部定理一七の様式で,ある表象像imagoから別の表象像へと移行するということと関連付けて正しく理解するためには,この表象像の移行に際して,どのような場合が自由の人homo liberまた賢者といわれ,どのような人が奴隷または無知者といわれるのかということの規準に適合させなければなりません。
                                   
 この定理Propositioによる表象像の移行は,現実的に存在する人間の精神のうちに必然的にnecessario生じる移行です。したがってその人間が賢者であろうと無知者であろうと関係ありません。いい換えれば,自由の人も事物を表象しかつその表象像から別の表象像へ移行するのですし,奴隷もまた事物を表象し,その表象像からほかの表象像へと移行するのです。ただ自由の人あるいは賢者は,その表象像が表象像であるということつまり混乱した観念idea inadaequataであるということを知っているのに対し,奴隷あるいは無知者はその表象像が表象像であることいい換えれば混乱した観念であるということを知らないのであり,単に知らないというだけでなく,それを真理veritasであると思い込んでいるのです。
 よってこの場合も,無知者は無知者としての存在existentiaをやめているわけではありません。ただ,Aの表象像からBの表象像へ移行するときには,その無知者はAに関して無知者であるということはやめるのであって,それをやめたかわりにBに関する無知者に移行するのです。なのでAに関する無知者であることに限定すれば,その無知者は無知者としての存在をやめることになるでしょう。受動感情の場合は,ある感情affectusから別の感情に移行するときは,単にある感情に刺激されているということだけで理解すればよいのですが,表象像から別の表象像へと移行するときには,単に事物を表象しているという点だけで理解すればよいというものではなく,それと同時にその表象像が混乱した観念であることを知らず,十全な観念idea adaequataであると思い込んでいるということも加えて理解する必要があるのです。
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鳳凰賞典レース&規準

2023-01-07 19:25:05 | 競輪
 立川記念の決勝。並びは新田‐佐藤の福島,松井‐郡司‐和田‐岡村‐高橋の南関東で佐々木と北津留は単騎。
 新田がスタートを取って前受け。3番手に佐々木,4番手に松井,最後尾に北津留で周回。残り3周のバックから松井が佐々木との車間を開け始め,ホームから発進しました。新田は引かずに郡司の横で粘る競走に。結果的に2番手以下は内が新田‐佐藤‐佐々木,外が郡司‐和田‐岡村で併走になって打鐘。競り合いが長く続き,バックに入るところで新田が奪いました。郡司は下りて新田の後ろに入ろうとしましたが佐藤と接触して自転車が故障したようでずるずると後退。最後尾に構えていた北津留が捲ってくると番手を奪った新田が発進。最後まで北津留を出させずに優勝。北津留が4分の3車身差で2着。こちらも自転車が故障してしまった佐藤は新田に続けなかったので,逃げ粘った松井が2車身差で3着。
 優勝した福島の新田祐大選手寛仁親王牌以来の優勝。記念競輪は一昨年の伊東温泉記念以来となる9勝目。立川記念は初優勝ですが,2010年暮れのSSカップみのりでビッグ初優勝を達成したのが立川でした。このレースは松井が先行して郡司が番手捲りとなればだれも太刀打ちすることができません。なので勝つためには分断策しかなく,新田がそれに出て,優勝をもぎ取ることになりました。松井に前受けされては突っ張られるでしょうから,前を取ったのもよかったと思います。そういう意味では1番車を得ていたのも大きかったでしょう。脚力だけでは以前ほどには他を圧倒して勝つということはできなくなってきていますので,今日のような競走が今後も増えていくかもしれません。

 スピノザは虚偽falsitasはそれ自体では否定しません。しかし誤謬errorは否定します。一方,知性intellectusのうちに虚偽があるだけでは,否定はしませんが肯定するaffirmareこともありません。しかし知性のうちに虚偽があり,同時にその知性がそれを虚偽であるということを知っている場合は,その虚偽を肯定します。これに関しては全面的に肯定するといっていいでしょう。したがって,スピノザが自由の人homo liberおよび賢者を肯定して,奴隷および無知者を否定していることをそのことと比例させて解するなら,現実的に存在するある人間の知性のうちに虚偽すなわち混乱した観念idea inadaequataがあるだけでは,その人間を自由の人ということはできませんが,奴隷ということもできません。同様にその人間を賢者ということはできませんが無知者ということもできないということになります。賢者と無知者,自由の人と奴隷とを分かつ規準は,この場合には,その虚偽を真理veritasと思い込むのかそれとも虚偽であると知っているのかという点にあるとみなすべきだと僕は考えます。
                                   
 現実的に存在する人間の精神mens humanaの一部は,必然的にnecessario混乱した観念によって構成されます。これはすでに示した通りなのであって,人間の精神は,人間の身体humanum corpusほどには複雑に組織されていない個物res singularisいい換えれば物体corpusの精神よりも,多くの混乱した観念で構成されることになります。ただそのことは,人間の精神が事物を知覚するpercipere適性が高いということを示すのであって,必ずしも否定的に評価する必要はありません。むしろ知覚perceptioの適性度という観点だけでいえば肯定的に評価されるべき事柄です。ただそうした知覚つまり表象imaginatioはそのすべてが混乱した観念なので,もしもそれは十全な観念idea adaequataであると思い込んでしまうのなら,その人間は奴隷とか無知者といわれるべきでしょう。しかしそれとは逆に,それが混乱した観念であるということを知っている,自覚しているのであれば,その人間は賢者でありまた自由の人といわれるべきなのです。
 自由の人とか賢者というのは,能動actioとくに精神の能動actio Mentisについてそういわれるのであり,表象というのは受動passioです。しかし表象像imagoを表象像と知る,つまり受動を受動と知るのは,精神の働きactioと解してよいのだと思います。
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銀河戦&肯定の条件

2023-01-06 18:48:56 | 将棋
 12月27日に放映された第30回銀河戦の決勝。対局日は10月31日。その時点での対戦成績は藤井聡太竜王が3勝,高見泰地七段が0勝。
 振駒で藤井竜王が先手となって角換わり。先手の腰掛銀に対して後手の高見七段が4一に飛車を回り,その形から先手が仕掛けていく将棋。どうも後手の作戦はあまりうまくいっていなかったようです。
                                        
 第1図で後手は☖2三歩と受けました。この手が直接的な敗着になったようです。先手は☗4五桂と跳ね☖2二銀に☗1五歩☖同歩の突き捨てを入れて☗4四歩と押さえました。後手は☖8一飛と戻りましたが,これは作戦の失敗を認めたようなもの。先手は力を足して☗5五銀。
                                        
 第2図は中央を制圧して先手が大きくリードしています。後手としてはこの展開は避けなければならず,よって第1図では☖4四歩と受ける方がまだ頑張りがききました。
 藤井竜王が優勝。第28回以来となる2年ぶり2度目の銀河戦優勝となりました。

 スピノザも受動passioについてあるいは表象imaginatioについて,一定の肯定的評価を与えています。それが第二部定理一七備考です。ただそこでは,表象が人間の精神mens humanaの長所であることを肯定するaffirmareために,ひとつの条件が設定されています。それは表象が表象であることを知っているという点です。
 何度かいっているように,これはスピノザが虚偽falsitasと誤謬errorを厳密に分けていることと関連します。スピノザの哲学における虚偽とは,知性intellectusの一部を構成する混乱した観念idea inadaequataのすべてをいいます。表象像imagoは混乱した観念のひとつであり,かつ現実的に存在する人間の精神のうちにある混乱した観念のほとんどは表象像ですから,人間の精神にとっては,虚偽と混乱した観念はほぼ同じ意味を表すと解釈してそれほど問題ありません。ただ,ある人間の精神のうちに虚偽があることは,単にそれだけでみるなら人間の精神の欠点を意味するのではありません。表象像は基本的に第二部定理一七の様式,すなわち現実的に存在する人間の身体humanum corpusが外部の物体corpusに刺激されるafficiという様式を通してその人間の精神のうちに発生するのですが,第二部自然学②要請三により,人間の身体というのは多くの外部の物体から多くの様式で刺激されますから,人間の精神のうちにはきわめて多くの表象像が発生することになります。ただそれは人間の精神のうちに多くの虚偽が発生するということであり,それ自体で人間の精神の欠点というわけではありません。たとえば人間の身体ほどには多くの物体に刺激されない物体があるとして,その物体は人間の精神ほどには多くの物体を表象しないことになりますが,だからそうした物体の精神が人間の精神よりも優れているということは必ずしもできないからです。第二部定理一四は,ある物体の精神が事物を知覚するpercipere適性について一般的に説明していると解することもできますが,それでみれば人間の精神はその適性が高いのであって,適性が低い精神よりも優れているという見方もできるでしょう。
 ただ,虚偽を真理veritasと思い込むことに関しては,スピノザは否定的です。つまり,混乱した観念を十全な観念idea adaequataと思い込むことについては否定的なのであって,これが誤謬といわれます。
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棋王戦コナミグループ杯&受動の肯定

2023-01-05 19:04:55 | 将棋
 12月27日に指された第48期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第二局。
 振駒で藤井聡太竜王の先手となり,佐藤天彦九段の横歩取り。☖3三桂戦法を採用しました。この将棋は後手がとりたてて悪い手を指したわけではないのですが,先手が的確な指し手を続けることによって,典型的な藤井曲線が描かれて先手が勝つという一局でした。
                                        
 最大の分岐はこの局面であったようです。
 実戦はここで☖5四歩と突いたので,☗8五歩☖6四飛☗2六歩☖3七歩☗3九金☖5五角☗同飛☖同歩☗2五歩と進み,飛車角交換で先手の桂得に進みました。この駒得が大きく先手がはっきりとリードすることになりました。
                                        
 第1図は☖8七歩☗9七角☖9五歩と進めるのがよかったようです。それで後手がよいわけではないのですが,実戦ほどのビハインドを背負う展開にはなりませんでした。
 藤井竜王が勝って挑戦権を獲得。棋王戦五番勝負は初出場。第一局は来月5日に指される予定です。

 集中力が増すとは一般的には肯定的に評価されることです。そのこと自体は僕も否定しません。また,スピノザも否定するnegareことはないと僕は思います。集中力が高まるというのは,精神の能動actio Mentisの度合いが高まるという意味ですから,それは第四部定義八により徳virtutemといわれるからです。徳が高まることを否定的に評価するということはあり得ませんし,それをフラットに評価する,つまり否定はしないけれど肯定もしないというのもあり得ないだろうと考えるからです。ただしどんなに集中力が高まった状態,つまり精神の能動の度合いが増した状態であっても,第四部定理四系は妥当する,つまりいくらかの受動passioにはその人間は隷属しているのであって,僕はそのこと自体も肯定的に評価します。他面からいえば,どんなに精神の能動の度合いが高まっていたとしても,その人間は何らかの表象imaginatioはしているのであって,そのこと自体を僕は肯定的に評価するということです。
 なぜ僕がいくらかの受動を肯定的に評価するかといえば,それは次のような理由によります。もしも人間の精神mens humanaが能動の状態にあるときには,その人間は一切の受動に隷属しないと仮定しましょう。するとその人間は,何の表象もしないことになります。よってそのときにはその人間は,たとえば大きな地震の揺れがあったとしても,それを知覚しないということになります。しかしもしも本当にそのようなことが生じるとしたら,精神の能動は肯定的に評価されるどころかむしろ否定的に評価されなければならないでしょう。そのようなことは第三部定理七に反するといわれなければならないからです。要するに,自己の有suo esseに固執するということは人間の現実的本性actualem essentiamなのであって,その現実的本性から人間は,どんなに集中力が増したとしても,いい換えればどれほど精神の能動の度合いが増したとしても,いくらかの受動には隷属するのです。つまり,人間は生き延びていくために,常に受動に隷属する必要があるのであって,そのために僕は人間が常に受動に隷属していること,いい換えれば何らかの表象をしているということを肯定的に評価するのです。
 よってこの場合は別の評価規準が必要になります。
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リコー杯女流王座戦&集中力

2023-01-04 19:17:23 | 将棋
 昨年の12月23日に指された第12期女流王座戦五番勝負第五局。
 振駒で里見香奈女流王座の先手となり角道オープン中飛車。後手の加藤桃子女流三段から角を交換して,先手の美濃囲いに後手も左美濃という戦型に。先手から仕掛けていく将棋になりましたが,後手が駒得の分かれになり,そのあたりは後手が相当よくなったのではないかと思います。ただ決定打を放つことができず激戦に。
                                        
 長い戦いの末に第1図は逆転して先手がよくなっているようです。ここで☗1八王と逃げれば先手が勝てたようですが,☗1七王と逃げました。これは敗着になりかねない一手でした。
 後手は☖3四金と取って☗同金に☖3三飛。これが金の入手を狙った一着。☗同金☖同桂の瞬間は先手玉が☖2八角以下の詰めろになっているので☗3九金と打って受けました。
                                        
 ここで桂馬が跳ねたのを生かして☖2五桂と二段跳ねで王手をしたのですがこれが敗着。☗1八王と逃げた形は先手玉に寄りがありませんでした。第2図では☖1五歩が最善で,それなら後手が有望であったようです。
 里見女流王座が勝って3勝2敗で防衛第3期,6期,7期,8期,11期に続く連覇で6期目の女流王座獲得です。

 自由の人homo liberと奴隷,また賢者と無知者の関係を表象像imagoにおいて考える場合は,注意しておかなければならない点があります。人間の精神mens humanaが外部の物体corpusを,これは外部の物体に限らず,自分の身体corpusや自分の精神の場合も同様で,一般に何事かを表象するimaginariときには,その精神の受動passioを意味します。ただこの受動には,第四部定理四系が適用されます。いい換えれば,人間の精神は常に何事かを表象しているのであり,この限りにおいては現実的に存在するすべての人間は,奴隷でありまた無知者であるといわなければなりません。ただしこのことは,人間の精神の欠点というより長所であるとみることができます。どういうことであるか,詳しく解説していきます。
 受動と能動actioは対義語であって,人間の精神は,というかどのようなものであれ,それは能動的であるかそれとも受動的であるかのどちらかです。いい換えれば,働いているか働きを受けているかのどちらかです。ただ,人間のように,きわめて多くの個物res singularisによって構成されているひとつの複雑な個物の場合は,その全体を細かく分けることができますので,部分的には働いていて,部分的には働きを受けているということが生じ得ます。これは一般論であって,このことが,人間の精神にも適用されるのです。つまり人間の精神は,働いているときにも働きを受けるpatiということがあるのです。あるいはそういうことができるといってもいいかもしれません。
 精神の能動actio Mentisというのは,一般的には現実的に存在するある人間が,理性ratioに従って事物を概念するconcipereことをいいます。これは第二種の認識cognitio secundi generisで,第三種の認識cognitio tertii generisも精神の能動を意味しますが,ここではそれは置いてきましょう。第二種の認識も第三種の認識も同じ精神の能動であって,それが働いているときにも同じ精神が働きを受けることがある,あるいは現に働きを受けているという点では変わりはありません。
 現実的に存在する人間の精神が働いているときにも働きを受けているということには,程度には差があります。一般的にはこれは集中力といわれるのであって,働きを受けることが少なくなればなるほど,より集中しているとか集中力が増しているといわれます。
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報知オールスターカップ&表象像の場合

2023-01-03 19:10:00 | 地方競馬
 北海道から1頭が遠征してきた川崎記念トライアルの第59回報知オールスターカップ
                                        
 9頭ということもありましたがあっという間に枠入りが完了して発走。逃げたのはカイルで2番手にエルデュクラージュ。3番手のキタノオクトパスまで差がなく続きました。2馬身差でアイアムレジェンド。5番手にサンビュート。6番手のスワーヴアラミスとフォルベルールの4頭は一団。3馬身差でマンガンとマイネルナイペスが最後尾を併走で発馬後の向正面を通過。正面にかけて前の3頭と4番手との差が縮まり,最後尾から追い上げてきたマイネルナイペスの8頭が6馬身くらいの一群に。マンガンが3馬身差で最後尾を追走という隊列に。スローペースでした。
 2周目の向正面でカイルにエルデュクラージュが並び掛けていくと3番手以下はキタノオクトパス,スワーヴアラミス,サンビュート,フォルベルールの順になり,マンガンがその後ろまで上昇。3コーナーでエルデュクラージュがカイルの前に出て先頭。外から捲り上げてきたサンビュートが単独の2番手となり,3番手にカイルとキタノオクトパス。キタノオクトパスの外からスワーヴアラミスが上がってきました。単独の先頭で直線を向いたエルデュクラージュはそのまま危なげなく後ろとの差を広げていき快勝。単独の2番手だったサンビュートの外から追い上げてきたスワーヴアラミスが3馬身差の2着。直線は伸びを欠いたサンビュートは2馬身差で3着。
 優勝したエルデュクラージュは南関東転入後はこれが初勝利となる南関東重賞初制覇。とはいえ昨年はこのレースで2着の後,川崎記念でも2着になっていたくらいですから,力量は上位でした。末脚を生かすタイプの馬が今日のように2番手につけて勝つことができたのは大きな収穫でしょう。9歳ですから大きな期待をかけるのは酷でしょうが,出走してくれば川崎記念でも侮れない存在だろうと思います。父はクロフネ。Ailes du Courageはフランス語で勇敢な翼。
 騎乗した大井の矢野貴之騎手はゴールドカップ以来の南関東重賞34勝目。報知オールスターカップは初勝利。管理している船橋の川島正一調教師は南関東重賞26勝目。報知オールスターカップは初勝利。

 第二部定理一七は,人間の精神mens humanaが外部の物体corpusを表象するimaginari様式を示しています。この様式は,外部の物体がその本性naturaを含むような仕方で人間の身体humanum corpusを刺激するafficereことによって生じるのですから,その人間の身体にとっての受動passioです。ということは第二部定理一三第二部定理七により,人間の精神にとっても受動です。つまり人間の精神が外部の物体を表象するということは,その人間の受動を意味します。よってその限りにおいて,その人間は無知者でありまた奴隷であるといわなければなりません。
 この表象像imagoは,その現在を排除する刺激を受けるafficiまでは観想し続けられるといっています。つまりそれまでは無知者でありまた奴隷である状況が継続するのです。しかし,排除するような刺激を受ければ無知者であることまた奴隷であることをやめるわけではありません。なぜならその表象像の現在を排除するように刺激を受けるということは,受動であることには変わらないからです。これは簡単にいえば,Xの表象像は,それを表象している人間の身体がほかの外部の物体からの刺激を受けなければその人間の精神はXを現在するものとして観想し続け,もしもYの表象像がXの表象像の現在を排除するなら,Xの表象像はその人間の精神から排除され,それに変わってYの表象像をその人間の精神は観想し続けることになります。そしてこのYの表象像は,それとは別の,たとえばZの表象像に変わることによって,その人間の精神のうちから排除されるでしょう。この関係が無際限に続いていくことになります。
 これでみれば分かるように,人間の精神は事物を表象する限りは無知者であり奴隷です。つまり無知者であることまた奴隷であることの存在をやめるわけではありません。ただ,Xの表象像がYの表象像に変わるとき,Xの表象像に限定するなら,その限りではXについての奴隷ないしは無知者であることをやめることになります。第五部定理四二備考で,無知者が存在をやめるということを,表象像の上で考えるなら,その備考Scholiumの意味はこのようなことになります。つまりこの備考の意味は,受動感情だけに限定して考える必要はありません。受動一般に通用します。
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KEIRINグランプリ2022&受動感情の場合

2023-01-02 19:20:58 | 競輪
 12月30日に平塚競輪場で争われたKEIRINグランプリ2022。並びは新山‐新田‐守沢‐佐藤の北日本と脇本‐古性の近畿で,平原と郡司と松浦は単騎。
 郡司,新山,平原の3人がスタートを取りにいきました。誘導の後ろに入ったのは新山でそのまま前受け。5番手に郡司,6番手に平原,7番手に松浦,8番手に脇本という隊列になりました。しかし残り5周の周回中に松浦が動いて新田の外へ。新田が一旦は引いたので,2番手に松浦で3番手が新田。6番手に郡司,7番手に平原,8番手に脇本という周回に。残り3周に入ると新山が誘導との車間を少しずつ開けていき,呼応するように脇本も平原との車間を開け始めました。残り2周のホームで新田が松浦の外に追い上げ,ここからは競り。この競りは新田が制して新山の番手を守る形になりましたが,松浦がうまく新田の後ろに入って守沢が4番手になって打鐘。平原との車間を開けていた脇本はこのあたりから発進。ホームに入ると守沢が松浦の外まで追い上げました。脇本はバックにかけてその外まで追い上げ,新田は番手から発進。しかし脇本が古性と共に捲り切りました。古性の後ろには郡司がスイッチ。直線では古性も郡司も前との差を詰めましたがそれぞれ届かず,この並びのままフィニッシュ。優勝は脇本でマークの古性が4分の1車輪差の2着になり近畿のワンツー。郡司は4分の3車輪差で3着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は11月の福井FⅠ以来の優勝。グレードレースは9月の向日町記念以来。ビッグは8月のオールスター競輪以来で9勝目。グランプリは初優勝。このレースは新山が早い段階から駆けていくことが濃厚。北日本はラインから優勝者を出すのであれば,佐藤が3番手で守沢が4番手の方が,分断を狙われにくかったように思います。この並びだとだれかがそれをやる可能性はあり,松浦がその動きをみせました。新田はもう少し早い段階で番手から出た方がよかったと思いますが,後ろが競る形になったのでそれが難しかったかもしれません。いい換えれば北日本勢は松浦に当初の作戦を覆されたということになるでしょう。それでも隊列がさほど短くなったわけではありませんから,後方から番手捲りのさらに上を捲った脇本の強さが際立ちました。秋から調子を落としているとみていたのですが,元に戻っていたようです。元に戻っていれば現役では最強ですから,今年も大活躍してくれるでしょう。

 第四部定理七は,感情はそれに相反する,より強力な感情affectu fortiore, et contrarioによって抑制されまた除去され得るといっています。つまり,理性ratioそのものが感情を抑制したり除去したりすることはできません。よって賢者は,理性そのものによって感情を抑制しまた除去しようとしたりするのではなく,理性から生じる感情によって,受動感情を抑制しまた除去しようとするのであるということをすでに考察しました。ただ,ある受動感情が抑制されまた除去されるというのは,この様式だけで生じるわけではありません。受動感情はそれに相反する強力な感情によって抑制されまた除去されるので,もしAという人間が現実的に存在していて,Xという受動感情に刺激されているとして,その人間がXと相反しかつ強力なYという受動感情に刺激されるafficiときには,Xという受動感情は除去されるか少なくとも抑制されるからです。このとき,Aは賢者として受動感情を抑制しまた除去しているわけではありません。受動感情に刺激され続けているという点では,その感情がXからYになっただけで,変わるところはないからです。つまりAは無知者として存在し続けていることになります。ただ,もしAを,Xという受動感情に刺激されている人と限定してみれば,Xという受動感情に刺激されている限りでのAは,その限定された存在existentiaをやめることになります。第五部定理四二備考で,無知者が存在することをやめるといわれているのは,具体的にはこのような意味です。つまりある特定の無知者であることをやめるという意味で,その特定という限定を排除すれば,無知者は無知者として存在し続けるということになります。
 これは受動感情に限定した説明です。感情だけなく,受動passioを広く一般的なものとしてみた場合にも,現実的に存在するある人間が,ある特定の受動の存在であることはやめるけれども,受動する存在であるということ,つまりその特定の受動とは異なった別の受動の存在者であり続けるということがあります。受動感情に刺激される人だけが無知者あるいは奴隷といわれるわけではなくて,一般に働きを受けるpati限りで人は無知者といわれ奴隷といわれるのですから,その場合も説明します。
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